第一章② ラウルとミレーユ
海岸でソフィーと別れ、ラウルは足早に自分の屋敷へと戻った。
夕陽が波面に金色の光を撒き、砂に映る自分の影を長く伸ばす。潮の匂いと湿った砂の感触が別れの余韻と混ざり合って胸をくすぐった。屋敷の裏口に差し掛かると、誰にも気づかれぬよう息をひそめて忍び込んだ。木製の扉に触れる指先に力を入れすぎないよう注意しながら影に身を潜める。廊下を静かに進み、使用人部屋の扉の隙間から中を覗くと、部屋の片隅には自分とほぼ同じ背丈の少年が腰を下ろして休んでいた。
——やっぱり、ここにいた。
屋敷で働く小間使い、アンリだ。ラウルは扉の影に身を潜めて彼の様子を観察する。遠くでは他の使用人たちが作業に勤しむ音が聞こえ、ラウルの胸の奥に小さな緊張を残した。
——ボクは……今日も無事に戻った。
だがその穏やかさの影に、なんとなく胸の奥がざわつく。夕陽の光のせいだけではない気がする。少年の存在も、その理由のひとつだった。ラウルはそっと部屋に入ると、アンリはラウルを見るなり口元を緩めた。
「無事に戻られたのですね、よかったです」
アンリの瞳には心配と安心が入り混じった光が揺れていた。ラウルは頷き、外出用に身につけていた庶民の服を脱いで、屋敷内用の服に着替え始める。秘密を守ってくれる小間使いのおかげで、今まで母親以外に脱走が知られたことはない。袖を通すべき本来の服を手に取り、ゆっくりと身につけた。落ち着いた貴族の服。体に馴染む生地の感触が今日の疲れをわずかに和らげる。
「……ありがとう、アンリ」
アンリの微かな微笑みが返ってきた。声が小さかったかもと思ったが、ちゃんと届いたらしい。ラウルは服を整え、鏡で身だしなみを確認しながら口を開いた。
「ソフィーが明後日、旅立つんだって……もう、会えなくなっちゃうんだ」
アンリは静かに頷く。
「そうですか……ですが、新しい生活も順調でしょう。心配はいりません」
ラウルは鏡越しに自分の姿を見つめる。
「……そうだといいんだけど」
切なさと孤独感が胸に広がり、指先が軽く首元を触れる。触れるだけで、胸の奥がわずかに締め付けられるような感覚が走った。
「ラウル様、首飾りはどうされたのですか?」
アンリの声に少し戸惑いが混じる。ラウルは肩をすくめ、答える。
「ソフィーにあげた」
アンリの瞳が大きく見開かれた。
「ええ、そんな! あれはラウル様のお父上が、ラウル様に贈ったものではありませんか」
ラウルは鏡の前で舌打ちし、口調を少しイラッとしたものに変える。
「だって、いらないんだもん」
言いながら彼は首元に触れると、胸の奥で微かに押さえ込んでいた感情が熱を帯びて疼く。
「本当は、そばにいてほしいのに」
アンリは言葉を失う。普段は冷静で落ち着いたラウルの、ほんのわずかな感情の揺れを目の当たりにし、胸に小さな波紋が広がった。夕暮れの光がラウルの顔を優しく照らす。首飾りの代わりに残った心の欠片をアンリは静かに見つめていた。
その後、ラウルは静かに廊下へ足を踏み出した。夕陽が西の窓から差し込み、廊下の床に細長い影を伸ばす。まるで屋敷の広さに飲み込まれるかのように長く、孤独に揺れていた。壁に沿って並ぶ古い肖像画の瞳も、淡い光の中でじっとこちらを見つめているように思えて胸の奥がざわつく。足音は自分だけのもの。軋む木の床板の音が、静寂の中でひときわ大きく響いた。廊下の角を曲がるたびに微かな風が窓から吹き込み、カーテンを揺らした。
「……やっぱり、屋敷もひとりでいると広すぎる」
呟きは自分自身にしか届かない。部屋の扉が見えてくるまで、ラウルは影を連れて歩くようにゆっくりと歩みを進めた。やがてラウルは自室の扉を閉めると、屋敷の外の物音が遠くに感じられた。ベッドに腰を下ろし、ゆっくりと体を横たえる。布団の柔らかさが、今まで緊張していた体を少しずつほぐしていく。
「……ふう」
父親に対する苛立ちも、ソフィーの旅立ちによる切なさも、この一瞬の静けさの中で溶けていく。手足を伸ばし、無造作にベッドの上で転がった。今は、この屋敷でのひとときの安心を噛み締める。誰にも邪魔されず、誰にも見られず、静かに、自由に。小さな心の安息が、今日のすべての疲れを少しだけ溶かしてくれるようだった。ラウルがベッドでゴロゴロと体を伸ばしていると、扉が静かに開いた。
「ラウル……戻ってきたのね」
柔らかな声とともに、ミレーユが部屋に入ってきた。ラウルは伏せていた顔をわずかに上げる。母の視線を受けた瞬間、胸の奥に溜まっていた緊張が、すうっとほどけた。
「……ただいま」
ミレーユは微笑みながら室内をゆっくりと見渡し、音も立てずに歩み寄るとラウルの隣に腰を下ろした。近くで見ると、その青い瞳の奥に微かな緑の揺らぎがあるのが分かる。
ラウルの緑色の瞳は、まるでそこから枝分かれしたようだった。
「……また、こっそり抜け出したのね。外出は……無事に済んだの?」
ミレーユは花瓶のことも、こっそり外出したことさえ責めなかった。ラウルは一瞬だけ言葉に詰まったが、「……まあ、無事だったよ」と返した。淡々とした声だが、内心にはほのかな疲労と安堵が混じる。ミレーユは軽くため息をつき、ラウルの肩に手を置いた。
「無事でよかった。でも、ラウル。何か隠しているでしょう?」
ミレーユの柔らかな問いかけに、ラウルは一瞬目を見開く。
「……何も、隠してないよ」
言葉は軽くしたつもりだが、どこか不自然な響きを残してしまった。ミレーユはそれを見抜き、微笑みながら首を傾げる。
「あなたは何でも一人で抱え込みすぎるのよ」
ラウルは小さく笑い、ベッドに横になったまま視線を天井に向けた。
「……だって、母さんに心配かけたくないし」
ミレーユは静かに息をつき、ラウルの髪に手をかけた。
「心配させるのは構わないわ。でも、時々は話してちょうだい。あなたが抱え込むほど、母は辛いのだから」
「……わかった」
ラウルはベッドで少し体を起こし、母の顔をちらりと見る。
「なんか、元気いいね。さっきあんな怒ってたのに」
ミレーユは肩をすくめ、微笑んで答えた。
「もう気にしないわ」
ミレーユはそのまま少し目を輝かせて続ける。
「あなたのお父上が久々に帰ってくるんですもの、嬉しい話じゃない」
ラウルの胸の中で小さな溜息が漏れる。力が抜けたようにベッドに横たわり、天井をぼんやり見上げていると微かな歌声が耳に届いた。鼻歌混じりの声。ミレーユが窓辺に立ち、夕陽に照らされた髪を揺らしながら口ずさんでいる。
——月影之文。
ラウルは歌のタイトルを心の中で反芻した。静かに流れる旋律は遠く去った人への想いを湛えている。柔らかく、どこか切なく、心にじんわりと染み渡る歌だ。ラウルの胸の奥がキュッと締め付けられる。
——ああ、やっぱり目の前にいるボクなんか見てないんだ。父さんの方が好きなんだな。
その瞬間、ラウルの胸に微かな痛みが走った。嫉妬や疎外感ではなく届かぬ距離を思う切なさ。呼吸がわずかに乱れ、心臓の奥がざわつく。誤魔化すようにベッドでゴロリと寝返るが、耳には母の鼻歌が柔らかく残っていた。ミレーユは歌うのを止めると、ゆったりと振り返って優しい目で息子を見つめた。
「ラウル、今日はどこまで出かけたの?」
「うん、ちょっと……町まで」
ラウルは肩をすくめる。ミレーユは微笑みながら、手元のカーテンをそっと整える。
「外の世界はどう? 人の顔や景色、少しは楽しめたかしら」
ラウルは口を開きかけ、すぐにやめた。
——楽しめたって言ったら、母さん安心するかな。
「……まあ、なんとかね」
胸の奥のもどかしさを隠すように、ラウルはベッドに体を沈める。ミレーユはそれも見抜き、少し首を傾げた。
「ラウル……やっぱり、何か心に引っかかっていることがあるでしょう」
ラウルは一瞬だけミレーユの瞳を見つめた。どうしても、父のことばかり考えてしまう。母は自分ではなく、自分を通して夫を見ている。
「……別に、何も」
少し気まずい。ミレーユは微笑みを崩さず柔らかく言った。
「そう……でも、何かあれば話してね。あなたのこと、ちゃんと聞くから」
ラウルは彼女の言葉にほんの少し肩の力を抜いた。
「わかった」
ミレーユは窓の外を見やりながら、また鼻歌に戻って部屋から出ていった。ラウルはベッドからゆっくり起き上がり、窓辺に立つ。外はすでに夕暮れの赤みが薄れ、すっかり夜の気配が漂っていた。月が遠くから照らし、波の音が微かに届く。
「……ソフィーは明後日、パリへ行ってしまうんだな」
ラウルの胸の奥でぽつりと空いたような感覚が広がる。ラウルは小さくため息をついた。母が父の話をするたび複雑な想いが胸に芽生える。
「母さん。父さんの方が大事なら、そう言えばいいのに」
自室にかけられた親子三人の肖像画に暗い影が落ちる。ラウルは遠くの水平線をぼんやり眺めていた。
「ボクは……何がしたいんだろう」
小さな問いがラウルの胸の中で何度も反響する。目の前には屋敷の安全と母の優しさがあるが、心は別の方向——ソフィー、父、そしてまだ知らぬ自分の未来——へ向かって揺れていた。




