第一章③ ラウルと???
ラウルは何の気なしに庭を見下ろすと何か不自然な影を目にした。庭の木陰、月明かりに半分照らされた影の動きは、まるで誰かが屋敷をそっと覗いているかのようだ。
「……何だ、あれ?」
ラウルは眉をひそめ、視線を逸らさずに影の動きを追う。影は一瞬止まり、またゆっくりと揺れた。木の枝や葉と重なり、はっきりとした姿は見えない。それでも、そこに「何か」がいるのは確かだった。次第に、ラウルの心に不安よりも知りたいという気持ちが勝っていった。
「見てみよう」
ラウルは窓辺を離れ、自室を出て薄暗い廊下をそっと進む。床板が微かに軋む音も、呼吸を整えながら気にせず歩いていく。裏口に辿り着き、手早く扉を開けると冷たい夜風が頬を撫でた。庭の香りや湿った土の匂いが鼻をくすぐる。ラウルは身を低く構え、影の動く方へ向かった。木々の陰影は揺れ、月光の輪郭に映る影は微妙に形を変えている。目に映るものすべてが正体の分からない不気味な存在感を放っていた。
「……一体、誰なんだ…」
静寂を破らぬよう、ラウルは足音を忍ばせながら影に近づいていく。庭の暗闇に目が慣れ、最初はただの黒い塊にしか見えなかった影が次第に輪郭を帯びていく。
「あれ……人間?」
影は静かに立ち、屋敷の壁沿いに目を光らせていた。その姿が徐々に鮮明になった瞬間、ラウルの胸に無言の圧迫感が押し寄せる。
闇に沈んだ庭の片隅、淡いランプの灯が差し込む中で、目に映ったのは異国の空気をまとった男だった。
褐色の肌は月光に淡く浮かび、長い黒髪が夜風に揺れる。髪の奥に潜む青色の光がかすかに瞬き、視線を捕らえた。耳元のチェコガラスやトルコ石を織り込んだビーズのイヤリングが微かに光を反射する。背丈や体格といった数字では語れない、圧倒的な存在感。
まるで、夜そのものが人の形を取ったかのようだった。
ラウルは無意識に息を止め、その異様な静けさと異国の気配に圧倒されながら男を凝視する。闇と光の狭間で、二人の距離はわずか数歩に縮まっていた。
——風みたい。
ラウルの心の中で言葉にならない感覚がふわりと形を取った。軽やかに現れ、必要なときだけ力を発揮する。柔らかくも鋭く、決して重くはない。存在そのものが空気や風のように自由で奔放だ。男の黒髪が風に揺れる。目の前に漂う掴みどころのない自由な存在感にラウルは無意識のうちに引き寄せられていた。見ているだけで心を揺さぶられる。ラウルは覚悟を決めて、そっと声をかけた。
「あの、誰ですか?」
庭の空気が一瞬、張りつめた。男はわずかに止まり、ゆっくりと振り向く。月明かりに浮かぶ鋭く整った顔立ち、冷静さをたたえた瞳。金色の瞳は暗闇を裂くかのように冷ややかで、眼差しは獣が獲物を捉える瞬間の鋭さを持ち、瞳の奥にほんの少し驚きと好奇心が滲んでいる。
「……気付かなかった。まさか、オレが気づかないなんてことがあるのか」
高く柔らかい声。言葉の端々に飄々とした余裕と奔放さが漂う。ラウルの心臓が高鳴った。警戒と好奇心、抗えない惹かれが入り混じり、呼吸が浅くなる。男はほんのわずかに身を傾け、夜風が彼の周囲でそっと葉を揺らした。
「どうした、こんな夜に庭をうろついて」
言葉は軽やかだが、刃を帯びた鋭さが含まれていた。ラウルの背筋が思わずぴんと伸びる。心臓の鼓動がわずかに早まるが恐怖ではない。
「窓から、あなたの影を見ました……誰なのか知りたくて」
男の目がラウルをじっと捉え、微かに笑みを浮かべた。
「オレは……ゼフィランサス。けど、ゼフィールと呼んでくれて構わない。……君のお父さん、エリオットの友人だ」
ラウルの胸の奥に、微かな動揺が走った。父の名を知る人物が夜の庭にひっそりと立っている。
ラウルの心に予想以上の緊張を生んだと同時に目が離せない感覚が胸の奥に生まれていた。ゼフィランサスの瞳がラウルの心を試すかのようにじっと捉えていた。
「……ゼフィール……」
ラウルの声が夜の庭に小さく漏れる。その瞬間、風のように現れた男がただの影ではなく、生きた人間としてラウルの中に認識が芽生えたが、ふとゼフィランサスをじっと見上げて、声に震えを混ぜながら尋ねる。
「……なんで、ボクのこと知ってるの?」
小さく漏れたラウルの声に、ゼフィランサスは眉をひそめた。普段の飄々とした風のような軽やかさが、ほんの一瞬揺らぐ。唇の端がわずかに歪み、目の奥に小さな動揺が走った。
——まずい……失言した。普段は冷静沈着な自分だが、さすがにこれは読み違えたかもしれない。
「……あっ、いや、そ、その……」
ゼフィランサスの声が今は少し震え、弾むように途切れるが慎重に言葉を選んで告げた。
「その……君を知っているというより、君のお父さんから少し話を聞いていたと言えばいいな」
ラウルは少し考え込むように目を伏せた。ゼフィランサスは深く息をつき、わずかに肩の力を抜く。
「……すまない、驚かせてしまった。別に怪しい意味はない」
ラウルはゆっくりと顔を上げ、月明かりに照らされたゼフィランサスを見つめた。
「じゃあ、なんでここにいるの?」
ゼフィランサスは軽く息をついて答える。
「……ここで、しばらく身を隠したかった」
ラウルはゼフィランサスの不自然な緊張を見逃さなかった。
「どうして庭に?」
ゼフィランサスは一瞬、目を細めた。彼の瞳は深く澄み、読み取られまいと微かに光っている。
「ちょっとした用事があってな」
ラウルは首をかしげ、眉をひそめた。
「それだけ?」
ゼフィランサスは微かに肩をすくめ、風のように軽やかに立ち直る。
「詳しいことは、また別の機会に話そう」
ラウルは少し微笑みながら言う。
「庭より室内の方が快適だよ。母さんに話してくる」
ラウルの言葉に、ゼフィランサスの表情が一瞬で変わった。瞳がわずかに見開かれ、身を乗り出すようにして慌てた声をあげる。
「いや、いや、待て! それは大丈夫!」
ゼフィランサスもこの瞬間ばかりは急かされるようにぎこちなく、ほんのわずかに動揺を露わにする。
「庭で、ここで過ごしたい……どうしても、ここじゃないとダメなんだ」
ラウルは眉をひそめ、首をかしげる。
「なんで? 庭の方が静かだから?」
ゼフィランサスは慎重に言葉を選んだ。
「……いや、そうじゃない。君に見られたくないものも、少しある。実は、家出中でさ……誰かに見られるのが恥ずかしい。だから、一人で過ごしたいんだ」
ラウルは怪訝な顔のまま静かに問いかけた。
「……そもそも、あなたはどこから来たの?」
ゼフィランサスの瞳がラウルを捉え、月明かりにわずかに光った。
「オレか? オレはな……」
ゼフィランサスは口元に微笑を浮かべるようにして続けた。
「海から来たんだ」
ラウルの胸が一瞬、固まる。海。その言葉が胸の奥で高鳴りを引き起こした。目の前の男がただの訪問者ではない、波のように自分の心を揺さぶる存在であることを、直感的に理解した。
「海から来たってことは、父さんと同じ仕事の人なんだね」
ラウルの言葉には疑問というよりも自分なりの理解と納得が含まれていた。ゼフィランサスは黙ってその様子を見つめて応える。
「そうだな……ま、似たようなものだ」
ラウルは胸の中で小さくうなずいた。海から来た人——父と同じ仕事の人——という認識が、ラウルにとって少し身近で、少しだけ信頼できるものに変えていく。ゼフィランサスは窓をチラリと見た後、ラウルに向き直った。
「なあ。君の両親には、オレのこと内緒にしてくれないか? ちょっと、喧嘩しててさ」
ラウルは肩の力を抜こうとしたが、心臓の鼓動はまだ耳に届くほど速く打っていた。
「ボクだけ秘密を抱えるなんて無理だよ」
「……じゃあ、こうしようか」
ゼフィランサスは静かに跪いた。突然縮まった距離に、ラウルは一瞬息を呑む。
「オレがこの庭で過ごすことと引き換えに、オレが君の友人になろう。お父さん、なかなか帰ってこないんだろう?」
ラウルの心拍はさらに速まった。
「それ、本当?」
声を震わせるラウルに、ゼフィランサスは軽く頷き、目を逸らさず答えた。
「もちろんだ。約束する」
庭の夜風が再び二人を撫でた。
——この人も、目を見たまま話してくれる。
そう思った途端、ラウルは胸の奥にずっと秘めていた想いを言葉にした。
「じゃあ……強くなる方法、教えてくれない?」
ゼフィランサスはラウルの瞳をじっと見つめ、わずかに首を傾げた。
「なんで強くなりたい?」
ラウルは言葉を失い、思わず視線を落とした。
——町の広場。すれ違う大人たちの、値踏みするような目。ひそひそと交わされる声。長い前髪の奥に隠した視界。……言えない。理由を口にした瞬間、何かが壊れてしまいそうだった。だから、ラウルはほんの少しだけ嘘を選んだ。
「……ボク……弱いから」
ゼフィランサスはすぐには答えなかった。ラウルの表情を読み取るように目を細め、静かに頷く。
「……なるほどな」
ラウルはほっとしたように息を吐いた。
「……だから、教えてほしいんだ。どうやったら強くなれるか。……強くなって、どんなことでも耐えられるくらいに」
ゼフィランサスは深く頷いた。
「それなら、オレも教え甲斐があるな」
ラウルの胸に、これから始まる何か冒険のような日々の予感が広がっていった。
「じゃあ、決まり。オレはここでしばらく君の相手になる。条件はひとつだけ、このことは誰にも言わないこと」
ゼフィランサスの言葉に、ラウルは一瞬躊躇いながらも頷く。
「……わかった。でも、庭にずっといるなんて無理があるよ」
ゼフィランサスは軽く首を振る。
「庭だからいいんだ。ここなら誰にも見られず、自由に動ける」
彼の目は真剣そのもので、柔らかさも宿していた。ラウルは触発されたように口を開いた。
「じゃあ……約束だね。ボク、頑張るよ」
ゼフィランサスは微笑んで頷いた。
「オレも全力で相手になってやる」
夜の庭に、二人だけの小さな誓いが生まれた。風のように現れたゼフィランサスと、胸に決意を抱く少年ラウル。その場には、これから始まる日々の予感と絆の萌芽が漂った。ラウルは小さく息を吐き、ゼフィランサスに最後の目線を送る。
「じゃあ……ボク、戻るね」
ゼフィランサスは軽く手を振り、微笑んだ。
「うん。おやすみ」
ラウルは庭の小道を静かに踏みしめながら、屋敷の中へ歩みを進めた。夜の空気はひんやりしていたが、胸の奥には小さな熱が残っている。
これからの日々、何をするにもこの約束が支えになると実感しながら。
屋敷の廊下は月明かりに照らされ、影が長く伸びていた。普段は静かすぎる空間も今は自分だけの時間として受け止められる。ラウルはそっと自室へ入り、戸を閉めると深く息を吐いてベッドに倒れ込んだ。
窓の外、庭の闇にはゼフィランサスの影がまだ揺れていた。風のように現れながらもラウルの心の奥に重みを残す男。彼の存在は夜の庭とともにラウルの心にしっかり刻まれていた。




