第九章② ルキフェルとジャスパー
船が波を裂くたびに、甲板の下からわずかに鉄の軋む音がした。指揮を終えたルキフェルは、喉の渇きを覚えてギャレーへと足を向けた。鍋をかき回していた料理人が顔を上げると、片手で小さな陶器のカップを差し出してくる。
「さっきの商船で手に入ったライムだ。搾ってみたが、ほとんど汁がねぇ。まあ、水代わりにはなるさ」
ルキフェルは軽く礼を言ってそれを受け取った。酸味が喉に心地よく、潮の匂いを一瞬だけ忘れさせた。ギャレーを出て、狭い通路を歩いた時、少し離れた作業区画から若い水夫たちの話し声が流れてきた。
「なぁ、あの傷だらけの兄ちゃん、まだ十代半ばなんだとよ」
「嘘だろ? あの目、年季が違うぞ」
「でもさ、前のクォーターマスターが良かったな。落ち着いてたし、あの人がいるだけで船が静まったもんだ」
「しょうがねぇだろ、あの方は引退したんだから」
ルキフェルの足が止まった。狭い通路の真ん中、カップを持つ手がわずかに震える。心臓が、潮騒にかき消されるほどの音を立てた。
——“引退”。
その言葉に、胸の奥がざらりと音を立てる。頭に浮かんだのは、甲板の上で堂々と君臨した、あの背中。どんな時も動じず、海の怒りをも手なずけた先導者。自分をクォーターマスターに育て上げた、あの人の姿だった。
「……あんたのようには、まだなれねぇよ」
小さく呟く声は、誰にも聞こえなかった。水夫たちの会話はなおも続いていた。
「たださ、おれはやっぱり暴れまわりてえな。もっと派手に、胸のすくような略奪をよ」
「船上での争いは厳禁、賭け事は絶対禁止、女の連れ込みは論外。八つ時過ぎたら寝ろ、だとよ。これじゃ軍隊と変わらねえじゃねえか」
彼らの言葉に、ルキフェルのこめかみがぴくりと動いた。手の中のカップの中身が揺れ、酸味の残る液体がわずかに指にかかった。
——軍隊と変わらない?
その言葉の軽さが、腹の底に小さな火を灯す。秩序を守らなければ、海はすぐに牙を剥く。無法は一瞬の快楽だが、続ければ命を食われる。それを知らない愚かさに、言葉が出そうになった。
「やめとけよ」
別の水夫が、やや低い声で制した。
「お前、あの傷だらけの顔を目の前にして、それ言ってみろよ」
「はっ、言えるわけねえだろ。あんなおっかない顔。あの顔は何度見たって慣れねえよ。特に……あの斜めの傷、な」
ルキフェルはふと息を止めた。指先が無意識に額の右側へと上がり、そこから顔の中央、左頬、そして顎の輪郭ギリギリまでをなぞった。古傷はまだ赤みを帯び、触れるたびに微かな熱を帯びているように思える。
この傷は、生き延びた証だ。けれど、同時に恐れを纏わせる仮面でもある。誰もその裏を見ようとはしない。見ようとすれば、みな怯える。ルキフェルはゆっくりと息を吐き、足を踏み出した。誰にも聞こえぬよう、胸の奥でだけ呟く。
「……だからこそ、俺はあの人のようにはなれねぇんだよ」
波音だけが、夜の海を満たしていた。甲板に出たルキフェルは潮の香りを胸いっぱいに吸い込み、深く息を吐く。風が髪を揺らし、冷たくも心地よい夜気が傷の頬を撫でた。
「ルキフェル殿」
背後から声がした。航海士が手帳を抱えて、足早に階段を上ってくる。
「現在、サン=ジャン=ド=リュズへの航行は順調です。風向きも良好。あと二日もすれば、入港できるかと」
「そうか」
ルキフェルが言葉少なに返すと、再び海に視線を戻した。黒々とした波の向こう、遠い水平線の彼方に微かに星が滲んでいる。
今回の航路は、略奪でも偵察でもない。
私掠船として数々の戦果を上げてきたフランソワ船団は、一貴族からの正式な招待を受けていた。休息を兼ねて、サン=ジャン=ド=リュズに立ち寄る。
それが今回の目的だった。だが、ルキフェルにとってそれは心惹かれる話ではなかった。貴族の宴、きらびやかな社交、退屈な形式、どれも彼には似合わない。あの時、フランソワが軽い口調で言ったのを思い出す。
——せっかくの誘いを断っては、何があるかわからないからな。
ルキフェルはふと口の端を上げる。
「……まったく、フランソワらしい」
彼の呟きは風にかき消され、闇に溶けていった。夜の海は静かだったが、胸の奥にはわずかなざわめきが残る。次に訪れる港に、何が待っているのか。
ルキフェルは手にしたカップを唇に運んだ。搾りたてのライムジュースは酸味が強く、喉を滑るたびにわずかに沁みたが、それがかえって心地よかった。一息に飲み干す。
空になったカップを近くの樽の上に置いた瞬間、風とは違う揺らぎが肌を撫でた。彼は無意識に呼吸を止め、動きを止める。暗闇の奥、甲板の隅で木箱が擦れるような微かな音。足音ではない。だが、確かに何かがいる。視線を動かさず、耳と気配だけで追う。音が右舷側にずれる。
ルキフェルは体をわずかに反らし、重心を落とした次の瞬間、気の流れが大きく動いた。
——来た。
視界の端をかすめる黒い影。ルキフェルは咄嗟に身をひねり、風を切って横へ跳ぶ刹那、影が彼の前を通り抜け、すぐ後ろで派手な音が鳴り響いた。
ガタンッ! ドサァッ!
木箱が崩れ落ち、麻袋が転がり、乾いた粉が宙に舞う。静寂が戻るまでのわずかな間、聞こえたのは情けない呻き声だった。
「……いってぇ……」
ルキフェルは無言のまま、樽の脇に置かれていたランプを手に取る。炎の明かりが広がり、倒れた荷の山を照らす。そこにいたのは燃えるような赤髪を乱し、荷物の山の中で頭を押さえる男だった。
「……ジャスパー」
ルキフェルの声が低く響く。ジャスパーは苦い笑みを浮かべ、眉をしかめた。
「お、おい……いきなり避けるなよ……! 脅かすつもりじゃなかったんだって……」
ルキフェルは小さく息を吐いた。
「……脅かす気がない奴が、深夜に背後取ってくるか?」
呆れたように言うと、ジャスパーは苦笑しながら首の後ろを掻いた。
「いやー、暇だったからさ。みんな寝ちまって退屈だったんだよ」
そう言いながら、彼は崩れた荷の中から一本の瓶を取り出した。
「ほら、これで許して?」
瓶の形からしてワインのようだが、栓を開ける前にルキフェルの眉がぴくりと動く。
「……確認だが、それ、アルコール入ってないよな?」
ジャスパーは瓶のラベルを指でなぞり、暗がりの中で目を凝らした。
「ああ、ちゃんと“ジュース”って書いてある」
「本当だな? お前、酒弱くて匂い嗅ぐだけでクラっといくだろう。心配だ」
「弱いって言うなよ。おれは他の奴より感覚が鋭すぎるだけだって」
ジャスパーはむっとした表情で言い返したが、ルキフェルは口の端を僅かに上げて笑った。
「……鋭すぎて、風の匂いでも酔いそうだな」
「それ褒めてる? けなしてる?」
「どちらでもない。事実を言っただけだ」
「まあ、いいや」
ジャスパーは瓶の栓を抜き、香りを確かめてからにやりと笑った。
「おれ、このあと見張りなんだ。一杯ひっかけるか?」
「ジュースでか?」
「もちろん」
ルキフェルはわずかに肩をすくめて笑う。
「いいだろう。二人で今日の祝勝会だな」
二人は甲板を横切り、索具へ向かった。潮風が夜気を冷やし、帆の影が月を裂く。ルキフェルが先に手をかけると索具はわずかに軋みながらも、馴染んだように彼の体を受け入れた。ロープの網を軽々と登るその身の動きは、もはや躊躇を知らない。
——昔は、フランソワが登らせてくれなかったっけな。“ガキは危険だから”と、そう言って。
見張り台を見上げながら、ルキフェルは小さく息をつく。今はもう、誰に止められることもない。自由に、どこへでも行ける。その事実が、なぜか胸の奥をひどく静かに熱くした。シュラウドを登り切った見張り台で、二人は肩を並べて座る。瓶を手に取ったジャスパーが軽く蓋を開け、甘い香りを確かめながら口を開く。
「でさ、あの貴族の招待ってどうよ?」
「どうもこうも、俺たちみたいなクソガキは船で居残り決定だろ。時間の無駄だって」
ルキフェルは腕を組みながら波間を見下ろし、ジャスパーは笑った。
「だよな。船の上で遊んでる方がよっぽど面白いってもんだ」
「つーか、身分とか面倒臭え。挨拶だの、服装だの、上流ぶった奴らと話すとかマジで勘弁」
ルキフェルは小さく舌打ちをし、ジャスパーがからかうように目を細めた。
「ルキフェル、それでもクォーターマスターだろ?」
ルキフェルは肩を揺らして呆れ顔を見せる。
「だから何だ。船の上での俺の仕事にゃ関係ねえだろ。俺は俺の好きに動く、それだけだ」
ジャスパーは少し考えて、瓶を軽く回しながら笑った。
「まあな。ルキフェルが船の上で自由にやれてるのは、それだけおれたちが信じてるってことだろ?」
「ふん、そういうことにしとく」
ルキフェルは肩をすくめ、目の前の海を睨むように見つめた。二人の間に、妙な連帯感が漂う。身分も役割も違うけれど十代半ばの若造同士、海の上で生きる実感だけは確かに共有されていた。ジャスパーがふと顔を上げる。
「ところでさ、今日の略奪、あの商船どうだったと思う?」
ルキフェルは小さく自慢げに笑った。
「簡単に言うと、奴らビビリすぎ。お互いに犠牲ゼロ、俺のやり方完璧。……まあ、当然か。俺は教わった通りに動いただけ」
「ふふん、さすがクォーターマスターだな。若造のくせに、いきなり船員たちをビビらせるんだから」
ジャスパーも負けじと得意げに笑う。月光の下、二人は見張り台で瓶を傾けながら、ジュースの酸味や甘みを確かめ合った。ルキフェルが唇を拭い、ふと先ほど船内で耳にした水夫たちの会話が脳裏をかすめる。
「……どうした?」
ジャスパーが眉をひそめ、ルキフェルの表情をじっと見つめる。
「……なんでもない」
ルキフェルはそっけなく返すが目元は少し硬く、微かな緊張が漂う。ジャスパーは肩をすくめながら笑った。
「いや、顔が何か物語ってる。話してみろよ」
ルキフェルは一瞬、目の前の兄貴分の鋭い視線に敵わないと感じ、ため息を吐いて口を開いた。
「さっき、船の中で水夫たちがな……」
彼の声は徐々に静かになりつつも緊張を帯びている。ジャスパーは黙って頷き、ルキフェルの言葉を受け止める準備をする。ルキフェルは顔を少し逸らしながらも、水夫たちが言っていた自分のこと、傷だらけの顔の話、そしてその顔を前にした彼らの恐れを一つずつ語り始め、全て話したところでジャスパーは眉を顰めた。
「なるほどな。そりゃお前が船の上でどれだけ変わったか、まだみんな気づかないんだな」
ルキフェルは小さく頷き、胸の奥で少しだけ複雑な感情がざわつくのを感じた。それを見逃さないジャスパーはそっと言った。
「でもよ、お前はおれたちが認めてる。船の上での立場も力も、もう誰も否定できねえってことだ」
ルキフェルは少し照れた目を伏せたが、心の奥底ではこの兄貴分の信頼が何よりも励みになっていることを感じていた。
「だってよ、あの時おれたちは投票で決めたじゃないか。ルキフェルともう一人……そいつ、自分が選ばれなかったからと言って船降りちまったけど、おれたちが自分で選んだ」
ジャスパーの言葉にルキフェルは一瞬言葉を詰まらせた。
「それは……」
しばらく沈黙が流れ、ルキフェルは小さく息をつく。
「アランが……俺を推薦してくれたおかげだ」
その瞬間、胸にぽっかりと穴が開いたような寂しさが押し寄せてくる。声に歯止めが効かず、ルキフェルはつい漏らした。
「アランは凄い奴だった。アランがいたから、これまでの略奪も上手くいったし、アランの統率力には敵わない」
ルキフェルは目を伏せ、指先で額の傷を撫でながら続ける。
「俺は自分の実力で選ばれたわけじゃない。影響力が強いアランが背後にいたおかげだ。みんな、俺を通してアランを見ている感じだ」
波のさざめきだけが耳に残る。ルキフェルの胸中には成長した自分の誇りと同時に、手放せない幼き日の依存や、尊敬と喪失の感情が入り混じっていた。ジャスパーはルキフェルが右側の額から顔面中央、左頬、そして輪郭に沿って指先でしきりに傷をなぞる仕草に気づいていた。
「でも、それだけじゃなさそうだな」
ルキフェルは手を止め、目を伏せながら小さく息をつく。
「ああ……俺はこの顔が嫌になる」
ルキフェルの声がかすかに震えた。夜風が冷たく頬を撫でる。
「この顔のせいで、みんなが俺を怖がる。怖がって、不満を吐けないんだ。この顔が抑止力になる一方で、どこかで秩序が乱れるんじゃないかって……不安になる」
ルキフェルの言葉の端々に、十代半ばの若者ながらも抱え込んだ責任感と孤独が滲む。ジャスパーは横で静かにそれを聞き、深く頷いた。ルキフェルは視線を暗がりに落としたまま、口元だけで小さく呟く。
「鏡に映る俺を見ると……もう、嫌で仕方がない」
胸の奥から悍ましいほどの自己嫌悪が湧き上がる。傷だらけの顔を見るたびに、自分を否定する声が耳元で囁く。孤独感が押し寄せ、怒りと恐怖が入り混じり、頭の奥でぐるぐると渦を巻く。
「なんで俺は、こんな顔なんだ」
思わず拳を握りしめた。夜の海風に触れても心の渦は静まらない。自分の顔を見るたび無意識に恐怖と嫌悪が同時に押し寄せて、気が狂いそうになる。
「……もう、俺なんか……いなくてもいいんじゃないかって、そう思うこともある。……俺の気持ち悪い顔を見て、誰が好いてくれるんだよ」
「……ルキフェル」
穏やかな声に、ルキフェルは反射的に顔を上げた。ジャスパーの目は不思議と重苦しくなく、静かに寄り添う光を帯びていた。ジャスパーはしばらく黙ってルキフェルを見つめ、やがて軽く肩を叩く。
「でもさ、それって悪いことじゃないんじゃねえか。お前の顔があるから、みんな助かってることもあるんだろ?」
ルキフェルは小さく笑ったが、その笑みはどこか切なげだった。
「そうかもしれない。でも、俺……自分の顔、嫌いなんだ」
ジャスパーは鼻で笑いながらも真剣な眼差しを向ける。
「嫌いなら……おれたちでどうにかすりゃいいんだよ。お前一人で抱え込む必要なんかねえ」
ルキフェルの胸の奥でわずかな安堵が芽吹く。孤独と闇に押し潰されそうだった心が、少しだけ軽くなった気がした。
「……ありがとう、ジャスパー」
ルキフェルの胸にわずかな安堵が芽生えたその瞬間、ジャスパーは肩をすぼめて軽く息を吐いた。
「それに、おれだってこの赤髪には散々苦しめられたんだぜ?」
ルキフェルはジャスパーを見やる。
「だって、夜でも目立つんだぜ? 船乗りしたって、スリしたってすぐ目をつけられる。船乗りやってた頃なんか最悪だぞ? あいつら、人を道具みたいに扱うんだ」
ルキフェルは一瞬思考が止まる。自分だけが孤独で、怖がられているわけじゃない。ジャスパーもまた赤い髪という“象徴”と共に、日々苦労してきたのだと理解した。
「……そうか……お前も大変だったんだな」
ルキフェルは小さく頷き、胸の内にあった自己嫌悪と孤独の一部を、そっとジャスパーに預けた。
「だからこそ、おれはお前のこと、見過ごせないんだ。この赤髪のせいで苦しんできたのもあるけど、誰かに頼る楽しさも知ってる。お前だって、ひとりで背負い込む必要なんかない」
ルキフェルはその言葉をかみしめるように息を吸い込んだ。
「……ああ、ありがとう、ジャスパー」
ジャスパーはにやりと笑い、ルキフェルの肩を軽く叩く。
「おう、気を抜くなよ。夜はまだ長いんだからな。見張り台は楽じゃねえぞ」
ルキフェルは小さく笑い返し、二人は夜風に包まれた見張り台でしばらく海を見渡していた。波の揺らぎ、遠くに瞬く灯り、そして船員たちの寝静まった甲板。静かな時間が流れる。やがて交代の時間が近づき、ジャスパーはルキフェルの肩を叩いた。
「そろそろ戻るか。お前はここで休めるな」
ルキフェルは頷き、二人は見張り台を降りていく。交代要員の船乗りと軽く挨拶を交わす。ルキフェルは船内への階段を降りたところでジャスパーと別れた。そのまま船尾側へと足を進める。
目指すのは、クォーターマスターとしての自室──自分の私室だ。
階段を一段ずつ丁寧に降り、船内の薄暗い通路を抜ける。階段の手すりに触れるたびに、これまでの任務や戦いの記憶が走馬灯のように蘇るが、今はただ自分の部屋へ向かうだけ。
誰にも邪魔されず、静かに自分を取り戻せる場所。
ルキフェルは扉の前に立ち、深呼吸を一つ。ゆっくりと扉を開け、自室の中へ足を踏み入れた。外の波音と夜風は遠くに感じられ、そこには自分だけの時間が広がっている。
自室の小さな机の上に剣を置き、ルキフェルはじっくりと手入れを始めた。刀身を拭き、柄を確認し、油を塗り込む。静かな部屋に金属を擦る音だけが響く。
手入れをしているうち、ふとジャスパーの瞳の色を思い出す。あの深く濃いアンバーの瞳。見つめられた時の力強さと、時折見せる柔らかさ。そして自然とアランの瞳も浮かんだ。
片方の目には同じくアンバーが宿り、もう片方には灰緑の色が揺れている。左右で違う瞳の色は、まるで自分とジャスパーの瞳をそれぞれ片方ずつもらったかのようだ、とルキフェルは考える。馬鹿馬鹿しいと思った。
「……俺は何考えてるんだか」
ルキフェルは剣をそっと机に置き、布団に体を横たえた。
月明かりが差し込む小さな窓の下で、いつの間にか深い眠りに落ちていく。




