第七章② アントワーヌ
甲板の片隅に、ひとり立つ影があった。
アントワーヌは手すりにもたれながら、静かに三人を見つめていた。船尾ではまだ笑い声が響いている。フランソワが笑い、リュウが応じ、ルキフェルが照れたように頭をかく。その光景は、どこまでも眩しかった。
「……いい顔してるな、ルキフェル」
アントワーヌの口の端に浮かんだ微笑はほんの一瞬で消えた。胸の奥がひりつく。その痛みの正体を、彼はとうに分かっていた。
「おれと居た時より、いい顔してる」
誰に言うでもなく、小さく呟いた。声は風に攫われ、甲板に消える。
「選ばれたのは、おれじゃなかった」
思考が錆のように心の奥に沈んでいく。昔からそうだ。誰かが笑えば、その中心にはいつも“自分以外の誰か”がいた。伸ばした手は届かず、呼び止めた声は波音にかき消された。
あの夜、少年のルキフェル——かつてのラウルを守りたいと思った。だが今、彼の隣に立つのは別の二人だ。フランソワとリュウ。二人の背が、あの頃自分がいたはずの“場所”を完全に塞いでいる。
「おれは……もう、要らないんだな」
苦笑とともに、アントワーヌは上着の裾を握りしめた。冷えた風が頬を撫で、瞼の裏がじんと熱くなる。だが、涙は流さなかった。代わりに、別の衝動が胸の底からこみ上げる。
——悔しい。羨ましいあいつの隣に立てるのは、おれじゃなきゃ嫌なんだ。
黒く、重く、どうしようもなく醜い感情だった。それでも、それが自分の“本心”だと今はっきり分かった。
「……おれも、強くならなきゃ」
アントワーヌは静かに踵を返した。背後では、フランソワの「よし、じゃあ訓練再開するか」という声が響く。アントワーヌは甲板を一人歩いていった。木板の上で、彼の足音だけがやけに孤独に響いていた。階段を降りれば、船室の灯りがゆらゆらと揺れている。油の匂いと潮気が混ざる薄暗い廊下を、アントワーヌは足早に歩いた。
目的は一つ、レオンを探すことだった。先ほどから胸の奥がざわついて仕方がない。誰かに話さなければ、息が詰まりそうだった。だが、船医室の扉を開けても、そこにレオンの姿はなかった。瓶の並ぶ棚と、きちんと畳まれた布の上に静寂だけが落ちている。
「……留守か」
小さく呟いて、扉を閉める。甲板に戻るか、それとも士官室に寄るか。迷いながら、廊下を曲がった瞬間、高く落ち着いた声が響いた。
「——おや?」
アントワーヌ視線を上げると、ランタンの光に照らされて一人の男が立っていた。黒衣に包まれた細身の影。その肩の線は威圧的なほどに整っていて、ランプの灯りで黄金の瞳がキラリと輝く。
ゼフィランサス。“大海賊”と恐れられる海の覇者、その本人だった。アントワーヌの呼吸が一瞬で止まる。脳裏に、彼とエリオットの会話と、あの夜に現れた記憶がよぎる。冷酷で血に濡れた武人。人の心を見透かすような瞳。その男が、まっすぐに自分を見ている。
「……あ、あの……」
どう言葉を返せばいいのか分からない。舌が強張り、喉が乾く。そんなアントワーヌに、ゼフィランサスはゆるやかに微笑んだ。
「緊張することはない。別に叱りに来たわけじゃない」
ゼフィランサスの声音は、驚くほど穏やかだった。だが彼の笑みの奥に、何かを計るような冷たい光が見えた気がして、アントワーヌは思わず背筋を伸ばした。ゼフィランサスは一歩、彼に近づく。
「……ああ、そういえば。ちょうどよかった」
彼は歩みを止め、ランタンの光を背に柔らかく言った。
「オレの話し相手になってくれないか?」
命令でも、誘いでもない。だが、拒めるはずのない“重み”があった。アントワーヌは喉の奥で息を呑んだ。まるで、闇に引きずり込まれるようだ。
「場所を変えようか」
そう言って、ゼフィランサスは歩き出した。アントワーヌは一瞬ためらったが、足が自然と彼の背を追っていた。拒絶の意思など最初から存在しなかった。否、この男の前では誰も“拒む”という選択肢を持てない。
船長室、ゼフィランサスの根城。窓から差し込む陽光が、淡く壁を照らしている。ゼフィランサスは窓の外をちらりと見てから卓の上に指を置いた。
「……このあたりまで来れば、海も随分と穏やかだ」
そう言って、ゼフィランサスはアントワーヌに視線を戻す。
「君はどうだ。 航海には慣れたか?」
「え、ええ。少しずつですが……」
「少しずつ、か」
ゼフィランサスの口元に薄い笑みが浮かんだ。
「“少しずつ”という言葉は便利だな。どんな立場の者にも使える」
その言い方が皮肉なのか本心なのか、アントワーヌには判断できなかった。ただ、ゼフィランサスの目がまるで人の皮を剥ぐように、彼の内側を見つめているのを感じた。
「君は、ルキフェルと同じ年頃だったな」
「はい……たぶん、そうだと思います」
「なるほど」
ゼフィランサスは炎に照らされた瞳を細めた。
「似ていると思うか? 君と、あの子とは」
「……え?」
「気質の話だ」
彼は言葉を選ぶように、ゆっくりと指先で卓を叩く。
「君は理知的だ。自分の感情よりも理屈を優先する。だからこそ、感情を乱すものを嫌う。違うか?」
アントワーヌの肩が微かに揺れ、図星を突かれたと悟った。ゼフィランサスは微笑んだ。まるで幼子の反応を観察する教師のように。
「ルキフェルは、君と正反対だ。無鉄砲で、激情的で、弱いのに、妙に人の心を惹きつける。君のような理性ある者にとっては、きっと苛立たしい存在だろう」
アントワーヌは返す言葉を失った。ゼフィランサスの声がゆっくりと心の奥へと沈んでくる。
「だが、苛立ちは憎しみに変わる。憎しみは、やがて執着になる。君も感じているはずだ」
ゼフィランサスの笑みが夜の海よりも冷たく歪んだ。
「なぜあの子ばかりが選ばれるのか。そう思ったことはないか?」
アントワーヌの喉がごくりと鳴った。血が逆流するような熱が胸を突き上げる。まるで今まで誰にも触れられなかった“醜い部分”を、正確に指でなぞられているようだった。ゼフィランサスが近づてきた。その距離は呼吸一つ分。アントワーヌの瞳を覗き込み、まるで告白を引き出すように囁いた。
「君の中のそれは、決して間違いじゃない。選ばれなかった者の痛みを理解する者こそ、真に強くなれる」
ゼフィランサスの声は甘い毒だった。アントワーヌの心に冷たく染み込んでいく。ゼフィランサスは窓の外の光景に目に映したまま、静かに口を開いた。
「オレはな……選ばれなかった者の味方だと思っている」
アントワーヌは唐突な言葉に返す言葉を見つけられず、ただ彼に視線を向ける。
「戦場でも国家でも、人は皆、選ばれる側に憧れる。けど、現実は違う。どれほど努力しても、どれほど誠実でも……選ばれない者はいる。そういう者たちが、どんな想いで海を見ているか。——君は考えたことがあるか?」
アントワーヌは小さく首を振った。自分が選ばれた側ではないと、思い知らされた瞬間だった。
「……たとえば?」
アントワーヌが勇気を出して問うと、ゼフィランサスは薄く笑った。
「たとえば、誰かの代わりに責任を押し付けられた士官。才能があっても血統で潰された兵。あるいは、己の信じた正義を笑われた者。オレは、そういう連中の側に立ってきた」
彼の声音には苦味と慈愛が入り混じっていた。アントワーヌは胸の奥がざわつくのを感じる。
——まるで、自分のことを言われているようだった。叔父に責務を押し付けられ、将来の医官として、後継として常に「責任」を問われる立場。勉学に励んでも評価されない側に立たされてきた。ゼフィランサスはゆっくりとこちらを見た。彼の瞳は不思議と温かく、深い。
「君のような人間は、オレは嫌いじゃない」
「……お、おれのような?」
「まっすぐで、まだ何も濁っていない。けど、そういう者ほど簡単に壊れる。組織は、君みたいな人間を最初に使い潰す」
彼の一言が、アントワーヌの胸を突いた。誰も自分をそう見てくれたことはなかった。彼の言葉は恐ろしいほど静かで、まるで“見透かしている”ようだった。
「もしそのときが来たら、オレのところに来い。君のような者の居場所は、ここ以外にはない」
アントワーヌは返事をしなかった。胸の奥で何かが揺れた、その小さな揺らぎはまだ誰にも気づかれない。しかしそれは、ゼフィランサスが意図的に落とした“種”だった。信頼と依存の間に芽吹く、危うい根。沈黙の中で、ゼフィランサスは微かに笑んだ。その笑みは優しく見えたがその実、夜の海よりも冷たい光を宿していた。
しばらくしても、アントワーヌは言葉を失っていた。ゼフィランサスが残した余韻がまだ胸の奥で響いている。選ばれなかった者の味方。その言葉が、どこか救いのように聞こえてしまった自分が、怖かった。
それでも、どうしても聞きたいことがある。この機を逃せば、二度と真相には触れられないかもしれない。アントワーヌは唇を噛みしめ、意を決して口を開いた。
「……あの夜のことを、聞きたくて」
ゼフィランサスが緩やかにこちらを向いた。先ほどまで穏やかだった表情が、かすかに変わる。昼の光が彼の横顔を切り取り、目だけが異様に光って見えた。
「どんなことが知りたい?」
アントワーヌは喉を鳴らし、視線を逸らせないまま続けた。
「……剣を持った男たちのこと。それに……ラウルも——」
「“ルキフェル”だな?」
言い終える前に空気が裂かれた。ゼフィランサスが即座に言葉を被せる。その声音は、もはや人のものではなかった。アントワーヌは息を呑んだ。
その名を出した瞬間、ゼフィランサスの瞳に宿ったのはあの海の底のような深い黒。圧倒的な静寂が船長室の周囲を包む。波の音さえ遠のいていく。ゼフィランサスは一歩、アントワーヌに近づいた。手を出したわけでも、声を荒げたわけでもない。それでも空気が重く沈む。
「……君は、あの少年をそう呼ぶのか。面白いな。人は“名”をどう呼ぶかで、その本質を決める」
ゼフィランサスは、アントワーヌの肩を軽く叩いた。それが慰めなのか威嚇なのか判断できない。
「いつか、君にもわかるさ。“ラウル”と“ルキフェル”は、同じ存在ではないということを」
その言葉を残し、ゼフィランサスはゆっくりと背を向けた。アントワーヌの喉から声が出なかった。ただ、その名を聞いた瞬間から背筋を這い上がる冷たいものが止まらなかった。去り際、ゼフィランサスは振り返りもせずに言った。
「……夜風に当たりすぎるな。選ばれなかった者は、風に呑まれやすい」
扉が閉まる音がした。アントワーヌはその場に立ち尽くしたまま、凍りついたように動けなかった。
「……寒い」
震えているのはわずかに漏れる風のせいか、それとも恐怖か。胸の奥が焼けるように痛い。まるで、さっきゼフィランサスの言葉が心臓の奥に杭のように刺さったまま、抜けずにいるような感覚だった。
「選ばれなかった者の味方……」
あの言葉が、まだ耳の奥で響いている。あれは優しさじゃない。だけど、自分の中の“何か”を掴んだ。理解されたような、赦されたような錯覚。アントワーヌは壁に手をついた。指先が冷たい。その感触が、かえって現実を突きつけてくる。
「……おれは、あいつにはなれない」
ルキフェル。いつも誰かに囲まれて笑っているあの少年。その光が、いまはただ眩しくて、苦しい。
「だったら、おれはおれのやり方で——」
震える息を整えるように扉の前に立った。ゼフィランサスの背中を思い出す。あの黒い影のような存在。恐ろしく、けれども“力”そのものだった。
「あの人は、恐怖じゃない。あれは“確信”だ」
自分には何もない。それなら、自分の手で掴むしかない。たとえ、それがどんな形であっても。アントワーヌは息を吸い込み、扉を押して通路へと踏み出した。甲板の方からは波の音と、かすかな笑い声が聞こえる。フランソワたちがいるのだろう。だが、もうそこへ向かうつもりはなかった。
「……おれは、おれの力で探す」
呟きは風に溶けていった。木の床に、足音だけが静かに響く。その先に待つものが何であれ、もう引き返す気はなかった。




