第一章④ ルキフェルとスザンヌ
ギャレーには、湯気と香ばしい匂いが立ち込めていた。簡素なスープと焼き魚、硬めのパン。波の音を聞きながらの静かな晩餐だ。ルキフェルはスプーンを口に運びつつ、ふと船内を見渡す。
「……それにしても、なんであいつらは帰ってこないんだ」
静まり返った船室。揺れるランタンの灯りに照らされた空間は、普段の喧騒が嘘のようにがらんとしている。ジャスパーはパンを齧りながらにやりと笑った。
「おやおや、お子様だな」
ルキフェルが眉をひそめる。
「は?」
「決まってるだろ。女と遊ぶためだよ」
ルキフェルは思わずスプーンを止め、呆れたようにため息をつく。
「……くだらねぇ」
「そう言うなって。陸に上がった船乗りなんて、酒と女と賭け事くらいしか楽しみがないんだ」
「俺はどれもいらねぇ」
「だろうな」
ジャスパーは笑いながらスープをすすった。
「お前は海と話してりゃ満足そうだ」
ルキフェルは睨みつけながらも反論しない。ふとスザンヌの声が脳裏を掠め、彼はため息を吐いた。
「よく知りもしない女と遊ぶ感覚がわからん」
「お前、ほんとに若いな。……っていうか、そういうお前もおれと同じだろ?女に興味ない組」
ジャスパーは笑いかけた瞬間、わざとらしく「あっ」と声を上げた。
「いや、違ったな。お前はもう興味津々だもんな」
ルキフェルの眉がピクリと動いた。彼の声音に、普段にはない棘が混じる。
「港の女と彼女を一緒にすんな。それと、俺は他の船員とは違う」
ジャスパーは目を細めて、わざと真面目ぶった顔で尋ねた。
「へぇ、じゃあ違うって言うなら、具体的には?」
ルキフェルは少し間を置いて答えた。
「他の奴らは女を粗末に扱うだろ? 俺は彼女を守るって決めたんだ」
言葉を吐き出したあと、ルキフェルはスプーンを握る手を見下ろした。その拳にはわずかに震えが宿っている。ジャスパーはスープの味を確かめるふりをしながら、にやりと笑った。
「——そういうとこ、嫌いじゃねぇよ」
やがて二人の器が空になった。ランプの炎が揺れ、潮騒が遠くで囁く。ジャスパーは手早く食器を片づけると、軽やかに自分のハンモックへ飛び乗った。
「んじゃルキフェル、あったかくして寝ろよ」
ルキフェルは苦笑した。
「お前は俺の母親か」
「だってよ」
ジャスパーはハンモックから覗き込むようにして笑った。
「この船でお前の味方する奴なんて、おれとフランソワ船長くらいだろ?」
ルキフェルは小さく鼻を鳴らしたが、表情にかすかな影が差した。
「……今日話したこと、他のやつに言うなよ。フランソワにも」
ジャスパーはハンモックの上で片手をひらひらと振った。
「へいへい、それじゃおやすみ」
それきり、二人の間に静寂が降りた。ルキフェルは灯りを一つ落としてから自室へと歩き出す。背中に残るのは、波の音とジャスパーの寝息だけだった。寝台に身を横たえても、眠気は訪れなかった。瞼を閉じれば、闇の底にスザンヌの姿が浮かぶ。風に揺れる銀の髪、陽光に照らされた睫毛の影、ふと見せた微笑。一つひとつが焼きつくように鮮明だった。彼女の声が、海よりも深く胸に残っている。思い出すたび、心臓が勝手に脈を打つ。息苦しい。けれど、不快ではなかった。
「……俺は、どうしたいんだよ」
呟きは自分自身への問いというより、誰かに救いを求めるような、かすかな懇願に近かった。潮の匂いが漂い、帆の軋む音が遠くで鳴る。夜の海は穏やかで、それがかえって眠れぬ心を映し出した。ルキフェルは毛布を握りしめたまま、閉じた瞼の裏に再びスザンヌの笑みを見た。胸の奥で何かが静かに芽吹いているのを、彼自身まだ知らない。
昼の港に、穏やかな陽光が降り注いでいた。昨夜ろくに眠れなかったルキフェルは、目の奥にまだ夜の名残を抱えながら港を歩いていた。肩には他の船員からこっそり拝借した厚手の外套。少し大きめで、袖が手の甲にかかる。それでも、潮風に晒されるよりはましだった。港は今日も喧騒と光に包まれていた。行き交う人々の声、荷を運ぶ掛け声、帆の擦れる音。その中をルキフェルは無言で歩いた。
目的の場所へ近づくにつれ、鼓動が少しずつ速くなっていく。あの銀色の髪が、また陽の下で揺れるのだろうか。あの瞳は、昨日と同じように自分を見てくれるのだろうか。そんな思いが胸をかすめるたび、足取りが微妙に鈍った。まるで、何かに怯えるように。
「何を怖がってるんだ、俺は……」
自嘲混じりに呟き、外套の襟を立てる。袖が手元まで覆い、フードを深く被ることで顔の輪郭はほとんど隠れていた。目の前に、昨日彼女と会話した場所が見えてきた。
陽光に照らされた白い石畳が眩しい。そこに、彼女はいた。
スザンヌ。昼の光の中で立つ彼女は白く艶やかな肌に、淡く光る髪が風に揺れている。淡い青のドレスが海風に揺れ、光の粒をまとっているようだった。その姿を見た瞬間、ルキフェルは言葉を失った。胸の奥で何かが、はっきりと音を立てて跳ねた。
——ああ、やっぱり。この感覚は、昨夜の夢の続きじゃない。現実だ。
彼は歩み寄るが、歩幅はどこか慎重で、まるで近づくほどに逃げ場を失っていくようだった。息を整え、フードをさらに深く被り直し、慎重に足を進める。石畳の感触、潮の香り、遠くで揺れる帆の音が彼の鼓動を高める。スザンヌは近づいてくる足音に気づき、外套の男に微笑みを浮かべた。
「ノワール」
その声は、昨日の波止場での響きよりも鮮やかに、胸の奥まで届く。ルキフェルは一瞬言葉を詰まらせた。
「昨日はありがとう」
彼にかける声は、潮騒よりも優しく響いた。ルキフェルは一瞬、息を詰まらせ、それからぎこちなく頷いた。
「……いや、礼を言われるようなことじゃない」
ほんのわずかに赤みを帯びた頬を隠すように、外套の襟をもう一度立てる。スザンヌは微笑みを浮かべ、軽やかな声で言った。
「やっぱり、顔を見せてはくれないのね」
ルキフェルはフードを深々と被り直すことで答えた。
「そう、仕方ないわね」
スザンヌの声に少しだけ残る諦めと柔らかさが混ざる。
「でも、昨日みたいに背を向けて話すのは寂しいわ」
ルキフェルはやや焦れた声で答えた。
「俺にどうしろと言うんだよ」
フードの中の視界は狭く、波止場の石畳や海面の揺れしか見えないが、その限られた視界の中に、スザンヌの手が差し伸べられるのが見えた。
彼女の手の中には、精巧に作られた狼の仮面が握られている。薄い影を落とす仮面は、昼光の下で微かに銀色に光った。
ルキフェルは一瞬、思わず息を呑む。仮面を差し出すその仕草に、彼女の微妙な意図と少しの遊び心が宿っていることを直感した。無言のまま仮面を受け取る。スザンヌの指先と自分の指が微かに触れた。手に伝わる温かさ、そして仮面の冷たさと重み、精巧に作られた狼の造形に、自然と指先が固まる。ルキフェルは手元にある仮面をじっと見つめて問いかけた。
「……それで、この動物はなんだ。犬か?」
スザンヌはふっと微笑み、少し肩をすくめて答える。
「狼よ。あなたに似合うと思って」
ルキフェルはわずかに体の力を抜き、フード越しに彼女の視線を想像する。口元だけが見えるデザインに、鋭さと野性味が同居している。
「……狼、か」
思わず頭の中で映像が浮かぶ。海の果て、森もなく、獣の姿を間近で見ることの少なかった日々。船の上で風と波に囲まれ、星と月を友とした日々のなかで、狼など実際に見たことも触れたこともなかった。だが今、スザンヌがこの生き物を自分に重ねて、手渡してくれたことの意味を、ルキフェルはかすかに理解した気がした。孤高で野性味があり、でもどこか守られるべき存在。まるで自分を映す鏡のように思えたのだ。
「そっか、狼というのか」
ルキフェルは微かに息をつき、スザンヌに背を向けた。フードをそっと外し、仮面を口元にあてる。装着を終えると、ルキフェルは静かに息を整えた。スザンヌは少しだけ身を引き、ルキフェルの背中を見つめていた。
「……ねえ、ノワール。顔、見せて」
ルキフェルは一瞬、眉をひそめたが、少し躊躇しながらもスザンヌの方へ向き直った。
「……どうだ」
スザンヌの瞳が細くなり、微笑みが零れた。
「よく似合うわ」
素直な賞賛の声に、ルキフェルの胸の奥でほんのわずかに熱が走る。普段は絶対に見せない心の動揺が、仮面越しの自分を通して微かに漏れた気がした。続けてスザンヌは少し楽しげに言葉を重ねる。
「私の母が言ってたの。よく男の人は狼に喩えられるって」
ルキフェルは少し間を置いて、淡々とだけ答える。
「そうなのか」
普段は冷静で孤独に耐える自分が、少女の純粋な言葉ひとつで簡単に揺れるのを感じていた。一方、スザンヌもまた微かに胸の奥が温かくなっていた。仮面越しの顔は見えないはずなのに、彼の背筋や声の響きだけで、なぜか安心と好奇心が入り混じる。
「……なんでまた会いたいなんて言ったんだ?」
ルキフェルは少し戸惑いながら問いかけた。心の奥底で、あの声を再び聞きたいという気持ちが渦巻いているのを自覚していた。
「なんでかしら……たぶん、あなたの声に惹かれたんだと思う」
「声?」
ルキフェルは聞き返す。耳を澄ませば、潮の香りの中にスザンヌの澄んだ声が、まるで空気に溶け込むように柔らかく響いていた。
「そう。あなたの声が、心に染み渡ってくるの。私……あなたの声をずっと聴いていたいのかも」
ルキフェルは思わず肩を震わせた。自分の声が誰かの心に届き、こうして特別な意味を持つなんて、これまで経験したことがなかった。胸の奥で温かい感覚がじわりと広がる。
「俺は、話すのが苦手なんだ」
ルキフェルは少し目を伏せた。
「できれば……ずっと、お前の話を聞いていたい」
スザンヌは少し息を飲み、柔らかく頷いた。ルキフェルは自分の髪を軽く整えると深く息を吸い込み、そっとスザンヌを見つめた。柔らかな陽光の中、シルバーブロンドの髪は波間の光を受けて輝き、少し色づいた頬が彼の視線を引きつける。均整の取れた輪郭、しなやかに伸びる指先、凛とした佇まい。
昨日も今日も彼の心を捕えて離さなかった、美しさそのものだ。その美しさは、ただ眺めるだけで心をざわつかせるものではなく、触れたら壊れてしまいそうな儚さを帯びていた。
ルキフェルは思わず息を飲み、目を逸らすこともできず、彼女を見つめ続けた。仮面という“盾”があるおかげで少しだけ恐怖心は薄れ、初めて彼は純粋に、スザンヌの存在を自分の目で確かめることができた。
スザンヌは少し視線を伏せ、困ったように微笑んだ。
「でも私、何を話したらいいか分からないの」
ルキフェルは仮面越しの顔を少し傾けて問いかける。
「話すのが苦手なのか?」
スザンヌは首を振り、穏やかに答えた。
「いえ、おしゃべりは好きよ。ただ、自分から色々話すと皆を困らせるから」
ルキフェルは少し面食らったように口を開く。
「女はお喋りが好きだと聞いたんだが……違うのか?」
スザンヌは頬にうっすら色を浮かべながら、微笑みを押し殺すようにして答える。
「そうね……私は自分の話で誰かを困らせたくないだけ。でもノワールなら、きっと大丈夫」
ルキフェルは心の奥がじんわりと温かくなりつつも、仮面の影で微妙に眉を顰めた。
「屋敷の中は息が詰まると言ってたな。貴族連中は優雅な暮らしをするもんだと思っていたが、堅苦しいのか?」
スザンヌは少し肩をすくめ、微笑みを浮かべながら答えた。
「外から見ると、貴族の暮らしはきっと華やかで優雅に見えるでしょうね。でも、実際の屋敷の中は規則や礼儀作法が多くて、自由に動ける時間なんてほとんどないの」
ルキフェルは海風に混じるスザンヌの声を聞きながら、彼女がどれだけ日常の束縛に苦しんでいるかを想像した。
「なるほど。見た目と中身は随分違うんだな」
スザンヌは少し顔を上げ、遠く海を見つめながら柔らかく言った。
「そう。だから私は、外の世界を少しだけ覗きたかったの」
ルキフェルは真剣な目でスザンヌを見つめた。
「だからと言って、今日も一人で来ることないだろう。誰か守ってくれる奴を味方につけろ」
スザンヌは涼やかな目でルキフェルを見上げ、口元に微笑を浮かべた。
「私は一人でも平気よ。それに、ノワールがいるから」
ルキフェルは一瞬、息を止め、ふと気づく。スザンヌはただ美しいだけの女ではない。強くしなやかで、揺るがぬ意志を持つ存在なのだと。その小さな勇気と信頼の光を胸に感じ、ルキフェルは少しだけ鋭い声で言った。
「俺が何もしないとは限らないぞ」
スザンヌは微笑を絶やさず、まっすぐにルキフェルを見つめた。
「そんなことない。信じているから」
ルキフェルは一瞬、言葉に詰まる。あの冷静な瞳に、無意識に心の奥を覗かれているような感覚を覚えるが、少しだけ心を緩める自分に気づいていた。スザンヌは軽く笑みを浮かべ、手をひらりと振る。
「ここで立ち話をしても仕方ないわ。あちらに座りましょう」




