第一章⑤ ルキフェルとスザンヌ
二人は海から距離を取り、波止場の石段に並んで腰を下ろした。肩が触れそうな距離に、ルキフェルの胸の奥が微かにざわつく。スザンヌはルキフェルの横顔を覗いた。
「ねえ、ノワール。昨日のこと、少し覚えている?」
「……覚えている」
「そう。あなた、あんなに真剣に背を向けて……ちょっと恥ずかしそうだったわね」
「俺は、別に……」
ルキフェルは言いかけて、言葉が途切れた。スザンヌがふいに距離を詰めたからだ。近い。思ったより、ずっと。心臓が跳ねる。仮面の下で息を詰めながら、思わず頭をよぎる。
——なんだよ。仮面がなかったら……キスしてる距離だろ。
一瞬、言葉を失う。それだけでも十分すぎるのに、スザンヌは続ける。
「ノワール、あなたの声……やっぱり、好きかもしれない。声も好きだけど……その瞳も、綺麗で好きよ」
世界が止まった気がした。綺麗。その言葉だけが、ルキフェルの頭の中で反響する。
「……なんで?」
思わず聞いていた。自分でも驚くほど素直な声で。スザンヌは不思議そうに小首を傾げ、さも当然という顔であっさりと言う。
「なんでって……綺麗だから。この間、東洋の商人さんが見せてくれた緑の宝石に似てるなって思ったの。透き通ってて……見てると、つい魅入っちゃう感じ」
波の音がやけに遠くに聞こえた。ルキフェルの胸の奥がじんわりと温かくなる。今までそんな風に言われたことはない。これから先も、一生ないと思っていた言葉だった。気づけば、口が先に動く。
「……俺も。俺も、お前の声と……瞳が好きだ。綺麗だ」
一瞬の沈黙。ルキフェルは思わず背筋が凍った。
——やべ。俺、急にがっつきすぎじゃないか? 引かれたか……?
次の瞬間、スザンヌが鈴を転がすように笑った。
「ふふ。ノワール、正直なのね」
彼女の声音に、ルキフェルの胸の力が抜ける。よかった。変な奴だとは思われたかもしれない。でも少なくとも、嫌な奴ではないらしい。ルキフェルはスザンヌを見つめ、少し呆れたように言った。
「お前、案外おてんばだな」
スザンヌはふっと肩をすくめ、軽く笑う。
「こう見えて、三姉妹の三番目よ。それなりに自由に過ごさせてもらってるし、有名貴族だからと言って、全員がお淑やかなわけじゃないの」
「なるほど。で、今日も一人で港に来られるわけか」
「ええ」
「……まったく、貴族の令嬢というより、ただの強気な女だな」
「ふふ、強気で何が悪いの?」
スザンヌの笑みが昼間の港の光の中でほんの少しだけルキフェルの心を照らした。その後、スザンヌは少し首を傾げて柔らかく尋ねる。
「あなたの家族は?」
ルキフェルは一瞬視線を落とし、言葉を選ぶように答えた。
「俺は……実の親を知らない」
沈黙が一瞬漂うが、ルキフェルの声はすぐに温かみを帯びた。
「けど、俺を育ててくれた人たちがいて、今も俺を支えてくれる仲間がいる」
ルキフェルの脳裏にはフランソワの朗らかな表情、リュウの静かな笑み、アランの厳しいけれど信頼に満ちた表情、そして冗談交じりに自分を叱咤するジャスパーの顔が浮かんだ。
「仲間。それは、心強いわね」
スザンヌは微笑みながら、ルキフェルの言葉をじっと受け止めた。ルキフェルもまた彼女の視線を感じながら、海風に揺れる波止場を見つめ直す。スザンヌが海を見やった。白い日差しが海面を照らし、遠くを行く帆船の影が揺らめいている。
「海にいるって言ってたよね。それって……船に乗ってるの?」
スザンヌの問いかけは柔らかく、それでいてどこか憧れを含んでいた。ルキフェルは少しだけ視線を落とし、口元をかすかに歪めた。
「まあ、そんなところだ」
曖昧な返答。だがその声音には、海に生きる者特有の潮の匂いが滲んでいた。スザンヌはそれ以上詮索せず、ただ興味深そうに彼を見つめる。
「船の上って、どんな感じ?」
スザンヌの声が潮風に乗ってそよぐ。ルキフェルは少し考えて答えた。
「……静かな夜は、波が船底を叩く音しか聞こえねえ。けど嵐の時は、海が牙を剥く」
彼の言葉には長い航海の記憶が滲んでいた。スザンヌが少し身を乗り出して問う。
「怖くないの?」
「怖えよ。けど、怖いって気持ちは生きてる証拠だ。……海の上じゃ、それを忘れた奴から死ぬ」
スザンヌはルキフェルの言葉に一瞬黙り、やがて小さく微笑んだ。
「あなた、やっぱり優しいのね」
「は?」
不意を突かれて、ルキフェルは眉を寄せた。
「だって……あなたの言葉って、どれも“生きるため”の言葉だもの」
スザンヌの声は穏やかだったが、その眼差しは真っ直ぐで嘘を見抜くような透明さを帯びている。ルキフェルは思わず視線を逸らすが、仮面の奥に隠した頬が、わずかに熱を帯びていることに本人も気づいていた。
「……お前、変なこと言うな」
「ふふ。そう言うところが、また不器用で素敵よ」
スザンヌは楽しげに笑い、風に舞う髪を耳にかけた瞬間、海の光が彼女の横顔を照らし、ルキフェルの胸の奥に説明のつかない疼きが走った。触れてはいけない光のような美しさ。ルキフェルは視線を海へと投げた。波が昼の明かりを砕いて光る。その光が仮面の隙間から彼の瞳を照らしていた。
——俺は、何を求めてる?
胸の奥で問いが静かに疼く。彼女の声を聞くだけで心が落ち着くのは、なぜだ。見知らぬはずの女の瞳に、どうしてこんなにも惹かれる。スザンヌはそんな彼の心の動きを知らぬまま呟いた。
「ねえ、ノワール。海の上で見る夜明けって、どんな色なの?」
「……ああ。紫と金が混じる。空と海の境が消えて、世界が一度だけ、全部溶けるんだ」
「溶ける?」
「そうだ。何もかもが、ひとつになる。……あれを見たら、陸に戻る気が失せる」
スザンヌはルキフェルの言葉を、まるで詩のように受け止めた。
「きっと、あなたも……海と同じね」
「俺が?」
「ええ。深くて静かで、少し怖い。でも、その中に優しい光がある」
スザンヌの一言が、まるで心臓の奥を撃ち抜いたようだった。ルキフェルは息を飲む。どんな戦場で浴びた銃声よりも鋭く響いた。
「……お前、簡単にそんなこと言うな」
「どうして?」
「勘違いする」
「ふふ。いいじゃない、少しくらい」
スザンヌはそう言って笑った。その笑みは風に溶けて、彼の仮面越しに届いた。ルキフェルはほんの一瞬、手を伸ばしそうになるが、指先は空を掴むだけで止まった。もう目を逸らせない。少しの沈黙のあとルキフェルが口を開く。
「お前、よく変わり者って言われるだろ」
ルキフェルの声音は冗談めいていたが、言葉の端にどこか真剣さが滲んでいた。スザンヌはぱちりと瞬きをする。
「……変わり者?」
「ああ。貴族の娘にしては、ずいぶんと自由だ」
「そうかしら」
彼女はそう言って微笑もうとしたが、その笑みの奥に微かな翳りが生まれた。スザンヌの瞳が一瞬だけ揺れるが、すぐに顔を上げて毅然とした口調に戻した。
「ええ、そうね。そう言われたこと、何度もあるわ」
「気にしてるのか」
「いいえ」
きっぱりと否定する声だが、その声の奥に微かな震えがあった。ルキフェルは目を細める。
「強いふりをしてるだけよ」
スザンヌはそう言って、微かに唇を噛んだ。陽光がその頬を照らし、影が彼女の表情を柔らかく隠す。
——そうやって、守ってきたんだな。
ルキフェルは心の中で呟いた。孤独を笑みで隠す彼女の姿が、自分のそれと重なって見えた途端、胸の奥で何かが静かに鳴った。スザンヌの言葉に、ルキフェルは目を伏せて、息を吐いた。
「……俺もだ。俺も、よく強いふりをしてる。強く見せないと、生きていけない時があるだろ」
スザンヌは弾かれたように彼を見た。狼の仮面に宿る、翡翠の瞳。そこにあったのは同情でも好奇心でもなく、そっと寄り添うような眼差しだった。
「……ええ、わかるわ」
スザンヌは頷き、両手を膝の上で組んだ。海からの風が、彼女の髪をやわらかく揺らす。
「でも、本当のあなたはきっと優しい人ね」
「……どうだかな」
「少なくとも、私にはそう見える」
彼女の笑みは穏やかで波のように静かに広がった。その瞬間、ルキフェルはふと気づく。自分がいま、誰かの瞳の中に優しい人として映っている。それだけで、胸の奥にひとすじの温かい光が灯った。しばしの沈黙が落ちる。波止場を撫でる潮風の音だけが、ふたりの間を満たしていた。スザンヌはふと微笑み、仮面越しのルキフェルの顔をじっと見つめる。
「ねえ、ノワール」
「なんだ」
「あなたが笑うところ、見てみたい」
ルキフェルの肩がわずかに動いた。どうしてそんなことを言うのか、理解が追いつかない。
「……なんで、そう思う」
ルキフェルが少し掠れた声で問い返すと、スザンヌは首を傾げた。
「だって、あなたの声は温かいもの。冷たそうに見えて、ほんとはとても優しい」
ルキフェルは返す言葉を失った。潮の香りに混じって、彼女の声が心の奥深くまで染み込んでくる。まるで、閉ざしていた扉をノックされるように。
「……笑った顔、きっと素敵だと思うの」
スザンヌは恥ずかしそうに見つめてくるが、ルキフェルはそれでもはっきりと告げた。
「何があろうと、この顔だけは絶対に見せない。……悪いな。これだけは譲れねぇんだ」
スザンヌは少し目を伏せ、ルキフェルの言葉を反芻するように呟いた。
「……ノワールって、強いよね」
「なんでそう思う」
ルキフェルの問い返す声は淡々としていたが、その奥に僅かな警戒が混じっていた。スザンヌはその気配を敏感に感じ取りながらも、真っ直ぐに彼を見返した。
「だって、どんな時も平気な顔してそう。怒ってても、悲しくても、絶対にそれを見せない」
それから二人の間で、取り留めのない会話が続いた。子どもの頃の話や、好きな花、海の香り、どれも他愛ないことばかりだった。ルキフェルは内容をほとんど覚えていない。ただスザンヌが隣にいて、言葉を交わしているという事実だけで、胸の奥が温かく満たされていた。海風が穏やかに吹き、波が石畳の下で砕けては引いていく。その音が、彼女の声と重なり合って耳に心地よく響いていた。
やがて、空が橙色に染まり始める。遠くで鳴る鐘の音に気づいたスザンヌが、ゆるやかに立ちあがった。
「私、そろそろ戻らなきゃ」
ルキフェルも頷き、腰を上げかけた瞬間、スザンヌの身体がぐらりと傾いた。
「——っ、スザンヌ!」
ルキフェルは咄嗟に腕を伸ばし、倒れかけた彼女の身体を抱きとめた。華奢な肩が震え、スザンヌは小さく息を吐く。
「……だ、大丈夫。少し、立ちくらみで……」
「大丈夫、じゃないよな」
ルキフェルの声が低くなる。支える腕に無意識の力がこもった。スザンヌは苦笑を浮かべ、囁くように言った。
「ごめんね。恥ずかしいとこ見せちゃった」
彼女の頬にかかる髪を、ルキフェルはそっと払う。胸の奥に、小さな焦りと言葉にならない痛みが広がっていた。ルキフェルは彼女を支えたまま、しばらく黙っていたが、やがてスザンヌの呼吸は落ち着き、彼の腕の中から顔を上げた。
「ごめんなさい、驚かせちゃって」
「謝ることない」
ルキフェルはまだ離そうとしなかった。手に残る体温が、彼の胸の奥を静かに熱くする。スザンヌはそんな彼を見上げ、少しだけ微笑んだ。
「……ありがとう」
ルキフェルは目を逸らし、照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「当然だろ。見過ごせるわけない」
「……ふふっ」
スザンヌは小さく笑うと、そっと言葉を添えた。
「ねえ、ノワール」
「……ん?」
「今……初めて名前、呼んでくれたね」
ルキフェルは一瞬、息を詰めた。自分でも気づかぬうちに口にしていた名。その音が、彼女の唇から柔らかく返される。沈みゆく陽光が、二人の影を長く伸ばしていた。ルキフェルは言葉を失い、スザンヌの横顔を見つめる。そして心の中で、初めてスザンヌという名を本当の意味で刻んだ。スザンヌは小さく息を整えると、ふっと微笑んで身を離した。その仕草はどこか照れ隠しのようで、彼女自身もまだ胸の鼓動を持て余しているようだった。
「もう行かなくちゃ。……仮面は、あなたが持ってていいわ」
「いいのか?」
「ええ。あなたの方が似合うもの」
そう言って笑う彼女の横顔に風がそっと触れる。ルキフェルは彼女の背を見送ろうとしたが、口が動いた。
「……待て、スザンヌ」
スザンヌが振り返る。彼女の瞳に僅かに驚きと期待が交じる。ルキフェルは少しだけ息を呑み、ためらいがちに言葉を紡いだ。
「これから毎日、会わないか? お互い、この街にいる間だけでも」
潮の香りと遠くの鐘の音。スザンヌの声が微かに揺れる。
「それって、誘いのつもり?」
「いや……違う。いや、そうでもある、かもしれない」
ルキフェルは不器用に頭を掻き、視線を逸らした。スザンヌはそんな彼を見つめ、小さく笑う。
「いいわ。毎日は無理でも、できるだけ」
「……本当に?」
「ええ。約束よ」
そう言って、彼女は軽く裾を摘み上げ、優雅に一礼した。ルキフェルの胸の奥で、何かが静かに動き出す。まるで、長い海の旅の果てにようやく見つけた港のように。スザンヌの足音が波止場の石畳を軽やかに遠ざかった。夕陽に照らされた彼女の後ろ姿が、次第に人影の中に溶けていく。
ルキフェルはその場に立ち尽くしたまま仮面を外し、手の中の仮面をじっと見つめる。銀の縁に映る橙色の光が、まるで彼女の笑顔を切り取ったかのように瞬く。胸の奥で、知らぬうちに鼓動が早くなるのを感じた。また会いたい。言葉にせずとも自然と溢れてきた。手にした仮面をそっと抱き寄せる。彼女と向き合えた時間のひとつひとつが胸に温かく残る。声、仕草、笑顔がまた心を揺さぶっていた。
「これが、俺の願いだったのかな……」
小さく呟いた声が海風に溶けて消えていった。
毎日、会う約束。まだ冷たい海風の中、誰にも見せぬ小さな笑みが彼の唇に浮かぶ。
スザンヌの存在がこれからの日々をほんの少しだけ彩る予感がしていた。




