第一章① ラウル
時は夜の惨劇より、ずいぶん前へと遡る。
フランス、ノルマンディー地方。ヴール・レ・ロズの外れ。
燦燦と降り注ぐ陽光を浴びた若竹色の葉が風に揺れ、木漏れ日が砂を被った石畳の上で踊っていた。
お世辞にも整備されていると言えない、この石の道を一人の少女が一歩進む度に身体をゆらっと振って歩いていく。亜麻色の髪も、木々の間から差し込まれる陽光を受けて絹のように細い糸を透かしていた。やがて、屋敷と呼ぶには控えめな外観の建物が見えてくると少女はわずかに歩みを早める。屋敷の庭先で花壇の手入れをしていた庭師が来客に気づき、内側から門を開けてくれた。少女は庭師に礼を言うと、アーチがかった玄関扉の前で日頃の教え通りにノックを三回鳴らす。扉が開くと、中から現れた中年の女性が少女を見下ろすなり、ニコリと笑った。屋敷内で働く使用人だ。彼女の背後から、暗褐色の少年がひょっこりと顔を出す。緑を帯びた両目が無邪気に輝いていた。
彼こそがラウル・レオパード。最近、六歳になったばかり。
「待ってたよ、ソフィー!」
ラウルの出迎えに、ソフィーと呼ばれた少女は口元を緩めた。
この日の遊びはラウルが書庫でソフィーに読み聞かせをし、部屋を真っ暗にして使用人に灯を灯してもらうと、割れたステンドガラスの破片を翳しては暗闇を鮮やかな色で染め、その後は屋敷内を追いかけっこしたが、ここで事件が起きてしまう。
ソフィーに追いかけられていたラウルは、曲がり角を曲がったところで肩と机の角が激突し、ラウルが気づいた時には背後でガシャンッともパリンッとも言える騒々しい音が廊下に響き渡った。曲がり角から現れたソフィーが「どうしたの!?」と甲高い声を上げ、ラウルは割れた花瓶を呆然と見つめていた。床に散らばった青白磁の大小なる破片と色味も種類も統一感のない茎つきの花々、そして床を侵食して花びらを運ぶ水。ソフィーも思わず固まっていた時、コツコツという音と衣擦れ、柔らかな声が二人の耳に届く。
「何があったの?」
母ミレーユがやってきた。簡素にまとめられた金色の髪、澄んだ青い瞳がまっすぐにラウルを映した。その青は冷たさではなく、深い静けさを湛えていた。ラウルは母を前にして、一気に恐怖が全身を駆け巡った。
「あ、えっと……これは、その」
焦るラウルを前に、ミレーユは何も言わず頷くだけで待っている。彼女の優しさが、ラウルを余計に強張らせた。ラウルの頭の中でようやく言葉が浮かんだところで固唾を飲んで口を開く。
「……ボクが——」
「ごめんなさい、あたしが割りました」
ソフィーが乱入してきた。不意に遮られたキンキン声に、ラウルは瞬時にソフィーに対して驚きで目を見張っていたが、ソフィーは怯まずミレーユを凝視している。
「あたしが割りました。ラウルは悪くないです」
ソフィーとミレーユの間に緊張が走る。ラウルはオロオロと二人を交互に見ることしかできなかった。
困った、これでは黙ったままだ。完全に謝罪の機会を失ったラウルが焦燥感に駆られていると、ミレーユがソフィーに近づくなり頬を叩いた。音は小さくないが、子供二人に衝撃を齎すには十分すぎた。ソフィーは打たれた頬に手を当ててミレーユを見上げると、ミレーユは毅然とした態度で口を開いた。
「あなたは、自分がどれだけか弱い人間か自覚していない」
ソフィーは何を言われているのか理解できなかった。それでも、ミレーユは構わず続ける。
「それなのに、他人の身代わりになって犠牲になるなんて、まだ小さいのにどうかしている! それに、ここはラウルが自分で謝るべきだったのよ」
ラウルの両肩がびくんと揺れた。ミレーユは割れた花瓶をチラリと見たあと、またソフィーに鋭さを帯びた青い目を向けた。
「よく考えなさい。良かれと思ってやったことが、本当に友人のためになっているのか」
それから、ミレーユはラウルを見つめた。あの青い目に射抜かれる。ラウルは耐えられず俯いた。花弁を乗せて床に広がる透明な水を意味もなく注視する。
「大人に片づけるから、二人とも触らないでね」
ミレーユの声が降ってきた。やがて、コツコツとヒール靴の音が徐々に遠ざかって廊下中にぼんやりと反響していく。音が消え入りそうになったところで、今度は平べったい靴音がしてラウルは思わず顔を上げるとソフィーの姿はそこになかった。水は今でも床に広がっている。
その後、ラウルは小間使いの少年から服を借りて屋敷を出て行った。彼女がどこへ向かったのか。村を巡り、道ゆく人々の視線を掻い潜りながらラウルは四方を探し回る。心臓が騒がしく、息も詰まりそうだったがソフィーのためならと終始自分に言い聞かせていた。やがて村から離れて海岸へ向かう坂道を駆け始めると眼前に灰色の海を目の当たりにし、ラウルは襟の中に手を突っ込んで冷たい感触を掴むと襟から出して、掌を見つめた。掌の上で、竜と蛇の銀細工とアクアマリンが煌めく。
——海にいる、と言ってくれた。今もいるのかな。
輝きを閉じ込めるように握ると海岸特有の強風をもろに受け止めながら灰色の海を見渡す。すると、海岸沿いを歩くソフィーの背中を見つけた。ラウルは胸の奥が沈んだままソフィーの後を追う。やがて、彼女が砂の上に座り込むとラウルは少しだけ距離を詰めてソフィーの言葉を待った。案の定、ソフィーが振り返って「ラウル? 何しに来たの?」と声をかけてくれたので、ラウルは胸を撫で下ろした。
その後、母がソフィーにかけた言葉の話になった。あの言葉の意味、母からソフィーに対する拒絶だと解釈したラウルは、もう自分はソフィーは共に遊べないのでは不安に駆られて恐る恐る口にした。
「ねえ、キミがいなくなったらボクは誰と遊べばいいの? 本当の友達は、ソフィーだけなのに」
その時、ソフィーがキンキンとした声で捲し立てた。
「あんたはいつも弱音ばっかり! どのみち、あたしはもうすぐ孤児院を出るんだから、遊びには行けなくなるの」
一瞬、ラウルは何を言っているのか理解できなかったが、ソフィーの真剣な目つきを見つめるうちにこれは冗談ではないと悟った。
「……孤児院を出る? 本当に?」
信じたくなかった。普段、あれこれ考える力が今だけは拒絶を起こしている。だが、ソフィーはこくんと頷いた。
「本当よ。あたしを引き取りたいって、わざわざパリから人が来たの。もちろん行くことにしたわ」
そんな話は初耳だった。何もかも突然すぎて、でもパリという言葉を聞いてラウルは途端に胸がカッと熱くなって、つい語気を強めてしまった。
「なんだよ、それ。じゃあキミも、ボクの父さんと同じだ。何も言わずに、どこか遠くへ行っちゃう。ボクには、何も言わずに……!」
まさかこの友人が父親と同じような仕打ちをしてくるとは思わなかった。
「今日、言おうと思ってたのよ!」
ソフィーは食らいつくように返したが、ラウルは今まで自分に黙っていたことに対して苛ついているのではない。自分を縛りつける家に、自ら飛び込んでいく彼女が理解できなかったから。
「じゃあなんで、他所の金持ちの家に行くの? 嘘つきが多いって知ってるじゃないか」
ソフィーは「だって」と勢いで返そうとしたが不意に口を噤み、それから理路整然と理由を聞かせてくれた。自分が金持ちになれること、綺麗な服を着て、美味しい物を沢山食べて、ひもじい思いをしなくて済むからと彼女は言った。ラウル自身、否定はしなかったがその後に続いた「自分と同じ立場になれる」というソフィーの発言には感心しなかった。……今までの友情はなんだったのか。ラウルは訝しげな目でソフィーを見つめた。
「それって……今までのボクたちは、友達じゃなかったって言いたいの?」
「違う。そこまで言ってないじゃない!」
「でも……キミの言い方だと、そう聞こえるよ。ボクは、本当の友達だと思ってたのに……」
ラウルはぶつぶつと呟きながら、ソフィーの隣に腰を下ろした。
「ボクはさ、そういうのが嫌なんだ。どっちが上とか下とか……そんなの無ければ、喧嘩もしないで済むのに。大人の考えることって、よく分からない」
「あんたが優しすぎるのよ」
「うん。こういうこと言うと、母さんにもよくそう言われる」
「確かに、あんたは人たらしだけど、悪意はないものね。ラウル、あんた、みんなが仲良くできる世界を望んでるでしょ?」
「そうだね。ボクに、そんな力はないけど……」
「力なんか無くたっていいのよ。大事なのは、“仲良くしたい”って気持ちよ」
「……まあ、ね」
——でも、ボクだけが願っても意味はないんだ。
しばらく潮騒の音だけが二人の間に流れた。ラウルの脳裏に無数の目玉が浮かびかけたが、すぐに打ち消すように口を開いた。
「やっぱり、ソフィーって優しいと思う」
「やっぱりってなによ」
「ごめん……いや、キミっていつも、まっすぐなこと言うから……」
「思ったことをズケズケ言ってるだけよ。あんたとは違う」
吐き捨てるように言うソフィーに、ラウルは苦笑しながらこの容赦ない友人の言葉を受け止めていた。
——そうかな。少なくとも、君はボクの目を見て話してくれる。
会話が弾むうち、遠くで教会の鐘が鳴り始める。祈りのための音だったはずなのに、ラウルには何かが終わる合図のように聞こえた。
「帰らなくちゃ」
ソフィーに言われたとき、ラウルの胸の奥が小さく軋んだ。元の生活に戻る。それはつまり、また会えなくなるということだ。別れは嫌いだ。理由は分からない。ただ、別れという言葉を聞くだけで何かが削られていく気がした。彼女の顔を見つめながらラウルは言った。
「忘れてしまいそうで、怖い」
今はここにいる。声も、表情も、仕草もそこにある。けれど時間が流れれば、それらは薄れていく。記憶は意外なほど簡単に形を失う。だから、口に出してしまった。
「置いていかないで」
自分でも驚くほど必死な声だった。情けないと思われるかもしれない。弱虫だと笑われるかもしれない。それでも言わずにはいられなかった。強くなりたい。彼女が見違えるほど強く。父の顔が脳裏をよぎった。 嫌いだ、間違いなく。けれど、父が「海」にいるという事実だけはラウルの胸を奇妙にざわつかせた。母はいつも歌っている。一人で、誰にも聞かせないように。その声を聞くたび、何かを誤魔化しているのだと子どもながらに分かってしまった。
「……見てほしかっただけなのに」
自分を。母を。家族を。けれど、海はすべてを遠ざける。
曇った空の下、灰色の海はこちらを拒むように広がっていた。それでもラウルは目を逸らさなかった。
遠くへ行きたい、空と海が交わる場所へ。それは逃避ではなく、希求だった。
ここではないどこかでなら違う自分になれる気がした。
——自由。その言葉を口にした瞬間、胸の奥で何かが形を持った。
身分も名前も役割も関係ない場所。ただ「在る」ことを許される世界。
彼女は言った。女が船に乗るには証がいるのだと。なら、それを渡そう。
ラウルは無意識に首元へ手を伸ばしていた。父から与えられた首飾り。意味も分からず、ただ「持たされていた」もの。外して彼女に放った瞬間、胸が軽くなったと同時に少しだけ痛んだ。
「もう、戻らない気がする」
失くさないでほしい。これは命令ではなく祈りだった。笑われてもよかった。格好つけていると思われても構わなかった。彼女が笑ったとき、胸の奥に灯がともった。それだけで十分だった。
ソフィーは光だ。ラウルにとって世界に繋ぎ止めてくれる、唯一の。
このとき、彼はまだ知らない。
この小さな約束が、この首飾りが、やがて血と記憶と選択のすべてを結び直す「証」になることを。
ただひとつ確かなのは……この瞬間、ラウルは初めて自分の未来を誰かに預けたのだった。




