第一章③ ルキフェルとスザンヌ
やがて少女の体に力が戻ると、ルキフェルは彼女から身を離して背を向けた。
「……ここは……?」
彼女の声は鈴の音を転がしたように澄み切っている。目を閉じて聞いていなければ、あの声の輪郭を掴み損ねてしまいそうなほど儚く、美しい。ルキフェルは振り返らずに答えた。
「波止場だ。……さっき、海に落ちた」
少女——スザンヌが自分の背後を振り返ると、濡れたシャツが張り付く背中と暗褐色の髪が腰を下ろしていた。混濁した意識の中に真っ直ぐ自分に届いた、あのよく通る声の持ち主がそこにいる。自分を覆う、黒い外套の持ち主。
「……あ、あなたが……助けてくれたの……?」
「ああ。たまたま近くにいただけだ」
スザンヌは濡れた髪をかき上げながら息を整える。ルキフェルは依然として背を向けたまま。自分の顔を見られたくない。今のこの自分を知られたくない。
「……お名前を……聞いても?」
「名なんてどうでもいい」
ルキフェルはわずかに苦笑しながら答える。
「でも……助けてもらったのに、知らないままでは……」
スザンヌの声には、かすかな戸惑いと礼節があった。
「私は……スザンヌ。スザンヌ・ブルボンと申します」
——ブルボン?
その名を聞いた瞬間、ルキフェルの身体がびくりと固まった。思わず振り向きそうになるが、必死に自制する。
——ブルボン……あの、王家と血縁にある名門の……?
自分の背中越しに、潮騒が一層大きく聞こえた。自分が助けたのは、ただの少女ではない。手を伸ばせば罰を受けるほどの身分差がそこにある。
「……ブルボン、だって……?」
「ええ……。でも、そんなに驚かれるようなこと……?」
スザンヌの声は純粋に不思議そうで。その無垢さが、ルキフェルの胸をさらに締めつけた。
「……いや、なんでもねぇ」
ルキフェルは息を整えた。波が砕け、白い飛沫が風に舞う。貴族の娘。自分とは、決して交わらない世界の住人。それでも、ルキフェルは背中越しに感じる彼女の息づかいから、離れることができなかった。スザンヌはしばらく息を整えていた。海風が濡れた髪を揺らし、波の音だけがふたりの間を満たしている。
「助けてくれて、ありがとう」
またあの声が濡れた世界の中にひと筋の光を落とした。ルキフェルは背を向けたまま、ほんの僅かに肩を動かした。
「気にするな。……怪我は?」
「大丈夫よ。」
彼女の声が潮の匂いに混じってふわりと届く。それがあまりにも優しくて、ルキフェルは不意に胸の奥を締めつけられた。やがてスザンヌは少し笑い、控えめに尋ねた。
「……お名前を聞いてもいい?」
ルキフェルは息を詰まらせる。
「……名乗るほどの者じゃない」
「そう……でも、呼び方がないのは不便だわ」
困ったように言って、スザンヌは少しだけ唇を尖らせた。ルキフェルは顔を見られないようにさらに縮こまった。やがて、スザンヌはルキフェル乗せを見つめたまま小さく微笑んだ。
「じゃあ、仮の名前をつけてもいい?」
「……好きにすればいい」
返す声はわずかに掠れていた。スザンヌは空を見上げるようにして呟いた。
「そうね……あなたは闇の中から来たみたい。なのに、どこか優しい影をしている…… ノワー”。黒のひと。黒い外套のあなたに似合うもの。……それでいい?」
ルキフェルは息を呑んだ。風が止み、波の音が遠のいた気がした。
「ノワール、か……」
その名を口の中で転がす。なぜか妙に馴染んでしまうのが悔しかった。
「悪くない」
そう言った声にはほんの少し笑みが混じっていた。スザンヌは彼の声に微笑み、まだ濡れた髪をかき上げた。
「じゃあ、ノワール。……あなたのこと、忘れないわ」
ルキフェルの胸の奥をまた少し熱くする。
「冷える。……それ羽織っておけ」
彼がそう言うと、スザンヌは少し驚いたようにルキフェルの背を見つめた。
「……ありがとう、ノワール」
その名が柔らかく唇から零れる。どこか名残惜しそうな声音を感じ取って、ルキフェルは立ち上がった。
「じゃあな」
彼はそのまま歩き出すが、スザンヌが慌てたように声を上げた。
「待って! 服が乾くまで、ここにいてくださらない?」
ルキフェルは思わず足を止め、振り返ることなく息を吐く。
「……分かった。少しだけだ」
ルキフェルはその場で腰を下ろした。スザンヌは彼の背中をそっと見つめる。昼の光の中で影のように静かなその背がなぜか胸を騒つかせた。
「ねえ、ノワール」
「なに?」
「……顔を、見せて」
その瞬間、ルキフェルの肩が僅かに強張った。
「……見るな」
スザンヌは唇を噛みしめた。不思議と悲しさよりも、興味と切なさが混ざったような想いに包まれていた。ルキフェルの横顔に触れることも、見つめることもできない。それが彼との距離をよりいっそう確かなものにしているようで。
「……どうして?」
「俺の顔を見て、楽しい気分になる奴はいない」
ルキフェルの背中には拒絶と悲しみが同居していた。陽に照らされた肩の線が、まるで孤独そのもののように静かだ。スザンヌは視線を落とし、海を見つめながら問いをこぼす。
「あなた、どこに住んでいるの?」
「海にいる」
ルキフェルの声の響きが潮の香りに混じって、風に溶けていった。スザンヌは微笑を浮かべ、陽の光に目を細めた。
「……海の人、ね」
ルキフェルは何も答えなかった。ただ、静かに潮の満ちてゆく音だけが続いている。彼はしばらく黙っていたが、ふと肩越しに声を落とした。
「こんなところで、貴族の令嬢が一人で彷徨いてんじゃねえ」
その声音は叱責でもなく、ただ呆れと警戒を滲ませたものだった。スザンヌは小さく首を傾げ、柔らかく笑った。
「お屋敷にいても、退屈だから」
「退屈?」
「ええ。何もかもがきちんとしていて、決められていて……少しでも外の風に当たると、息ができる気がするの」
そう言いながら、彼女は膝にかかる濡れたスカートを軽く握った。ルキフェルはため息をひとつ落とす。
「……物好きだな、あんた」
「あなたもでしょ?」
彼女の返しにルキフェルは一瞬だけ言葉を詰まらせ、わずかに唇を歪めた。
「自由ってのは、そんな綺麗なもんじゃない」
スザンヌはふわりと肩を揺らし、軽く笑った。
「そうかもしれないわね。でも、少しでも外の風に触れたいの」
ルキフェルは顔を少しだけ向けて呟く。
「……危ないことはするなよ」
スザンヌは頷き、ふと手元に目をやった。
「……あ。帽子、どうしよう……」
その瞬間、ルキフェルはすぐに反応した。
「探してくる」
スザンヌが口を開こうとしたが、言葉を待たずにルキフェルはすでに駆け出していた。濡れた衣服が肌に張り付く中、彼の足取りは力強く波止場の石畳を蹴る音が鋭く響いた。スザンヌはその後ろ姿を少し息を呑みながら見送る。ルキフェルは先ほどスザンヌが海に落ちた場所に向かって走る。帽子を、彼女の“象徴”を取り戻すために。波止場の端で砂や小石にまぎれた帽子を見つけると、素早く拾い上げた。帽子を握りしめ、彼は一目散にスザンヌの元へ戻る。
「ノワール」
スザンヌが声を上げるがルキフェルは応えず、帽子で顔を半分隠しながらゆっくり歩み寄った。彼女から視線を逸らすようにして。ルキフェルはスザンヌの前で立ち止まった。
「……はい」
ルキフェルが片腕で顔を覆って背けながら帽子をそっと差し出し、スザンヌは瞳を輝かせてからゆっくりと帽子を受け取る。
「ありがとう」
帽子を手にしたスザンヌの顔に、ほのかな笑みが浮かぶ。彼女は帽子をそっと頭に戻しながらルキフェルに尋ねた。
「……ねえ、ノワール」
ルキフェルは顔を背けたまま、わずかに肩をこわばらせる。
「また明日、会わない?」
ルキフェルの胸が跳ねた。
「……あ、ああ……」
ルキフェルの声が掠れ、鼓動は早鐘のように鳴る。スザンヌは素顔を見せぬ男をただの恥ずかしがり屋だとすっかり思い込み、にっこりと微笑んだ。
「ふふ、じゃあ楽しみにしてるね」
ルキフェルは彼女の笑顔を見ないように、目を伏せながら必死で平静を装うが、心の奥では彼女に強く惹かれている自分に気づいていた。
「……別に会いたいとか、そんなんじゃ……ない」
ルキフェルの声が思わず裏返り、スザンヌはくすりと笑った。
「じゃあ、会えるかどうかはノワール次第ね」
「……勝手に決めんな。お前だって、明日俺の顔を見ても楽しくもなんともないだろ」
スザンヌはほんの少し首をかしげて微笑む。
「そう……でも、明日も海にいるのよね」
ルキフェルはしばらく口ごもったあと、渋々と小声で答えた。
「……ああ、海にはいる……」
スザンヌは彼の声を聞きながら嬉しそうに笑みを深めると、濡れた外套を脱ぎ、ルキフェルの足元にそっと置いて静かに告げる。
「じゃあ明日、時間は今日と同じくらいに」
衣類が幾重にも擦れる音と、コツコツと石畳が反響する音が遠ざかっていく。
ルキフェルはようやく外套を手探りで掴み、立ち上がりながら羽織って反対方向へ歩き出そうとしたが、ふと足を止めた。慎重に振り返ると、波止場を進むスザンヌの後ろ姿——ゆったりとした歩み、シルバーブロンドの髪が陽光を受けて揺れるその様子——に思わず目を奪われる。彼女が視界から完全に消えるまで、ルキフェルは立ち止まり、黙って見送った。やがて重い吐息をひとつつき、フードを深く被ると、自分が元来た道をゆっくりと歩き始める。海の香りと、先ほどの波止場のざわめきだけがルキフェルの周りを満たしていた。
ルキフェルは石畳の路地をゆっくりと歩きながら船の方へと戻った。海風が心地よく吹き抜け、港の喧騒も少しずつ遠ざかっていく。船に着くと、甲板は静まり返っていた。遊びに出かけたはずの船員たちは誰一人として戻っておらず、空っぽの甲板だけが残っている。ルキフェルは肩をすくめ、呆れたように独り言を漏らした。
「やっぱり皆、宿でも借りて遊んでるんだな。帰ってくる気配もないし」
甲板に目をやると帆は風にたなびき、海面にはさざ波が光を反射して揺れている。静かな船の上でルキフェルはふう、と息をついた。誰もいない船に残された自分だけの空間。少し退屈だが、どこか落ち着いた気配もあった。ジャスパーが軽く背伸びをしながらやってきた。風に揺れる帆の間から、夕陽が二人を照らす。ルキフェルは無言で外套を差し出し、ジャスパーがそれを受け取ると眉を顰めながら外套とルキフェルを交互に見た。
「おい。なんでこんなに濡れてんの」
ジャスパーは声を低くして言う。彼の目には困惑と驚き、そして呆れた色が混ざっていた。ルキフェルは少し目を逸らした
「……俺のせいじゃない」
ジャスパーは苦笑しつつも、外套を抱えたままルキフェルを見下ろした。
「それで? なにか収穫はあったのか」
冗談めかした声に、ルキフェルは少し眉を寄せる。内心では、さっき見たスザンヌの顔、潮に濡れた髪、そしてあの澄み切った声がちらつくが、口を開けば冷静さを装わざるを得ない。
「……ない。目論見が外れまくった」
ジャスパーはにやりと笑みを浮かべ、ルキフェルを揶揄うように口を開いた。
「おい。潮の香りに混じって、甘い香りが匂うぞ」
ルキフェルは思わず頭を振り、髪から落ちる水滴を払いながら顔を背ける。
「……黙れ」
ジャスパーはますます楽しそうに笑った。
「なんだよ、その顔。まるで海の妖精にでも出くわしたみたいじゃないか」
ルキフェルは内心で、自分の心拍が跳ね上がるのを感じながら、必死に感情を押さえた。ジャスパーはそんなルキフェルの動揺を楽しむかのように、少し身を乗り出し、からかうように声を低めた。
「なあ、ルキフェル。やっぱり今日は何かあったんじゃないのか? そんな顔してるんだからさ」
「……何もねえよ。お前の妄想だ」
ジャスパーは笑い飛ばすかのように一歩近づき、耳元で囁くように言った。
「ふーん。でも、おれの鼻は誤魔化せないぞ」
ルキフェルは思わず顔を背けた。水滴に濡れた衣服越しでも、その香りの記憶が胸をざわつかせる。
「……黙れ、馬鹿」
ジャスパーはその動揺を見逃さず、にやりと笑う。
「ふーん、やっぱり何かあったんだな。よし、じゃあ次はおれが遊び相手になる番だ」
ルキフェルは思わず目を見開き、強く首を横に振る。
「いや。絶対にだめだ。俺は、俺は」
ルキフェルは一瞬口をつぐみ、頭の中でスザンヌのターコイズブルーの瞳と、海沿いで微笑んだ横顔を思い浮かべる。心臓が高鳴り、体中の血が熱くなった。ジャスパーはにやりと笑みを浮かべ、ルキフェルの肩に軽く肘をぶつける。
「お前、全然隠せてないぞ。完全に心奪われてるっての」
ルキフェルは思わず舌打ちをして振り返り、鋭くジャスパーを睨む。
「……黙れ。絶対に、余計なこと言うな」
ジャスパーは肩をすくめ、少し手を挙げて降参した。
「わかったわかった、言わないって。……でもな、内心はお前が一番わかってるだろ?」
ルキフェルは海を見つめたまま小さく息をつき、心の奥で再び波止場での出来事を思い返す。スザンヌの瞳、澄んだ声、そして温かい体温。
「……ちくしょう……あいつ……」
思わず漏れた呟きに、ルキフェル自身も気づく。彼女に、心を奪われてしまった。ルキフェルは海面を見下ろし、小さく呟く。
「……最悪だ」
ジャスパーは彼の横でくすくす笑いながら突っ込む。
「なんでだよ、最悪って?」
ルキフェルは鋭くジャスパーを睨みつけ、口を引き結ぶ。
「相手は……貴族の令嬢なんだよ。それに……ブルボンって名乗ってた」
その瞬間、ジャスパーの目がぱちりと大きく開いた。
「ブルボン……マジかよ!? それ、あの有名なブルボン家の?」
ルキフェルは海に目を向けながら声を潜めるように続けた。
「……だから、手出しなんてできるわけないだろ」
ジャスパーは思わず肩を揺らして笑い、どこか興味津々な目でルキフェルを見つめる。
「そりゃあ本気で困るわな……でも、面白そうじゃん。どうするんだよ」
ルキフェルは息を深く吐き、心の奥で煮えたぎる感情を抑えた。
「……考えるな、ジャスパー。余計なこと言うな」
ルキフェルは海を見つめたまま、声を低く震わせた。
「それに……俺はこの顔だ。この顔を見られたら、絶対に拒絶される」
言葉と同時に、胸の奥で暗い感情が渦巻く。スザンヌの透き通るような美しさ、陽光に照らされて輝く長い髪、澄んだ瞳が、ルキフェルに己の醜さを突きつける。羨望、嫉妬、そして自己嫌悪。自分はこんなにも醜く、孤独に閉じ込められているのに、彼女は自由で眩しく、美しい。その差が心の奥底で抉るように痛んだ。
「……俺なんか……」
冷たい海風が頬を撫でるが、心の奥の暗い痛みは消えない。スザンヌの存在が、喜びであると同時に、耐え難い苦痛でもあった。彼の背後でジャスパーは外套を乾かしている。
「なあ、ルキフェル。お前の声、すげぇな」
ルキフェルはわずかに眉を顰めた。
「ほら、潮の香りに混じってさ、その声が……なんていうか、耳に残るんだよな。澄んでいて、遠くまでよく通る。女どころか船員全員が耳を傾けちまうだろ、まったく」
ルキフェルは無言のまま衣服を整えただが、心の奥では思わず意識が引き締まるのを感じていた。声だけで人を惹きつける自分の力。それは、孤独や自己否定に押し潰されそうな心に、ほんの一瞬だけ光を差し込むものだった。
「そ、そうかよ」
ジャスパーがニヤリと口角を上げる。
「まあ、ルキフェルとその子がどう出会ったのかは知らないけどな」
軽く肩をすくめながら、彼は濡れた外套をロープに掛けていく。
「というか、お前がそんなことを教えてくれるタマじゃないってのも分かってるさ」
ルキフェルは無言で手元の布を絞る。滴り落ちる水の音が潮風の中に溶けていった。
「それでも聞きたいな」
ジャスパーが背を向けたまま、軽い口調で続ける。
「どんな話をしたんだ?」
ルキフェルは短く息を吐き、低く答えた。
「内容は割愛するが……ただ、明日も会うことになった」
ジャスパーが思わず振り返り、目を丸くする。
「おいおい、まさかの続編かよ」
ルキフェルは苦々しげに笑った。
「俺も、そう思ってなかったんだがな」
ルキフェルの言葉に、ジャスパーは歯を見せて笑う。
「……おもしれぇじゃん」
ルキフェルはしばし黙り込み、やがてぽつりと漏らす。
「……彼女の方から誘われた」
「誘われた?」
「ああ。明日も、会おうって」
ルキフェルの声はどこか困惑していた。
「彼女がなんであんなこと言ったのか、理解できない」
ジャスパーは目を瞬かせ、それから盛大に吹き出した。
「いやお前、それ興味を持たれてるってことじゃん!」
ルキフェルは眉間に皺を寄せた。
「……冗談だろ」
「冗談じゃねぇよ」
ジャスパーは笑いながらルキフェルの背中を軽く叩いた。
「お前、ほんとに鈍ぇな。女の子が自分から誘うなんて、そうそうねぇぞ」
ルキフェルは返す言葉を見つけられず、息を吐いて苦笑した。
「……俺なんかに興味を持つ理由なんて、ない」
彼の呟きは潮騒に紛れて消えそうに小さいが、ジャスパーの耳にはしっかりと届いた。
「……は?」
一瞬の沈黙のあと、甲板の上で響く怒声が落ちた。
「お前、またそれかよ!」
ジャスパーは思わず足で甲板を蹴った。乾いた音が夜気に弾ける。
「いい加減にしろ、ルキフェル! 誰がそんなこと決めた! 誰が『お前には価値がねえ』なんて言ったんだよ!」
ルキフェルはジャスパーから目を逸らしたまま、無言で拳を握りしめていた。ジャスパーは息を荒げながら続ける。
「顔がどうとか、身分がどうとか……そんなもんで測れるかよ! お前が今ここにいて、必死に誰かを助けて、それでも苦しんでる。それだけで十分だろうが!」
風が帆を鳴らし、甲板の上に一瞬だけ静寂が訪れた。ルキフェルの頬に、潮風と一緒に熱いものが滲む。けれど彼はそれを見せまいと海の方を向いていた。
「……ジャスパー」
「なんだ」
「うるせぇよ」
「うるせぇくらいでちょうどいいんだよ」
ルキフェルは船縁に歩み寄って片手を置くと、陽を呑み込んでいく海を眺めた。
「……明日、か」
思い浮かぶのは、潮風に髪をなびかせたスザンヌの姿。鈴のような声、そしてあの透きとおる瞳。
「俺は……彼女とどう向き合えばいいんだ」
独り言のようでいて、どこか助けを求めるようでもあった。ジャスパーはルキフェルの背中に言葉を投げた。
「お前は何かしようと思わなくていいさ。ただ、彼女と約束通り会って、話を聞く」
ルキフェルは眉をひそめ、海を見つめたまま答える。
「……本当にそれだけでいいのかよ」
ジャスパーは鼻で笑って帆柱にもたれかかった。
「おう。この前誰かが言ってたぜ。女はお喋りで、自分の話を聞いてくれる奴が好まれるってさ」
「……よくわかんねえな」
「おれも自分で何言ってるのかよく分かんねえ」
二人の間にふっと笑いが零れる。さっきまで重く沈んでいた空気が、潮風に溶けて軽くなった。ルキフェルは空を仰ぎ、月の光に目を細めた。
明日という言葉が、ほんの少しだけ胸の奥を温かくする。




