第十章② ルキフェルとジャスパーとフランソワ
甲板の一角。ジャスパーは一部始終を少し離れた舵輪の側で見ていた。
その時、不意に風が変わる瞬間を、ジャスパーの肌が先に察する。空気の流れがわずかに南へ引いた。波の立ち方も舷の下でうねる潮の音も、さっきまでとは違う。頬をかすめる風の温度、波の音のリズム、潮の匂いが微妙にずれている。まるで海そのものが「今だ」と囁くようだった。
「……しめた!」
ジャスパーは身を翻した。誰の許可も待たず、舵輪の取っ手を掴む。掌に伝わる木の感触。まるで自分の心臓の鼓動と同調しているようだった。
面舵いっぱい——。ぐっと腕に力を込めて、舵を切る。船体が大きく軋み、甲板の上にいた水夫たちが一斉によろめき、積荷がごろりと転がる。悲鳴と怒号が入り交じり、帆が風をはらんで一瞬大きく膨らんだ。
「おい! 誰が舵を——!」
「ジャスパーか!? 何してやがる!」
怒鳴り声の中で、ジャスパーの口元は静かに吊り上がっていた。目は前方の海を捉えている。彼の視線の先には、僅かに波立ちの異なる一筋の海流。まるで青い獣が眠りから目を覚ましたような、不思議な迫力を放っていた。
——ここだ。
彼の中で何かが確信に変わる。計器も地図もいらない。海の匂いと風の癖が、彼に道を教えてくれる。
「ちょいと近道させてもらうぜ……!」
呟きながら、再び舵輪を握り直す。船体が波を噛み、船首が滑るように新しい流れへと乗り移った。わずかな傾きの中に、誰も気づかぬ“速度の伸び”があった。風が変わり、空がひらける。船がまるで笑うように海上を駆け抜けていった。
船体が大きく傾いたその瞬間、ルキフェルは船室の中で異変を察知した。甲板のほうから響く怒号、転がる樽の音、帆のきしむ音。嫌な予感しかしなかった。
「……まさか」
書類を机に放り出し、階段を駆け上がる。陽光のまぶしさの中、甲板に出るとそこは戦場のようだった。
「おい! 何があった!」
ルキフェルの怒鳴り声が風を裂く。水夫たちは慌てて樽を押さえ、転がった荷を拾い集めていた。そして、その中心、舵輪の前に立つ赤髪の男。
「ジャスパー……てめぇ!!」
舵を掴んでいるジャスパーの姿を見た瞬間、ルキフェルのこめかみが引きつった。風を受けて赤髪が激しく揺れている。当の本人はどこ吹く風で、口笛を吹きながら航路を見据えていた。
「何してるんだ! 誰の指示で舵を切った!」
「誰のって……海の指示だよ」
悪びれる様子もなく、ジャスパーは振り向いてニヤリと笑った。その顔に、ルキフェルの怒気が一気に上がる。
「……言い訳がそれか」
「言い訳じゃねぇよ。ほら、見てみろ」
そう言ってジャスパーは舵輪から片手を離し、顎で前方を指した。ルキフェルは眉をひそめながら視線を上げる。
——潮が変わっていた、波の立ち方が違う。船首をかすめる風の角度も、さっきまでとは明らかに変化している。船はまるで何かに押し流されるように速度を上げていた。
「……この海流を読んだのか?」
「勘だよ」
ジャスパーは片目を細めて笑う。無邪気さと自信が入り混じった、あの悪戯な笑みだった。ルキフェルはため息をついた。怒鳴りたい気持ちは山ほどあったが、船の傾きは安定し、速度は上がっている。正確な判断、いや感覚だった。
「……お前、度胸だけは一人前だな」
「そういうお前こそ、頭カチカチだぜ?」
挑発するように笑うジャスパーに、ルキフェルは目を細めたが口元にはほんのわずかな苦笑が浮かんでいた。
「次やったら叩き落とす」
「へいへい、気をつけまーす」
軽口を交わしながら、二人の背後で風が強く吹き抜けた。舵輪の軋む音と、帆のはためく音が混ざり合い、海はまるで二人のやり取りを笑っているように見えた。ルキフェルは舵輪を一度軽く回しながら風と波の変化を確かめる。確かに、ジャスパーの判断は間違っていなかった。彼の感覚の鋭さに、思わず笑みが漏れる。
「……なるほど。風と潮を読む目は悪くないな」
「だろ? おれ、もしかして天才かも!」
調子づいたジャスパーが胸を張る。ルキフェルは肩をすくめつつ、わずかに口角を上げた。
「休暇が終わったら、フランソワと相談してお前を操舵手見習いにできないか掛け合ってみるさ」
「ほんとか!? やったぁ! おれ、絶対うまくやるよ!」
無邪気に跳ねるジャスパーを見て、ルキフェルは不意に目を細める。
「……もっとも、お前は操舵の指導よりも——」
低い声で区切り、わざと視線をジャスパーの背後へ流した。そこには、舵を乱暴に扱われて怒り心頭の操舵手が腕を組んで立っていた。
「——お仕置きの方が先かもしれんな」
「えっ……えっ?」
青ざめたジャスパーの背後で、操舵手の拳がぐっと鳴る音がした。
「ああ、今だけはこいつをしばいていいぞ。俺が許可する」
ルキフェルの言葉に、操舵手はにっこりと笑った。彼の笑みは、ルキフェルの比ではないほど恐ろしい。
「……ルキフェル、やっぱ見習いはなしでいいです」
「もう遅い」
「いやああああっ!!」
甲板に響くジャスパーの悲鳴を背に、ルキフェルは満足げに微笑んでその場を立ち去った。波が再び落ち着き、風が穏やかに帆を撫でた。
前の騒動からそう時間も経たない頃。
船長室の扉が勢いよく開き、真っ赤な髪をぐしゃぐしゃにしたジャスパーが転がり込んできた。
「フランソワぁぁぁ! 助けてくれよぉ! 死ぬかと思ったぁ!」
机に向かって報告書をまとめていたフランソワは眉をひそめる。
「……今度は何をしたんだ」
「ルキフェルがぁ! おれを褒めてくれたと思ったら、次の瞬間に『お仕置きしていいぞ』って!」
身振り手振りで必死に訴えるジャスパーの背中には、ところどころ埃やロープの繊維がついている。どうやら本当に甲板で転がされたらしい。フランソワはこめかみを押さえて深く息を吐いた。
「……ルキフェル、やりすぎだ」
まるで呼び出しの呪文のようにタイミングよく届いた。部屋の隅から低い声が返ってくる。
「……俺、悪くない」
ルキフェルが腕を組んでむすっとした顔をしている。
「むしろ教育的指導だ。あいつ、舵輪をあんな勢いで回したら壊れるかと思ったぞ」
「でも本気で殴らせることはなかっただろう」
「本気じゃねえよ。……ちょっとだけだ」
ルキフェルの言葉にフランソワがため息を吐いた。
「ちょっとでこの有様か……」
泣きべそをかくジャスパーを見て、ルキフェルは顔を背ける。
「あんなの、泣くほどじゃねえだろ」
不貞腐れたように呟くルキフェルの声には、ほんの少しだけ反省の色も混じっていた。フランソワはそんな二人を見比べ、苦笑する。
「やれやれ。まったく、船が穏やかになる暇がないな」
ジャスパーはふとフランソワの顔を見上げ、にやりと笑った。
「……あれ、そういえば」
泣きべそをかいていたはずが瞬く間に表情を変え、ケロッとした顔になる。
「ルキフェルだって、水夫を力で分からせてたじゃないですか!」
ルキフェルは一瞬目を見開き、背筋がピンと伸びた。
「……な、何を言って——」
「ほら、あの時の甲板で! 生意気な水夫の喉を突いたじゃん」
ジャスパーは無邪気に肩をすくめ、笑みを浮かべているが、フランソワの笑みが次第に引き締まったものへと変わる。眉間にわずかに皺を寄せ、両手を腰に当ててルキフェルを見た。
「……どういうことだ」
フランソワの声は穏やかさを残しつつも、明らかに問いただす色を帯びていた。ルキフェルは一瞬目を逸らし、しばらく黙る。ジャスパーは彼らの様子を見て、無邪気に笑った顔が一瞬にして青ざめた。ルキフェルは唇を噛み締めてから口を開いた。
「……あいつら、俺を生意気だとか抜かしやがる。秩序を守るためだ。舐められてばかりじゃダメだと思って、立場を分からせただけだ」
フランソワはゆっくりと息を吐き、両腕を組み直してルキフェルを見据える。
「だからと言って、結果的に何が残った? お前も皆も苦しむだけだ。だから、『船上での争い事は禁止』って規則を作ったんじゃないか? 掟を担うお前が真っ先に破ってどうする」
ルキフェルの肩がわずかに震える。
「……分かってる。でも、俺だって、守らなきゃいけないものがあるんだ」
フランソワは小さく首を振り、ため息をついた。
「そうだな。お前の言う通り、守るべきものはある。だが、方法を間違えては意味がない。覚えておけ、ルキフェル」
ルキフェルはうなずき、目を細める。
「……覚えておく」
フランソワの視線は穏やかだが、言葉には迷いのない重みが宿る。
「感情に流されるな。俺とリュウがお前に強さを授けたのは、お前を暴力的な人間にするためじゃない」
ルキフェルは一瞬舌打ちをしそうになるが、頭の奥で師匠リュウ・ヨシマサの顔を思い浮かべ、指先で口元を覆った。
「……わかってるよ」
「分かってるなら、余計に慎重になれ。常に冷静でいろ」
ルキフェルは拳を軽く握りしめ、頷くしかなかった。フランソワは深いため息を吐いた後、どこか呆れた笑みを浮かべて話題を切り替えた。
「ところで、さっきの船体の傾きといい、甲板の騒ぎといい……原因はお前だな」
ジャスパーは顔を輝かせ、胸を張って答えた。
「おれが舵を取ったんです! この海流に乗れば短縮ルートに乗れるって、おれの勘が言ってました!」
ルキフェルは小さく笑みを漏らしつつ、フランソワを見る。
「あの直感、悪くなかった。操舵手としても期待できるかもしれないぞ、ジャスパー」
ルキフェルの冗談めかした口調に、フランソワは思わず眉を顰めた。
「こいつが? 冗談はやめろ」
そう言いながらフランソワはジャスパーへ視線を移した、その瞬間だった。赤髪の隙間から、ふと左耳が露わになる。光を受けて、きらりと瞬いた。
チェコガラスとトルコ石を織り込んだ、小さなビーズのイヤリング。
フランソワは言葉を失った。視線が吸い寄せられ、口をわずかに開けたまま動けなくなる。
ルキフェルはフランソワの様子を見て、微かに目を細める。
一方のジャスパーはフランソワの反応に気づいたのか、少しだけきょとんとした顔で瞬きをした。
——あ……見えたか。
無邪気に笑ってはいるが、内心では小さく首をすくめている。
普段は、無意識のうちに肩まで伸びた髪で左耳を隠していた。理由を深く考えたことはない。
ただ、アランに言われたから。
「あんまり人に見せるなよ」
なぜ言われたのか分からない。彼の真意も知らない。だが、言われた通りにしていればいい。ジャスパーにとってはそれくらいの感覚だった。
フランソワはなおジャスパーの耳元から目を離せず、ゆっくりと指を伸ばして指差した。
「ジャスパー、お前……洒落たもん付けてるんだな。どこで手に入れた?」
ジャスパーは一瞬だけ間を置き、髪をかきあげる。露わになった耳元に、指先でそっと触れた。
「これですか? うーん……正直、よく分かってなくて。ガキの頃から付いてたんです。なんとなく大事にしてて。……外し方も分かんないし」
ルキフェルは腕を組んだまま、フランソワをちらりと見やった。
「お前、欲とか全然ないもんな。だからこそ、そのイヤリングが余計に異質に見えるんだろ」
ジャスパーは気にした様子もなく、無邪気に笑って耳元の飾りを軽くいじる。フランソワはようやく小さく息をついた。
「……なるほどな」
彼は天井を見上げるように視線を逸らし、しばし考え込む。やがて、決意したようにジャスパーを見据えた。
「分かった。お前の直感を信じてみる。次の航海から操舵手見習いだ。せいぜい、皆のために励め」
ジャスパーは目をぱちくりさせて言葉を失ったあと、少し戸惑いながらも口元に笑みを浮かべて感謝を述べる。
「はい……ありがとうございます!」
だが、普段通り飄々と振る舞っていてもジャスパーの内心にはあの操舵手の怒りの形相がチラつき、少しだけ落ち着かない様子だった。ジャスパーの横で、ルキフェルは目を細めて彼の様子を眺めていた。
「こいつは、本当に我慢が利かないな」
フランソワはその二人を見渡すと、少し肩をすくめて呟いた。
「……まあ、悪くないな」
そこへ扉がノックされ、甲板長の声が扉の向こうから聞こえた。
「目的地の港が見えてきました。下船の準備を始めてもよろしいでしょうか?」
ルキフェルはすぐさま返事をする。
「ああ、始めてくれ」
続けて、ルキフェルは船長室を見渡しながらそっと付け加える。
「俺も後から向かう」
扉の向こうで甲板長が船員たちに指示を出し始めた。波の音と共に、港に向けた一日の作業が静かに動き出す。ジャスパーは船長室を出る直前、胸を張ってにやりと笑った。
「やっぱおれ、天才だな!」
ルキフェルは眉を顰めて返す。
「調子に乗るな。さっさとみんなの元へ行って働け」
二人は互いに軽口を交わしながら船長室を後にする。扉が閉じた瞬間、フランソワは両手で頭を抱えた。
「なぜだ、なぜ今まで気づかなかったんだ。あの赤髪、それとあのイヤリング……!」
彼の脳裏にジャスパーの赤髪と、チェコガラスとトルコ石のビーズが織り込まれたイヤリングの姿が浮かぶ。
次第に赤髪の青年から、同じく赤髪で色白の女性と長く流れる黒髪に褐色肌の男性——二人の姿が鮮明に思い出されていく。
フランソワは静かに息をつき、窓の外を見つめながら呟いた。
「アルマさん……ゼフィランサス……俺が抱える秘密、どれも重すぎる」
フランソワは目をさらに鋭く、心に決めたように言葉を紡いだ。
「ルキフェルとジャスパー……一方は海軍大元帥の息子で、一方は大海賊の息子、か。どんな因縁だよ。これからは、二人同時に守らねば」
窓の外に広がる水平線を見据え、フランソワの顔には決意の色が濃く刻まれた。
——海は運ぶ。まだ見えぬ真実と、因果を乗せて。




