第十章③ ルキフェルとジャスパー。それから……
ルキフェルは潮風に靡く髪を押さえた。隣では、ジャスパーが鼻歌を歌っている。ルキフェルはそんな彼を眺めて過去をふと思い返していた。
一年前、サン・マロ。
ルキフェルが夜中散歩に出掛けていた時のことだ。
旗揚げしたばかりのフランソワ船団、大人たちが出掛けているのが羨ましくて自分もこっそり船から離れたものの、街に出た途端に人々の視線が潜在的に恐怖で竦み上がって裏路地へ避難していると、通りの向こうから複数人の男たちがドタバタと足音を響かせる騒音を耳にした。
ルキフェルが気になって音がする通りに出ると赤髪のジャスパーと正面衝突し、二人とも情けなく横転して口喧嘩が勃発しそうになったが、気づけば二人とも黒い服の集団に追われながら路地裏を駆け回っていた。ルキフェルは息を切らしながら、このジャスパーが騒ぎの原因だと悟った。
「お前、スリでもしたのか?」
「普段は生き残るため、でも今回に関しちゃ何もしてねえよ!」
ジャスパーは走りながらそう喚いていた。ルキフェルは完全に巻き込まれ事故で黒い服のやつら——警官たちにしては不気味すぎる——に追われまくった。
時折ジャスパーは「こっち!」「次、あっちな!」と先導して路地をかけ、塀を飛び越え、スリリングな逃走劇をサン・マロで繰り広げたのち、二人はフランソワ船団の帆船に命からがら辿り着いた。
追っ手を撒けたことに安心した後、ルキフェルは荒れた息を整えながら、甲板で伸びているジャスパーを見下ろした。
「……それにしても、よく捕まらなかったな。警官だって足速いのに、上手く撒けていた」
ジャスパーはなお伸びたまま呑気に答えた。
「ああ、あれ勘だよ」
「……勘?」
「そそ、なんか走っていると『こっち行ったほうがいい』ってなんとなく分かるんだ」
ジャスパーがヘラヘラと笑う姿を見て、ルキフェルは「変なやつ拾ったかも」と内心で不穏に思ったが、あの追走劇といい、大人が多いこの船団で同年代っぽいこの男がいると楽しいのではと確信していた。
それに甲板の灯りの下でもこの男は自分の顔を怖がらりもせず、拒絶しなかった。それだけでこの男は自分をちゃんと見てくれると本能が告げていた。
「それで? 赤髪さんよ、これからどうするんだ」
ルキフェルの問いに、ジャスパーは顔を浮かせて彼を見上げた。
「さあ……どうせ朝が来たら船乗りさせられるんだ。船長がマジ最低最悪なんだよ」
顔を顰めるジャスパーに、ルキフェルは彼に膝をついて笑った。
「じゃあ、海賊にならないか?」
「……海賊?」
「そうだ。ルールはあるが、お前を縛るものじゃない」
ルキフェルの言葉にジャスパーはしばし彼の翡翠の瞳を見つめた後、アンバーの瞳を細めて「……面白えじゃん」と笑った。
「俺はルキフェル」
「へえ、変わった名前してんな。おれ、ジャスパー」
これが、ルキフェルにとって背中を預けられる最初の仲間との出会いである。
——ルキフェルはジャスパーの横顔をまじまじと眺めていると、ジャスパーがゆるりとルキフェルを振り返って「なに?」と問いかけてきた。ルキフェルはふっと笑う。
「別に」
「あっそう」
ジャスパーは舳先の向こう、前方に広がるサン=ジャン=ド=リュズを見渡した。
「あの街で、新しい出会いあるかな」
「ないよ。俺とジャスパーは居残りだから」
「……え」
ジャスパーの拍子抜けした声が飛んできて、ルキフェルは笑いをこぼした。
その後、彼の人生にとって衝撃を齎す出会いが来るとは、この時は思いも寄らなかった。
——サン=ジャン=ド=リュズの邸宅。
私は舞踏用から外歩き用のヒールに履き替えると、捲っていた裾を下ろして椅子から立ち上がった。
ここは、私が宿泊している一室。夕食までだいぶ時間があるから、散歩でも行こう。
豪勢なお屋敷にいると、私を見てくる皆の目が時々苦しくなるから。
外面だけ褒められて、本当の私を見ていないような気がして。
まあ、いいわ。とにかく、外に出れさえすれば息を吸える。
私は開け放たれた窓から、一頻り海を眺めたあと街に目を向けた。
お父様はあまり街の方へは行くなと言っていたから、あの眼下に広がる人気の少ない波止場にでも足を運ぼうかな。邸宅から遠くないし。
さて、海辺の風は強いから髪でも結ぼう。鏡台の前に立って、少し身を屈めるように、今まで下ろしていた髪をまとめていてく。
シルバーブロンドの髪、ターコイズブルーの瞳が自分を捉えて一瞬手を止めるが、躊躇わずに髪をシニヨン結びをして終えた。
潮風は強い、と先ほど自分で結論づけたにも関わらず、やはり人の視線への恐怖から髪と顔を隠したくて鏡台に置いていた帽子を手に取って被り、角度を変えては自分の顔が隠れるか確認した。
これでいいと言うように鏡の向こうの自分に頷くと、銀髪の少女は帽子を深々と被ったまま自室を軽やかに出ていった。
窓の向こうに広がる浅瀬、彼と彼女の瞳を宿している。
——物語は、第二巻へと続く。




