表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
報復の航路【第二作 ルー・ブレス】1・2巻「誕生編」  作者: セキユズル
プロローグ ある男の最古の記憶
3/53

プロローグ① 少年

 本作は貴種流離譚の形式を借り、己の過去を知らぬ青年が世界と自身の真実に向き合う物語である。


 沈黙と冷徹の裏に隠された孤独、そして仲間との絆。それらは自由と名誉という相反する価値の狭間で揺れ動く。一匹の狼が霧の森を歩む。踏み出す道の先に何があるか、狼にはわからない。牙を研ぎ、耳を澄ませ、出会う者すべてに備えるのみ。


——すべては、蒔いた種が実を結ぶように。


 心身ともに傷を宿す彼もまた彷徨いながら、自らの航路を選ぶ一匹の狼である。孤独の中で力を試され、仲間との絆を育む。偶然の出会いは必然に変わり、剣を握る手に宿る意志が彼を未来へと押し進める。

 己の存在を知ることを恐れ、知らねばならぬと悟ったとき、初めて彼は真の旅路へと踏み出す。

 もしあなたが彼と共にこの航路を辿ろうとするなら覚悟してほしい。


 世界は広く、海は深く、記憶の底には想像を超える真実が潜んでいるのだから。

 暗闇の中で、少年はふと目を覚ました。


 光はない。壁も、床も、天井も感じられない。ただ、世界そのものが黒く塗り潰されている。

 けれど、遠くで何かが呻いている。低く掠れた、喉の奥から絞り出すような唸り声。

 少年は足元を確かめるように一歩を踏み出した。足音は響かない。地面があるのかどうかも分からない。それでも、声のする方へと進んでいった。


「……どこにいるの?」


 自分の声が闇に吸い込まれていく。怖くないと自分に言い聞かせていると、きらりと目の前で二つの光が瞬いた。次の刹那、影が跳ねる。黒い塊が少年の前に躍り出てすぐに距離を取った。身を低くし、牙を隠し、警戒するような姿勢。


「……っ!」


 少年は思わず悲鳴が漏らした。けれど、逃げなかった。二つの光から目を離せなかったから。細く鋭く、暗闇の中で淡く輝く色に。


「……キミは、だれ?」


 問いかけは独り言のように闇へ溶ける。影は唸り声を上げ、こちらを睨み続けていた。

 怒りではない、威嚇でもない。どこか怯えている。一歩、近づいてみれば影は後ずさるが、逃げない。

 少年はさらに一歩、距離を詰めると、細かった光がカッと見開かれた。影の輪郭がわずかに浮かび上がる。

 獣だ。小さな身体、しなやかな四肢。夜の闇に溶け込むような毛並み。犬にも見えるが、違う。


 ——狼。 影が揺れて定まらないが、狼だ。けれど、四足なのに人の気配がある。


「……あれ……」


 少年の声が思わず零れた。その瞳の色、澄んだ光。胸の奥がひどくざわつく。


「この目……これ、ボクだ」


 狼は何も答えない。ただ同じ色の瞳で、じっとこちらを見つめている。

 次の瞬間——。


 ドンドンドンッ!!


 扉を乱暴に叩く音に、少年は飛び起きた。

 寝台の脇に積み重ねていた本が崩れ、闇に落ちていく。指先がひんやりして冷気が部屋を満たし、窓外の月は霧にかき消されている。影だけが部屋を徘徊した。


「……あ、約束……」


 その時、扉の外から切羽詰まった声が響いた。


「ラウル様! 扉を、絶対に開けてはいけません!」


 小間使いの少年。普段は笑顔で振る舞う年下だが、声は震えて恐怖に歪んでいた。


「なに? どういうこと……?」


 少年は寝台から降りると、途端に胸が締めつけられた。手が無意識に扉へ伸びる。遠くで断続的な叫びと呻きが響き、屋敷全体が騒ついている。扉の向こうでは何かがぶつかり、倒れ、床を擦る音が重なり、音は息苦しいほど迫っていた。


「……何があったの?」


 少年は声をかけながら、指先で扉を押した。きしむ金属音と同時に扉が開いた瞬間、小さな影が目に飛び込んで鈍い音と共に床に伏す。

 小間使いだった。衣服は裂け、赤黒く濡れて鉄と焦げたような匂いが少年の鼻を刺した。


「……うそ……」


 少年が震える声で小間使いを抱き起こす。小間使いの瞼は閉じたまま、力はどこにも残っていなかった。手のひらを濡らすものは、すでに冷たくなりかけている。少年の喉が痙攣し、声にならない呻きが漏れた。現実が脳を殴ってくる。

 目の前のこれは……死? 世界が歪み、影が伸びる。光が裂け、音が遠のき、闇だけが濃く迫ってきた。闇の奥で軋む、床板の音。少年は思わず顔を上げた。誰かがこちらへ歩いてくる。


「……だれ……?」


 少年が呼びかけても返事はない。影の足取りは異様に静かで重く、間を置きながら近づいてくる。

 闇の隙間から裂いた月光が、手に握られた何かを照らした。

 剣だ。少年の呼吸が止まると同時に、視界いっぱいに白刃が弧を描いた。


「——っ!」


 閃光のような痛みが顔を裂いた。額から頬へ。熱、火花、血。濡れた温かさが皮膚を流れ落ち、叫ぼうとした声は潰され、喉の奥で掠れた呻きになる。

 世界が赤く染まった。片目に血が流れ込み、視界がぐにゃりと歪む。心臓が暴れ、このままでは破裂しそうだ。

 斬られた。——その事実だけが残る。

 顔の裂傷から滴り落ちる血が顎を伝い、少年の寝間着を赤く染めていく。少年は尻餅をついたまま必死に床を蹴る。後ずさる中で、刃は容赦なく振り下ろされた。閃き、何度も何度も頬をかすめる。


「……っ!」


 心臓が喉元まで跳ね上がる。部屋の奥へ、奥へ。赤い視界の中、顔面が焼ける感覚に咽びながら床を蹴った。逃げなければ刃が迫るから。だが、影に肩を蹴られ、仰向けに倒された。呼吸が抜け、胸が潰れる。少年の左手が何か硬いものに触れた。模造剣だ。指先がすがった次の瞬間、重い革物が手首をねじ伏せた。


「ぐっ……!」


 血の味、舌先に鉄。影の足で踏みつけられ、体の骨が拒否するように軋んだ。腕は熱を帯び、喉元に冷たい何かが押し当てられ、遂には視界に小さな白い点が踊った。頭の奥で鐘が鳴り、心が凍りつく。


——今度こそ、本当に殺される。


刃が振り下ろされようとした刹那、急に重圧が消える。影がわずかに身を引いた。


「やめなさいッ!」


 ヒステリックな声が闇を裂いた。顔を上げた先にいたのは、母ミレーユだ。

 薄衣で肩から腕にかけて血を流しながら必死に立ちはだかっている。暗闇の中でも、その淡い金髪だけが月光を受けてはっきりと浮かび上がっていた。


「ラウル! 逃げて!」


 ミレーユの泣きに近い声が耳を裂くように部屋に響いた瞬間、世界は紅に染まった。母が叫ぶ暇もなく、閃光の剣が彼女の身体を容赦なく切り裂き、宙を舞う血と濡れた刃が月光を反射した。伸ばしかけた手の先で、母の血を全身に浴びる。さっきまで生きていた母が無惨に倒れゆく。


「……っ……ぁ」


 叫んだつもりなのに掠れた息しか出ない。胸が締めつけられる。

 目の前の光景が、現実だと認めたくなかった。母は瞬く間に倒れ、さっきまで温もりだったものが指先の中で冷えていく。視界が急速にぐらつき、赤黒い世界が揺れた。胸を押し潰すような痛み、喉を突き刺すような匂い、母の絶叫、一度に押し寄せてきた。少年の神経は悲鳴を上げた瞬間、感覚がぷつりと切れる。痛みも匂いも、音も温度も、何もかも消え去った。

 世界は真っ暗。意識は途切れ、時間は溶け、無の底に沈んでいく。心臓の痙攣だけが微かに残響のように鼓動していた。



 少年は落ちた。どこにも届かない深淵へ、完全な暗闇に包まれて。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ