第七章① ルキフェル
夜の甲板は雨に濡れ、潮の匂いと湿った木の香りが混ざり合っていた。アントワーヌは、夕食の時間になっても姿を見せないフランソワ、ルキフェル、リュウを探して一人、船を巡っていた。
「どこ行ったんだろ……」
濡れた甲板に足を滑らせないよう慎重に進み、やがて船尾へとやってくる。階段を上がると、雨に濡れた三人の影が光を反射する武器を突き合わせていた。カットラス、木剣、柳葉刀。雨に濡れた刃先が夜の闇に銀色の線を描く。三人は互いの目を見据え、確かな誓いを交わしていた。アントワーヌは階段に身を潜め、濡れた板の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。雨は止む気配もなく、三人の周囲に小さな水飛沫を立てながら降り続けている。
「これで約束、完了だな」
フランソワの声が雨音の中で響き、ルキフェルは頷いて木剣の刃先を少し上げ、フランソワのカットラスと軽く交差させた。
「うん、絶対に守る」
リュウも柳葉刀を静かに交差させながら淡々と口を開く。
「これで一つの誓いだな。互いに、守るべき者のために」
誓いを交わした後、雨粒が三人の肩や髪に打ち付ける音だけが甲板に響く。しばしの静寂の後、フランソワが軽くため息をついた。
「……しかし、雨の中、俺たちは何してんだ」
「そうだね、これじゃみんなに笑われるよ」
ルキフェルが笑いながら言うと、リュウも顔に雨粒を払いながらつぶやいた。
「これくらいで恥じるわけにはいかんな」
アントワーヌは小さく肩をすくめた。三人がまるで子供のように、誓いを交わした緊張と雨の冷たさの間でくつろいでいる。
「あの三人、やっぱり仲間なんだ」
アントワーヌは息をひそめて三人を見守っていた。笑い声や水しぶきに交じって、ルキフェルの元気な声が風に乗って耳に届く。だが、耳に届く喜びは彼の胸に重くのしかかった。
——なんで、おれじゃない。
自覚せざるを得ない感情が胸の奥から押し寄せる。フランソワとリュウが、まるで自分のもののようにルキフェルを囲んでいる。肩を寄せ合い、笑い、互いの誓いを確かめ合うあの光景に、アントワーヌは理屈では説明できない苛立ちを覚えた。嫉妬、怒り、そして——深い執着。
「なんで……なんで、おれじゃないんだ」
自分の心の奥底から零れ落ちる呟きだった。雨が頬を打つ感触も、目の前の光景も、何もかもがぼやけて、彼の心はただひたすらルキフェルと、ルキフェルを取り囲む二人の存在に焦がれた。ずっと抱えていた、愛情の欠落。自分が愛されないという孤独。選ばれないという不条理。その感覚は、今目の前で形になって露わになった。
——おれは、選ばれなかった。おれじゃなく、あいつが……。
アントワーヌは自分の胸を殴りつけられるような感覚に襲われながらも、視線を逸らすことができなかった。嫉妬の炎は、理性で抑え込もうとすればするほど強く燃え広がる。そして彼は気づいた。これは単なる羨望ではない。痛切な自己認識でもある。自分は、ルキフェルの傍に立つ資格を持っていない、という現実。しかし同時に、その嫉妬の奥底には抗いきれない衝動があった。
——おれも、あいつのそばにいたい。あいつを守りたい。
怒りと嫉妬と絡まりながら、激しい熱となってアントワーヌを揺さぶった。雨に打たれながらも、彼の瞳は決して目を背けない。ルキフェルを囲む二人を見つめるその目は嫉妬だけではなく、未熟な焦燥と、まだ知らぬ自分の可能性を映していた。
——おれは……どうすればいい? おれは……もう、あいつと関われない。
アントワーヌの想いは嫉妬と執着にまみれた胸の中で、どす黒く重く膨れ上がっていた。自分が側に立つことは許されない。選ばれるのはあいつと、フランソワとリュウ。——自分じゃない。だが、同時に別の決意も芽生えていた。
——おれも、強くならなきゃ。あいつとは違うやり方で、おれなりの力を身につけなきゃ。
雨に濡れた甲板を静かに踏みしめながら、アントワーヌは声をかけることなく、三人のもとから離れていった。背後では笑い声が弾む中、彼の心の中ではこれから自らを鍛え、彼らとは違う道で力を示すという誓いがひそやかに燃え上がっていた。その決意だけを胸に、アントワーヌは暗い夜の甲板を静かに歩き去った。
一方、あの三人は水飛沫の中に立ち尽くし、互いの剣を突き合わせた誓いの余韻に浸っていた。ルキフェルの胸には、まだ高鳴る興奮と決意が残っている。
「……いやー、さすがに雨がやばいよ」
ルキフェルが笑いながら手で水滴を払う。
「これじゃ乾くのも時間かかるな、まったく」
フランソワが肩をすくめ、苦笑交じりに言った。
「ま、濡れるのも悪くない。体温も上がったしな」
リュウも軽く笑い、羽織の裾を整えながら水を弾く。ルキフェルは笑いながら、ふと顔を上げて雨粒が跳ねる甲板を見つめた。雨音の中でも、遠くで木を踏み締めていく、何か軽い音が連続して聞こえたような気がした。
「そろそろ船内に戻るかー。腹減った」
フランソワがぽつりと言うと、ルキフェルとリュウも軽く頷く。
「だな、誰か残してくれてるといいが」
リュウが言って、三人は肩を寄せ合うようにしながら濡れた甲板を慎重に進んだ。水飛沫が跳ね、剣や足元に滴り落ちる。それでも彼らの表情は自然と笑みがこぼれていた。やがて船尾を離れ、階段を伝って船内へ。雨の音は次第に遠ざかり、代わりに船内の灯りが温かく迎えてくれた。
カンタブリア沿岸沖。ゼフィランサス海賊団を構成する三隻の大型帆船は、穏やかな風を帆に受けながら南へと航路を取っていた。悪天候を避け、フランス海軍の監視の目を潜り抜けた一行は、今のところ順調に航海を続けている。
そんな約束された日常の中で、ルキフェルは“二人の守護者”──フランソワとリュウのもとで日々の訓練を欠かさず続けていた。中華剣術にはいまだ苦戦しているが、身体は柔軟に鋭く動けるようになってきている。
今日も天気が良い。波も穏やかだ。これなら訓練日和だろう、そう思ったルキフェルは寝床に置いた木剣を手に取り、船尾へと向かおうとする。その途中で、甲板脇の階段に腰を下ろして本を読んでいたアントワーヌの姿が目に入った。
「アントワーヌ、これから訓練なんだ。一緒に行かない?」
ルキフェルが声をかけると、黒髪の少年は苦笑しながら視線をページに落とす。
「ごめんな、ちょっと今は目が離せなくて」
「……そっか」
ルキフェルは肩をすくめ、少しつまらなそうに笑うと風に揺れる髪を押さえながら一人で船尾へと向かっていった。船尾に着くと、すでにフランソワとリュウが甲板上で鍛錬を始めている。二人の間合いは広く、周囲の水夫たちも近寄らずに遠巻きに見守っていた。西洋の長剣と東洋の細身の剣──両者が構えを取ると、空気が一瞬で張りつめた。
「始め!」
フランソワの掛け声と同時に、金属の擦れる音が弾ける。フランソワの剣筋は重く鋭く、正確で無駄がない。だが、リュウはその一撃を流すように受け、軽やかに身を翻した。細剣が弧を描き、風を切る音が波音に紛れる。次の瞬間、彼は足場を蹴り、宙を舞った。その動きはまるで踊りのようで、見惚れるほど滑らかだった。リュウが甲板に着地するや否や、流れるように次の一撃。フランソワは受け止めきれず、剣を弾き飛ばされた。
「またか……!」
悔しげに歯噛みするフランソワに、リュウは苦笑して手を差し伸べた。
「君の剣は真っ直ぐすぎる。もっと風のように」
「風のように、ね……どうも俺は、嵐の方が性に合ってるらしい」
ルキフェルは二人のやり取りを眩しそうに見つめていた。海風に揺れる帆、陽光を反射する剣の閃き。訓練というよりも、まるで芸術のような戦いだった。フランソワが剣を拾い上げたところで、リュウはルキフェルに視線を向けた。
「ルキフェル、君もやるか?」
「えっ、お、おれが?」
「さっきから見てただろう? 今日は実戦形式だ。二人を相手にしてみろ」
「二人!?」
ルキフェルが声を裏返らせると、フランソワはにやりと笑った。
「心配すんな、手加減くらいはしてやる」
「いや、しなくていい」
ルキフェルは木剣を握り直し、深呼吸を一つ。逃げ腰になりそうな心を、意地で押さえ込んだ。号令もなく、リュウが先に動いた。風を裂くような踏み込み。ルキフェルは反射的に身を引き、後方へ転がる。そこへ、待ち構えていたフランソワの一撃が飛び込んできた。二人の連携は見事だ。まるで呼吸を合わせた舞踏のように隙がない。
「くそ……一対一のときとは違う!」
防戦一方の中で、ルキフェルの頭は回転していた。どちらを先に倒すか、どこに逃げるか、相手の足運び、間合いの取り方。どれもが彼にはまだ重すぎた。だが、ふと気づく。
——おれ、一人で勝とうとしてる。違う。おれがやるべきなのは、“勝ち筋を作る”ことだ。一人ずつ倒す必要はない!
次の瞬間、ルキフェルはあえてフランソワの懐に飛び込んだ。不意を突かれたフランソワが体勢を崩すと同時に、リュウが間合いを詰めて突きを放つが、フランソワの背が邪魔になって動きが鈍る。
「っ!?」
「うわっ、リュウ! 危ねえ!」
二人の剣が交錯し、鋼がぶつかる乾いた音が響く。その一瞬の隙を、ルキフェルは見逃さなかった。軽くフランソワの腕を叩き、リュウの足元へ長剣を滑らせる。どちらも本気で動きを止めざるを得ない。
「……参った」
リュウが静かに剣を下げた。
「今のは狙ってやったな、ルキフェル」
「え、えっと……結果的に、ですけど?」
「いや、ちゃんと考えてた。あの間合いの詰め方、悪くない」
フランソワが苦笑しながら肩を叩く。
「まったく将来怖ぇな、お前」
ルキフェルは照れくさそうに笑いながらも、胸の奥が温かくなっていく。




