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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】1・2巻「誕生編」  作者: セキユズル
プロローグ ある男の最古の記憶
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プロローグ② 海賊船にて

 夜はなお深く、屋敷の惨状を呑み込んだ闇はそのまま海へと続いていた。


 港は霧に沈み、月明かりも波のざわめきにかき消される。桟橋に立つ海賊の足元からは潮の匂いと湿った木の香りが漂っていた。水面に映る帆影は静かに揺れながら夜の闇に溶け込んでいる。

 遠く霧の向こうから微かな金属音。何かがぶつかる音、足音、そして微かに漏れる呻きが静寂の中で響いた。次第にペースが落ちていく音に先ほどから警戒していた海賊は手のランプを揺らし、影を探す。


 ──何か来る。


 闇の向こうから荒い息を吐き、背筋を伸ばして歩み寄る影がぼんやりと輪郭を露わにした。

 ランプの光に映ったのは血にまみれた男。服も顔も手も赤く染まり、汗と鉄が混ざった匂いが漂う。

 彼の腕の中には小さく硬直した子供。子供の手からも赤い液体が砂に落ち、桟橋の空気が一瞬にして重く張りつめる。


「船長、ずいぶん遅くまで……何かあったんですかい?」

「急ぎの用事だ」


 無愛想な声、返事は淡々とした一言。船長と呼ばれた男の表情は冷たく感情のひとつも読み取れない。返ってきた声の冷たさに海賊の背筋を氷の指が這った。抱えた子供を守るように歩む船長の背中に、まるで風が吹き抜けるような冷たさが漂っていた。子供の細い手からぽたり、ぽたりと血が滴り落ち、桟橋の板を黒く染めていく。彼の背後を八歳ほどの黒髪の小さな影が滑るように通り過ぎた。少年は怯え、足音を忍ばせながら船長に従う。



 船長は無言で狭い通路を歩き続けた。木の床は潮風で湿り、足音は軋む。血にまみれた彼の姿を、他の乗組員が一瞬だけ目を逸らした。誰も言葉を発せず、ただ息を潜める。やがて、船長は船医室の扉にたどり着いた。子供を抱え直し、一瞬空いた手で冷たい取っ手を押し開けると室内から光が漏れ、光の中にいた船医の目が見開かれた。


「船長、一体その格好は……それに、何を抱いてるんですか?」


 船長の腕の中で小さく揺れる子供。血まみれの船長の姿と相まって室内の空気が一層重く張りつめた。船長は抱えた子供を寝台の上に慎重に寝かせ、船医をじっと見つめる。


「急ぎこいつのケガを見てほしい。まだ生きている」

 船医は息を呑んだ。

「これは……酷い有様ですね。まだ小さいのに……」

 船長の鋭い目が船医を射る。

「……頼めるか?」

「正直、この深さだと跡として残るかもしれませんが……最善は尽くしますよ。——ゼフィランサス船長」


 船医の表情がわずかに強張る。海を荒らし尽くす大海賊の影が胸をかすめた。しかし、船長ゼフィランサスは返答せず頷き、黒髪の少年に一言声をかける。


「ここにいろ」


 怯えた小さな影が頷くとゼフィランサスは無言で部屋を後にする。船医はすぐに息を整えた。寝台に横たわる子供は未だ微動だしない。船医の指先に伝わるのは冷たく湿った体温とまだ微かに残る心臓の鼓動だけ。


「少しだけ、我慢してくれ……」


 船医の声は落ち着いているが、滴る血の冷たさが室内の緊張を増幅する。まず血で濡れた服や髪を布で拭き取り、子供の顔を覆うように押さえながら包帯を巻く。やがて巻き終わると、子供の顔はすっかり覆われた。布の重みと少し残る血の匂いが惨劇を想像させる。船医は処置を終え、深く息を吐いた。沈黙がゆっくりと流れ、船医は黒髪の少年にふと目を向けた。少年は壁際に小さく身を潜めている。


「さて……君は、誰だろうか。名前は言えるかい?」

 少年は少し躊躇したが、口を開く。

「アントワーヌ……」

 船医は柔らかく微笑み、頭を軽く下げた。

「アントワーヌか。良い子だ」

 処置を終えた部屋にはまだ緊張の余韻が残るが黒髪の少年が名を告げた瞬間、わずかに空気が和らぐ。船医の優しい視線が少年に少しの安心を与えた。




 ——真っ暗な視界の中、遠くから数人の叫び声がかすかに聞こえた。


「……?」


 ゆっくりと瞼を開けると、木組みで薄暗闇とランプの灯りで闇と光の境が曖昧な天井が視界に広がる。身じろぎすると身体中に重い痛みが全身に走るが、苦しみより先に恐怖が先行した。見知らぬ場所、見知らぬ空間が胸を押し潰すように襲ってくる。


「……目が覚めたか」


 落ち着いた誰かの声に身を震わせて音がする方へ視線を向けるが、周囲は暗く不安が拭えない。顔ごと部屋を見回すと別の寝台に黒髪の少年が腰掛けていた。自分より少し年上だろうか、顔は暗くてよく見えない。知らない人間だ。それより、なぜ自分はここにいるのか頭の中で疑問が渦巻く。口を開きかけた瞬間、顔を強く締め付けられるような痛みが襲い、思わず呻き声が漏れる。


「ああ、すまない。今解いてやろう」


 さっきの声の主——船医が限られた視界の中で自分を助け起こすと、彼の手が自分の顔から圧迫を取り除いていく。痛みが消えたところで、ようやく理解した。血まみれの包帯が自分の顔面に巻かれていたのだと。重く、湿った布と冷たい鉄の感触。全身の力が抜け、息を整えるのが精一杯だった。視界に戻る灯りに血の匂いが漂う。弱いランプの光が寝台や湿った壁を淡く照らし、包帯で覆われた自分の影をぼんやり映した。見慣れない部屋、見知らぬ大人、見知らぬ少年。心臓の鼓動が耳に響くが、手足の感覚もまだ鈍い。全身の痛みが波のように押し寄せ、息を整えるのが精一杯で胸の奥で恐怖と警戒心がぐるぐると渦巻く。


 ——ここはどこ、なんでここにいるの。


 その直後、室外が慌ただしく騒ぎ出した。扉の向こうで金属がぶつかる音、足音、遠くで呻きが響く。新たな疑問が生じるより早く扉が勢いよく開いた。二人の海賊が血に濡れた武器を握り、軋む板の音を立てながら船医室に入ってくる。血に濡れた剣を見て、思わず恐怖で体を縮めた。


「大丈夫、彼らは君を傷つけはしない」

 船医の声がかすかな安心感を与える。

「おや、目が覚めたか。あとで船長に報告だな」

 一人の海賊が跪き、どこか卑しい笑顔が目の前に迫った。

「なあ坊主、名前を教えてくれないか?」

「……ボクは——」


 口を開きかけるが、不意に思考が止まる。またも恐怖と痛みが意識を押し潰してくる。


 ——あれ、ボクだっけ。 名前……なんだっけ。


 体が震えて世界が霞んできた時、視界の端で何かがキラリと煌めいた。顔を向けるとサイドテーブルに手鏡が置かれていた。恐る恐る鏡に触れ、目の焦点が合わずにぼやける中で顔を覗き込む。


 ──そこに映ったのは、もはや自分の顔ではなかった。


 額の右から左の頬、奥深く斜めに走る裂傷。皮膚は歪に盛り上がり、血が赤く滲む。浅い切り傷が網のように重なり、元の顔立ちは想像もできない。恐怖と痛みが数段深まって一気に押し寄せてくる。

 鏡の中で翡翠色の瞳が鋭さを帯びて光った。


「お前は、誰だ」


 深夜の船医室に、その問いが重く響き渡った。



 ——これが、後に悪魔の名を冠する獣の最初の記憶である。


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