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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】1・2巻「誕生編」  作者: セキユズル
第七章「ありがとなー、おれに名前くれた人!」
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第七章③ アントワーヌとゼフィランサス

 夜は深く、船全体が波の呼吸とともに眠りについていた。灯りの落とされた船医室では、レオンが静かに寝息を立てている。アントワーヌは彼の寝顔を確認すると、毛布の擦れる音すら立てないようにゆっくりと立ち上がった。革靴を手に持ち、裸足のまま扉をそっと開ける。外は、まるで息を潜めたように静かだった。甲板の軋み、遠くで揺れる帆の音が夜の闇に吸い込まれていく。暗い。昼間なら見慣れた通路が、いまは異様に長く感じられた。壁のランタンはところどころしか灯っておらず、その灯りの間に沈む影が不気味に蠢いて見える。


「……おれ、夜が苦手なのかもしんない」


 小さく呟いた声が、闇に飲まれて消える。言葉の裏には、恐怖だけでなく前に進もうとする意地があった。船長室は船尾の一番奥だ。昼間、ゼフィランサスと話したときよりも扉が重く見える。まるでそこに何かが待っているような気配すらした。扉の小窓からは、灯りが漏れている。蝋燭の淡い橙光が波に合わせて揺れていた。どうやら、ゼフィランサスはまだ起きているらしい。胸の鼓動が早まった。扉の向こうにあの男がいる、そう思うだけで喉が渇く。ラウルと脱走を企てたあの夜も、たしかにこんな感じだった。息苦しくて、寒くて、それでいて心の奥が妙に熱くなるような。ゼフィランサスと初めて出会った、あの夜と同じ。


「……もう、戻れない」


震える手をそっと扉に伸ばす。金属の冷たさが指先に伝わる。ほんのわずかなためらいのあと、アントワーヌはその手で軽くノックした。


——コン、コン。


 音が静寂の海に落ちる。すぐに応答はなかった。けれど、確かに“気配”が動いた。扉の向こうで、誰かがゆっくりと立ち上がる音。心臓が跳ねる。


「……ゼフィランサス」


 扉の向こうの影が、灯りに揺れた。そして静かに、取っ手が回る音がした。扉がゆっくりと開き、室内の灯りがアントワーヌの影を長く伸ばした。波の揺れに合わせて影が不規則に揺れる。


「……また来たのか、アントワーヌ」


 ゼフィランサスの声が澄み渡るように響いた。アントワーヌは言葉を飲み込み、深く息を吸って室内に足を踏み入れる。扉の向こうには、静かに立つ船長の影。灯りの加減で表情は見えないが、その眼はアントワーヌを捉えている。


「座れ」


 ゼフィランサスの一言で、アントワーヌは自然と椅子に腰を下ろす。心臓はまだ高鳴り、汗が額を伝った。


「夜が怖いのか?」


 ゼフィランサスの問いかけに、アントワーヌは小さく首を振った。しかし内心は正反対であることを自覚していた。恐怖と同時に、あの男に選ばれたいという思いが芽生えていた。ゼフィランサスは椅子に腰かけ、アントワーヌの動きをじっと見つめていた。彼の視線は優しいわけではない。だが、その眼差しは、迷いを抱える自分を決して拒絶しない。彼の表情が微かに笑みを帯びる。理解しているのだ。この若者の心の闇、そして決意を。沈黙の中、アントワーヌは意を決したように震える声で切り出す。


「……あの夜のこと、やっぱり知りたくて」


 ゼフィランサスの影は動かない。静かな室内に、波の揺れに合わせたかすかな木の軋みだけが響く。


「おれ、ラウルの友人だったんです……。あの夜、なんであなたが屋敷にいたのか……どうしても知りたくて」


 アントワーヌの声が少し詰まる。胸の奥のもやもやが、言葉となって溢れ出し、さらに踏み込む。


「あの時、なんで『お前も来るか?』って言ってくれたのかも、知りたくて……」


 ゼフィランサスはじっと聞き、目の色をわずかに変えた。鋭い視線がアントワーヌを捉え、静かな緊張が室内に漂う。


「君は、ラウルの友だったのか」


 ゼフィランサスの声は落ち着いているが、どこか鋭さが含まれている。続けてわずかに口角を上げ、不敵な笑みを浮かべた。


「なるほど。それならあの夜、君がなぜあそこにいたのかも、納得がいく。あそこにいたのは、君の友を助けるためだった。あの穢らわしい、屑どもからね」


 ゼフィランサスの言葉の端々に、皮肉めいた怒りと蔑みが滲む。笑いとともにその感情が混ざり合い、アントワーヌの胸にずしりと重くのしかかる。ゼフィランサスは少し身を乗り出して言った。


「ああ。あの時、君を誘ったのは、君も奴らの危険から遠ざけるためだ」


 アントワーヌの胸には、予想もしなかった言葉が温かく響いた。


「……おれのため……?」


 小さく息を漏らし、思わず顔がほころぶ。しかし、喜びと同時に数々の疑念が頭の中で渦を巻いた。

 なぜ自分だけが選ばれたのか。なぜ、あの夜、ゼフィランサスはあの言葉を自分にかけたのか。

 その真意はどこまで本物なのか、あるいは計算なのか。喜びと不安、信頼と疑惑、複雑に交錯する感情が、アントワーヌの胸を揺さぶった。

 その時、アントワーヌの脳裏にあの夜の光景が鮮明に蘇った。庭の陰に身を潜め、息を潜めながら聞いた剣の男たちの会話。


 ——今日も良い成果をあげられたな。


 続いて思い出したのは、月光の下でラウルを抱え現れたゼフィランサスの姿と、その異様なまでに日常的なやり取りだった。


 ——お前が提案した“細工”の件も、この後、ちゃんとやっておくから。


 男たちの手に握られた赤黒く濡れた剣が月光を反射し、状況の非日常さを無言で語っていた。

 アントワーヌは胸のざわめきを抑えながらも、思い切って尋ねた。


「その、剣を持った人たちは……一体、誰なんですか?」


 ゼフィランサスは一瞬も迷わず、淡々と答える。


「人攫いだよ。貴族の子供を狙う連中さ」


 その口調は冷静でありながらも、どこか淡い興味と皮肉を含んでいた。アントワーヌは目を見開き、少し戸惑いながらも次の質問を口にする。


「そ、そんな人たちと……仲がいいんですか?」


 ゼフィランサスはどこか意味深げに口を開く。


「彼らとは仕事仲間だったさ。でも、オレが彼らと直接関わったのは、あの夜が初めてだった」


 アントワーヌは一瞬、言葉の意味を理解しかけては、すぐに疑念に捕らわれた。


「初めて……? でも、あんなに……」


 思考が混乱する。剣を握る男たちの行動、ゼフィランサスの不敵な笑み、そして月光の下でのやり取り。本当のことなのか、それとも一部しか見せられていないのか。答えは霧の中で揺らぎ、アントワーヌの胸を締めつけた。嘘なのか、真実なのか、その境界線がアントワーヌの心をじわじわと蝕む。彼はただ、答えを求めるしかなかった。ゼフィランサスは薄く笑みを浮かべ、少し諭すような口調で言う。


「大人は、時に嫌な相手とも付き合わされるものさ」


 一瞬だけアントワーヌは肩の力を抜きかけたが、すぐにゼフィランサスは続けた。


「それに、あいつらにはちゃんと罰が下った。あの後、ちゃんと”始末”したんだから」


 アントワーヌの脳裏に、再びあの夜の記憶が鮮明に蘇る。


 今度は船医室の薄暗い灯りの下。彼は身を潜め、ただ静かに待っていた。しかし、外からは剣戟の音が響き、混乱した怒号、夥しい悲鳴が幾重にも重なって聞こえてきた。誰かが絶望に声を上げ、誰かが痛みに呻き、そして冷静で容赦のない指示が、闇夜に残されていた。

 あの時、自分は何もできず、ただ耳を澄ませていた。あの夜の音が胸の奥で今も重く響く。ゼフィランサスの言葉と、過去の記憶が混ざり合い、アントワーヌの心は複雑な熱を帯びた。


「……わかりません」


 アントワーヌの声は微かに震えていた。ゼフィランサスはわずかに眉を顰め、口元に冷たい影を落とす。しかしアントワーヌは恐れず、目を逸らさずに言葉を紡いだ。


「これだけ聞いても、やっぱりわかりません。ラウルの顔は……誰が傷つけたんですか?」


 空気が一瞬、凍り付く。船長室の暗がり、小さなランプの灯りが揺れるたび、ゼフィランサスの顔の輪郭が闇に溶けそうになる。


「人攫いですか……?」


 アントワーヌの声はさらに重く、確信に満ちた響きを帯びた。


「それとも……あなたですか?」


 彼の問いは静寂を切り裂き、室内の空気に低く重い振動を残した。ゼフィランサスの目がわずかに光り、鋭くアントワーヌを射抜く。その瞳には冷徹さと、どこか微かな挑発が同時に宿っていた。アントワーヌの背筋に冷たい鳥肌が走る。その場に立つだけで恐怖と確信の狭間に身を晒すような、そんな感覚がアントワーヌの心を締め上げた。

 ゼフィランサスはただ黙ってアントワーヌを見つめていた。言葉は一切発せず、暗がりに浮かぶその瞳だけが静かに光る。アントワーヌは痺れを切らして啖呵を切るように声を張った。


「おかしいですよ! あなたはラウルのことを知っていながら、“ルキフェル”という名前をあげて、彼をまるで別人のように仕立てた……」


 アントワーヌは少し息を整え、続けて鋭く問いかける。


「あなたは助けたと言うけど……なんで今の彼に対して、そんなに無関心でいられるんですか?」


 アントワーヌは少し震える声ながらも、彼から視線を逸らさずに続けた。


「……あなたが、ラウルのお父上と会話してるところ、見てました。ラウルも、おれと一緒に見てました」


 ゼフィランサスの瞳が一瞬揺らいだ。普段の冷静な影の奥で、微かに動揺の色が差し込む。彼はアントワーヌをじっと見据え、やがて掠れた声が漏れた。


「……そうか、君は全部、見ていたのか」


 ゼフィランサスの声は普段の威圧的な響きとは異なり、どこか苦みを帯びていた。アントワーヌはその声に一瞬驚いたが、恐れずに視線を外さない。ゼフィランサスは呟いた。


「……だが、真実を知ることは必ずしも救いにはならない」


 アントワーヌの声はわずかに震えていた。


「おれは……ラウルの友人です」

 かすれた声に必死さが滲む。続けて、アントワーヌは息を整える間もなく口を開く。


「あなたの口から、“真実”を知りたいんです」


 ゼフィランサスは威圧を放つが、アントワーヌはさらに言葉を重ねる。


「もし、あなたとラウルのお父上が敵同士だったと言うなら……あの夜、あなたが屋敷にいた意味も変わってしまいますよ」


 小さな小窓から漏れる月光がアントワーヌの影を長く引き伸ばす。その影は震えて揺れていた。


「甲板の悲鳴……あなたが人攫いを始末した理由はラウルを助けるためですか? それとも……何かを隠すためですか?」


 記憶が脳裏をよぎる。あの夜、剣を手にした男たちの声が耳に生々しく甦る。あの言葉が血のように赤く、冷たい闇の中でアントワーヌの意識を締め上げた。彼は小さく震える声で、まるで自分に問いかけるように呟いた。


「細工って……何のことですか……?」


 その瞬間、返ってくるのは静寂だけだった。ゼフィランサスは答えず、アントワーヌを見据え続けている。彼の瞳の奥に、何か恐ろしい意図が潜んでいることを、アントワーヌは否応なく感じ取った。突然、ゼフィランサスは声を立てて笑った。


「ふっ……はははは……」


 深夜の暗闇の中でも、その笑い声は狂気じみて鮮やかに響き渡る。アントワーヌはきょとんとし、言葉を失った。ゼフィランサスの笑いは止まらず、やがて笑いを抑えながら、ゆっくりとアントワーヌを見据える。


「そんなことを知って、何になる? 友人を取り返せると思ったかい」


 アントワーヌの胸の奥で、寒気が走る。ゼフィランサスの瞳が暗く光り、冷酷な真実を突きつけるように言葉を続けた。


「ラウルは、あの夜に“死んだ”。今の彼は“ルキフェル”として人生を歩み始めたんだ」


 アントワーヌはその言葉を飲み込むことしかできなかった。


「彼のためにも、過去を蒸し返すのは止した方がいい」


 ゼフィランサスの笑みを前に、アントワーヌは震える声で言葉を吐き出した。


「……あなたはラウルに、ルキフェルに何をしたんですか! どうしてあんなことに……!」


 彼の問いに、ゼフィランサスはわずかに顔を歪め、唇を引き結ぶ。室内の温度が上がったかのように感じられた。怒りはもう、抑えきれぬ寸前まで膨張している。ゼフィランサスの瞳が一瞬鋭く光り、沈黙の中で唐突に口を開いた。


「君は、どうやら”愛”というものを知らないようだな」


 アントワーヌは眉をひそめ、戸惑いの色を浮かべる。言葉の意味が胸に突き刺さる。


「オレはラウルを愛している。友としてな」


 ゼフィランサスの表情には怒気が漂っていた。


「だからこそ、オレはあの場にいたんだ。ラウルを救うために、人攫いから」


 ゼフィランサスは声のトーンを落とし、アントワーヌをまっすぐに見つめた。


「君も友人なら、彼が”自由”を欲していたことも知っていたはずだろう?」


 ゼフィランサスの瞳の奥に理解と叱責、そして揺るがぬ意志が混じる。


「オレは、それを叶えてやりたかった。加えて、オレは彼に”強さ”も授けた。全て彼を愛しているからだ」


 アントワーヌの心は押し潰されそうになった。ゼフィランサスの目がゆっくりとアントワーヌの奥底を探るように光る。その視線に、アントワーヌの胸はぎゅっと締め付けられた。


「もしや、君は——誰にも愛されなかったのかい?」


 ゼフィランサスの言葉の刃は鋭く、アントワーヌの心に突き刺さる。


「君は、誰かを愛する素晴らしさを知らないわけだ」


 その瞬間、アントワーヌは言葉を返すことができず、ただ唇を震わせた。ゼフィランサスは微かに笑みを浮かべ、さらに一歩近づく。


「ならば、君は一生——“愛”について知り得ないまま過ごすだろう」


 ゼフィランサスの声に混じる冷たさと軽蔑に、アントワーヌの胸は凍りついた。そして最後、ゼフィランサスは確信を帯びた口調で残酷極まりない言葉を吐いた。


「君は一生、誰も愛せないんだよ。いや、君なんかに愛される奴は……可哀想だ」


 その瞬間、アントワーヌの全身を重苦しい闇が覆った。息が詰まり、心の奥底で何かが砕け散る音を聞いた気がした。ゼフィランサスの言葉が頭の中で反響し、何度も何度も繰り返される。息が詰まる。目の前のゼフィランサスの瞳は深い闇を湛え、冷たく鋭く、まるで心の奥底まで覗き込むようだった。胸がぎゅう、と締め付けられ、声も出ない。手足の感覚が遠くなり、全身が重く、まるで海の底に沈んでいくような錯覚に陥る。思考が霧の中で漂い、何が現実で何が幻かもわからない。


「誰も……愛せない……?」


 頭の中で自分の声がこだまする。だが口を開こうとしても、言葉は喉の奥でつかえたまま。目の前のゼフィランサスが微かに口角を上げる。冷笑とも皮肉ともつかないその表情が、アントワーヌの心をさらに追い詰めた。心臓の鼓動が耳の奥で暴れ、思考の糸が一本ずつ切れていく感覚。


「おれは、何も、できない……」


 現実と意識の境界が溶ける。目の前の船長室の扉も、海も、夜の闇も、すべてが意味を失ったかのように、アントワーヌの心は凍りついた。絶望の重みが、全身を覆い尽くす。そして、ゼフィランサスの低く響く声だけが冷たく、支配的に頭の中に響き続けた。


「そうだ、君は誰にも愛されなかった……それが現実だ」


 意識の端に、わずかな自我が残る。しかし、それも暗闇に沈む波のように引き裂かれる寸前だった。アントワーヌの全身を覆っていた重苦しい絶望の中で、ゼフィランサスの声が再び響いた。


「ふふ……そうだ、君は苦しんでいるね。過去のことも、誰にも言えなかった心の悔恨も全部、ね……」


 声は冷たくもあるが同時に妙に優しく、胸の奥の孤独な部分にそっと触れてくる。アントワーヌの呼吸がわずかに揺れた。


「君は、選ばれなかった者の痛みも知っている……誰にも愛されなかったことの悔しさも、知っている……」


 ゼフィランサスの言葉に、アントワーヌの視界はぼんやりと霞む。恐怖と混乱の中で、心の奥底にぽっと灯るかすかな共感。


「だからこそ……君はオレのもとで過ごすといい。君の力を、君の心を、すべて無駄にせずに済む場所だ」


 ゼフィランサスの目がじっとアントワーヌを射抜く。まるで、深く沈む心の底から、彼の闇を吸い上げるかのようだ。


「ここで学ぶことは、力だけじゃない。失われた愛を、憎しみを、悔恨を、すべて糧にする術だ。君の心に寄り添い、君を強くする……そう、弟子としてな」


 アントワーヌは頭の中が混乱し、言葉も出ず、ただ立ち尽くした。絶望の中で差し伸べられた甘い手。それがまるで唯一の救いのように見え、同時に深い闇に引きずり込む罠でもあることを、彼の理性はかすかに感じ取った。ゼフィランサスは微笑む。


「さあ、どうする? 君の苦しみも、怒りも、全てここで学びに変えることができる。恐れることはない……君はもう、孤独じゃない」


 アントワーヌの心が再び揺れる。絶望と甘美な誘いの狭間で、彼は一歩、歩みを進めるしかなかった。アントワーヌの意識は、まるで濃霧の中をさまよっているかのように混濁している。ゼフィランサスの言葉が、冷たくも甘い指先のように心の奥底に絡みつく。


 ——君の苦しみも、怒りも、全てここで学びに変えることができる。


 その一言一言が頭の中で反響し、理性を削り取っていく。アントワーヌは必死に抗おうとした。ラウルのために、絶対に間違った道を歩かない。そう自分に言い聞かせるが、胸の奥に沈む孤独と欠落感が抑えきれぬ波のように押し寄せた。愛された記憶がなく、認められた実感もない。その闇が、ゼフィランサスの声に呼応して震えていた。恐怖と甘美な誘いの混ざった感覚に、心がじわじわと溶けていく。理性は声も、思考も、麻痺していった。


「君は、君自身の痛みを恐れる必要はない……オレが導く」


 その瞬間、アントワーヌの中で何かが折れた。胸の奥、絶望と孤独が交錯し、同時にゼフィランサスに依存する“救い”の感覚が芽生える。自分の意思で歩くのではなく、引かれるように、暗闇に手を伸ばすしかない。そんな感覚だった。


「……わかりました」


 アントワーヌの声は微かに震えた。絶望の中で自ら闇に身を預ける決意が心を支配する。ゼフィランサスは微笑んだ。その笑みに喜びも悪意も、すべてが混ざり合っている。そして、アントワーヌ——後のマクシミリアン・ブーケ——は、もう二度と戻れぬ暗黒の道を歩み始めたのだった。アントワーヌの目の前で、ゼフィランサスはそっと跪く。少年の心臓が早鐘のように打ち、呼吸が乱れた。


「いいかい?」


 甘く響く声がアントワーヌの耳元で囁かれる。


「家族ってのは、心のつながりが大事なんだ。決して、血筋なんかに縛られるな」


 言葉の一つ一つが、震えるアントワーヌの胸に深く浸透していく。過去に誰にも認められず、愛されなかった孤独が今、甘美に変わる瞬間だった。


「君の孤独に寄り添えるのは……オレだけだ」


 その言葉に、アントワーヌの全ての防御が崩れ落ちる。理性も、怒りも、希望も溶け、ゼフィランサスの支配が心の隅々まで行き渡った。ゼフィランサスの微笑みは、慈愛と悪意が入り混じったもの。暗黒に染まった心に灯る“唯一の光”のようで、アントワーヌの理性を完全に麻痺させていた。ゼフィランサスはアントワーヌの肩に手を置き、その視線を少年の瞳にしっかりと絡めた。


「よし、これでわかったな。君はもう、孤独じゃない」


 アントワーヌの胸の奥で、かすかに残っていた不安や恐怖が、恐ろしいほどの安堵感に置き換わる。震える声で「はい」とだけ答えるアントワーヌを、ゼフィランサスはさらに抱きしめた。


「君にはオレが必要だ。これから先、オレと共に過ごすといい」


 言葉は甘く、まるで慈愛に満ちているようだが、その奥底には冷酷な計算が潜んでいる。


「君の心の闇。孤独や、誰にも愛されなかった痛み、それを恐れることはない。むしろ、それを知っているオレと一緒なら、君は何も怖くない」


 アントワーヌの理性はもう微塵も働かない。心にぽっかりと空いた穴を、ゼフィランサスが完全に埋めたのだ。彼の腕の中で、少年は恐怖と安堵が入り混じった感覚に身を委ね、完全に心を預けてしまう。


「そうだ、安心しろ。オレだけが、君の孤独に寄り添える」


 耳元で囁かれた言葉に、アントワーヌは小さく震えながら頷いた。外の世界の光も家族の声も、もう彼の心には届かない。ゼフィランサスはアントワーヌから身を離し、柔らかく微笑んだ。


「今夜はもう遅い。オレと一緒に寝るか」


 アントワーヌは彼の言葉に、迷いも恐怖もなく小さく頷いた。心の奥底でまだざわめく理性はあるものの、ゼフィランサスの存在感に押し潰され、抗う力は完全に失われていた。二人は船長室の奥にあるベッドへ向かう。月明かりに照らされる部屋は静まり返り、外の雨音だけが微かに響く。ゼフィランサスはそっとアントワーヌを引き寄せ、彼の頭を自分の胸に預けさせる。


「ほら、安心しろ。オレがそばにいる」


 アントワーヌは彼の腕の中で、深く息を吐きながら小さく目を閉じた。恐怖も不安もない、ゼフィランサスの温もりだけが残る。夜の船長室に、二人の呼吸だけが静かに重なった。闇に包まれた船長室の中で、アントワーヌの意識は完全にゼフィランサスに支配されていった。

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