第十章① ルキフェル
翌朝、淡い光が水平線に沿って差し込む頃。
ルキフェルは目を覚した。深く伸びをし、昨夜の剣の感覚をまだ指先に覚えながら、静かに布団から体を起こす。外では船の帆は穏やかな風に揺れ、甲板上では船員たちが朝の点検や簡単な整備に取りかかっている。
ルキフェルは自室で名簿を取り出した。昨日の略奪で得た戦利品の記録だ。
戦利品の品目、数量、価値を確認し、どの船員にどの程度渡すか計算するのがクォーターマスターの役割だった。海上での航海中は、港に着いてから配布する前に公平に数字を割り振る必要がある。ルキフェルは唸りながら羽ペンを走らせ、頭の中で試算を繰り返した。酒や食料の分量、日常消費分との兼ね合い、船員の人数や役割を考慮して公平に分配しなければならない。
「……遊ぶやつの気持ちがわからねー……」
ルキフェルは数字の海に没頭しながら、頭の中で船員が喜ぶ顔や小さな笑い声を想像する。しかし、まだ海上で戦利品を手渡せないもどかしさに、どこか距離を置いた目線で自分を感じる。
「酒は一人当たりこれだけ、食料はこれだけ……」
繰り返し計算を確認し、名簿を整えるとようやく納得した顔を浮かべる。港に着く前の海上での仕事を終えたことで、少しだけ自分の成長を実感した。ルキフェルは名簿をそっと閉じ、窓の外に目をやる。水平線の向こうに広がる青い海を見つめ、これから待ち受ける港での業務や船員たちの様子を思い描いた。
「あ、フランソワに確認とるか」
ルキフェルは名簿を手に自室を出た。階段を上り、船内を進む。すれ違う船員たちと軽く朝の挨拶を交わしながら、甲板へと続く扉に差し掛かった。外に出ると、朝の光に照らされたジャスパーが、ほうきで床掃除をしていた。怒鳴る先任船員に対しても、彼はヘラヘラと笑みを浮かべて手を止めない。ルキフェルは思わず溜息をつく。
「……まったく、何度見てもあいつは懲りないな」
呆れながらも視線を船長室の扉へ移し、ノックする。朝の風が甲板を通り抜け、帆の上をそよぐ音と共にルキフェルの心も少しだけ落ち着いた。
「フランソワ、いるか」
船長室の中へ声をかける。静かな室内に、フランソワの声が返ってくるのを待ちながら、今日の分配や船員たちの顔を思い浮かべる。ルキフェルの胸中には責任感と少しの緊張が混じっていた。
「入れよ、ルキフェル」
フランソワの声に従い、ルキフェルは室内に足を踏み入れて、机の前でフランソワに名簿を差し出した。朝の光が船長室の机に反射し、フランソワが表紙をめくる指先にルキフェルの身体に少しの緊張が走った。フランソワは目を細め、ページを確認してい木、やがて驚き混じりの表情を浮かべた。
「……おい、これどういうことだ?」
フランソワが名簿のページを指さすと、そこにはルキフェルとジャスパーの取り分が完全にカットされていた。
「だって、俺たちはガキだろ? 貴族のリゾート地に行ったところで、遊ぶ場所なんてないんだ。むしろ他の奴らに回して使ってもらった方が合理的だろう」
ルキフェルは少し照れくさそうに言い、フランソワはやれやれと笑った。
「お前なあ、相変わらず理屈っぽいな。まあ、その判断も悪くはないだろう」
ルキフェルは少し誇らしげな感情と、船員たちへの公平な分配を前に、任感がじわりと胸に広がる瞬間だった。
「それに、俺……」
口元に手をやりかけた瞬間、ルキフェルはハッとして止め、視線を逸らすように僅かに息を吐いた。
「ん? どうした」
フランソワの穏やかな声が背中から聞こえ、ルキフェルは仕方なくフランソワに目を向けた。
「俺、こんな顔だから外に出ない方がいいんだろ」
素直に言葉を吐き出すと、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。続けざまに、ルキフェルは自分の胸の内を打ち明ける。
「分かってるんだ。フランソワは、俺がこの顔を晒すことを嫌がってる。俺が略奪で表に出る度に、フランソワは嫌な顔するんだろうなと思うと……」
言葉はそこで途切れ、ルキフェルはしばらく押し黙った。口を開けたくても、次の言葉がどうしても見つからなかった。胸の中に渦巻く悔しさと不安、孤独感が膨らんでいく。そんなルキフェルを見て、フランソワはゆっくりと息を吐いた。
「俺は嫌がってるんじゃない。心配してるんだ」
ルキフェルはわずかに目を潤ませ、フランソワは続ける。
「俺がお節介を焼くことで、お前をイラつかせているのは分かっている。けど、俺が何もしてあげなかったら、お前が必要以上に不安を抱えて我慢を強いることになる」
フランソワはルキフェルの表情をじっと見つめ、さらに柔らかい声で告げる。
「どうしても耐えられない時は言え。もちろん、お前が勇気を持てた時にな」
フランソワの瞳には優しさと深い理解が宿り、言葉の端々に父親のような包容力が滲んでいた。ルキフェルは小さく息を吐き、フランソワに軽く頭を下げた。彼の胸には少しだけ、長く抱えていた重さが緩む感覚があった。ルキフェルは小さく笑いながら名簿を手に取ると、フランソワをちらりと見た。
「なあ、フランソワ。俺って、今日も一番最初に船員たちの分配やるのか?」
フランソワは口元に微かな笑みを浮かべ、腕組みをしてデスクの上の書類を眺める。
「お前の仕事だ。クォーターマスターだろ?」
「でもさ、遊びたい奴はいっぱい遊べるわけじゃん。俺、計算ばっかでつまんねーよ」
「つまんねー? お前な、毎回そんなこと言ってるが、計算ひとつで船の秩序が保たれるんだぞ。誰も文句
言わずに飯食えるのも、全部お前のおかげだ」
ルキフェルは口元を歪めて、少し照れ隠しのように言う。
「でもさ、俺は遊びたい気持ちがわかんねーんだよな。どうやって楽しむのか、全然わかんねえ」
「わかるわけないさ、ガキなんだから」
フランソワは肩をすくめた。
「俺だって、お前くらいの年のころは、まず海に出られるかどうかも分からなかったし」
ルキフェルは口元に指先を当て、考え込むように天井を見上げた。
「でもさ……フランソワは、俺がどんだけ変わっても別に怒ったりしないよな」
「怒らねえさ。むしろ、ああでもないこうでもないって悩んでるお前を見るのが、面白いくらいだ」
「へえ。それって、褒めてるのか馬鹿にしてるのか、どっちなんだ?」
フランソワは肩をすくめながらにやりと笑う。
「うーん。戦友っぽくもある、兄貴っぽくもある、親父っぽくもある。お前が勝手に感じろ」
ルキフェルはくすっと笑って、名簿を片手に振りかざしながら、軽く胸を張った。
「じゃあ、異論がないなら分配はこの方向でいくぞ。俺とジャスパーは全カット、大人のお前らは勝手に遊んでけ」
そう言い放つと、ルキフェルはくるりと振り返って船長室を出て行った。扉の向こうで紙の書類がかすかに揺れ、彼の足音が階段を駆け下りる。
フランソワは軽くため息をつき、机に置いた羽ペンを指先で弄びながら呟いた。
「お前のクソ生意気なところは、変わらねーな」
果てしなく広がる水平線の青が、ゆっくりと船体を揺らす波に映り込み、朝の光を反射して煌めいていた。一人残された船長室には静寂が戻り、フランソワはその水平線をじっと見つめながら、ルキフェルの成長を思い浮かべていた。
ルキフェルは名簿を自室の机に放り、扉を閉めるとすぐさま甲板へ戻った。潮風が肌に当たり、日が高くなるにつれ、海面は眩しいほどに白く光っている。甲板には、さっきまで戦利品として引き上げた積荷がまだ雑然と並べられていた。砲弾箱、木樽、金属器、絹織物。船員たちはその周りで縄を解いたり、重量を測ったりしている。
「おい、そこの二人! その樽、左舷じゃなくて中央寄せろ! 重心が偏ると舵がブレる!」
声を張り上げるルキフェルの指示に、甲板員たちは「了解!」と返して動いた。彼はすぐさま片手に帳簿の端紙を挟み込みながら、甲板の端から端まで歩く。積荷の種類と配置を一瞥しては舌打ちした。
「その銅貨の箱、鉄製だろ? そっちは下層の一番後ろに積め。航行スピードが落ちる」
「へい!」
木箱を運ぶ音と、海鳴りと帆を叩く風の音が交錯する。ルキフェルは一人ひとりの動きを見逃さず、時折自らも縄を手に取って箱を引いた。
「船体が右に傾いてる! 積み直し急げ!」
彼の声に周囲が一斉に動く。ルキフェルは欄干越しに海を見やりながら呼吸を整える。潮の匂いが濃い。まだ港は遠いが、この瞬間だけは彼がこの船の“中枢”であることを誰も疑わなかった。
「その樽はもう少し中央へ寄せろ、風向きが変わったら舵が取られるぞ!」
甲板を駆けるルキフェルの声に、船員たちは一斉に動いた。積荷の移動で船体がわずかに傾くたび、木板が低く唸った。そんな中で、彼の耳に小さな舌打ちの音が混じった。
「……やっぱ生意気だよな、あいつ」
「若造のくせに、偉そうに指図してよ」
声の主は、甲板の端で縄を巻いていた若い水夫たち。昨夜、酒の勢いでルキフェルの噂をしていた連中だった。ルキフェルは歩みを止め、静かにそちらを振り返る。
「……今、何か言ったか?」
空気がぴたりと張りつめた。波の音だけが甲板の上に響く。一人の水夫がにやりと笑いながら、肩をすくめてみせる。
「いえいえ、なんでもねえよ。クソガキ殿、今日も偉そうに数字と遊んでるのかと思ってな」
水夫の言葉の響きに、喉まで出かかった言葉をルキフェルは歯を食いしばって押しとどめた。ここで怒鳴れば、ただの子供だ。冷静になれ、と自分に言い聞かせる。甲板では、他の船員たちがちらちらと様子を窺っている、誰もがこの緊張を感じ取っていた。ルキフェルは鼻で息を吐き、無言で視線を逸らすと再び積荷のほうへ歩き出した。
「……いいから手を動かせ。樽の位置、三尺ずらせ」
ルキフェルの背後で、水夫たちの小さな笑い声がしたが、彼は振り返らなかった。見返すのは、言葉じゃない。行動だ。そう思うことで、ようやく拳を握りしめた手が静かにほどけたが胸の奥にくすぶったままの熱が波のように再び押し寄せてくる。
舐められて終わるのは、最悪だ。自分がクォーターマスターである以上、秩序を守るのは義務でもある。そう思った瞬間、ルキフェルの足は自然と止まっていた。静かに息を整え、踵を返すと先ほど舌打ちをしていた水夫たちの元へ真っすぐ歩いていった。
「おい、お前」
水夫たちが一斉にこちらを向く。
「……おれですか?」
先ほどにやついていた若い水夫が、不安げに眉を動かす。ルキフェルは淡々と顎をしゃくった。
「ちょっと寄れ」
水夫が一歩、近づく。その瞬間だった。ルキフェルの拳が鋭く水夫の喉下を捉えた。
「——ッ!」
呻き声とともに、水夫の体がわずかにのけぞる。声にならない咳が漏れ、顔が苦痛に歪むが、ルキフェルは追撃しない。静かにその様子を見下ろした。
「舐めていい相手と、越えちゃいけない相手の区別くらいは覚えとけ」
甲板の空気が凍りつく。水夫は喉を押さえながら、ようやく小さく頷いた。その反応を確認すると、ルキフェルはいつもの調子に戻ったように言う。
「分かればいい。……さっさと持ち場に戻れ」
水夫が逃げるように持ち場へ戻っていくと、周囲にいた他の船員たちは一言も発せず、それぞれの作業へ散っていった。波の音と帆のはためきだけが、再び甲板を支配する。ルキフェルはゆっくりと息を吐き、空を仰いだ。
——結局、抑えたつもりでもこれか。
水夫たちは黙った。誰も文句を言わず、誰も逆らわない。甲板の秩序は保たれ、指揮官としての威信も揺るがない。それでも、胸の奥に残るのは奇妙な虚無感だった。
勝ったという感触は、どこにもなかった。代わりに広がるのは、冷たい海風と心の奥を締めつけるような孤独だけ。
怖がらせることでしか、誰も従わせられないのか。そんな問いが、ひとりでに胸の中に浮かんでくる。あの水夫の目に浮かんだのは畏怖でも尊敬でもなく、純然たる恐怖だった。
彼らの視線を思い出すだけで、胸の奥がざらりと荒れる。これでいいと自分に言い聞かせようとしても、喉の奥にひっかかった違和感は取れない。
ルキフェルは拳を開き、掌を見つめた。そこには、ほんのわずかに赤くなった皮膚の痕が残っている。彼はそのまま掌を海風に晒して呟いた。
「……なんでだろう。勝ったはずなのに、気分が悪い」
その言葉を聞いた者は、誰もいなかった。波音だけが返事のように、彼の足元で静かに寄せては返していた。




