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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】1・2巻「誕生編」  作者: セキユズル
第六章「おれ、絶対に強くなる! この手で、誰かを守るんだ!」
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第六章⑧ ルキフェルとフランソワ

 雨に濡れた廊下を通り抜け、甲板へと向かう足取りはこれまでにないほど軽やかであった。階段を上がり、甲板に足を踏み出すと冷たい潮風がルキフェルの顔を打つ。水滴はすぐに目に入り、視界を僅かに曇らせた。しかし、彼の視線と足は迷わず船尾のほうへと向かう。


 そこで見えたのは、雨に打たれながらも一心に剣を振るうフランソワの姿があった。


 水を含んだ長髪がフランソワの顔に貼りつき、濡れた衣服は体に張り付いている。それでも彼の動きは鋭く、ひとつひとつの剣の軌道に迷いはない。剣先から滴る雨水はまるで血のように見え、荒天の中で己を磨く彼の姿は、尋常ではない迫力を放っていた。

 ルキフェルは雨粒を払いながら、思わず息を呑む。誰もいない孤独な空間で、フランソワはただ己の技を研ぎ澄ませていた。


「……フランソワ、やっぱりすげえな……」


 ルキフェルは迷いなく近づき、呼吸を整えながらフランソワの背後に立った。雨に打たれながらも、フランソワの剣筋から目を離せない。ルキフェルは言葉を発さず、ゆっくりと手を伸ばしてフランソワの服に触れた。冷たい雨の感触が伝わる。フランソワはルキフェルの気配に気づいていた。微かに剣を止め、呼吸を整えているが振り返ることはせず、雨に打たれた剣先を見つめ続けていた。


「フランソワ」


 ルキフェルが名前を呼ぶと、フランソワは一瞬だけ肩を緊張させ、動きを止めたが、目線はまだ逸れたまま言葉は出ない。


「……ちょっと、こっち向いて座って」


 ルキフェルの声に、フランソワは静かに剣を置き、ルキフェルの指示通りに振り返って甲板に座った。だが彼の視線は、依然としてルキフェルの顔を避けるように下方を向けたままだった。雨音と遠くの波の音だけが、二人の間に静かに流れる。ルキフェルは突然、フランソワの顎を両手でしっかり掴んだ。強引に顔を自分の方に向けさせる。雨に濡れた二人の距離は途端にぐっと縮まった。


「これ、おれの顔だよ」


 ルキフェルの声は震えていない。だがその瞳には必死に伝えたい感情が宿っていた。続けて、ルキフェルは少し笑みを浮かべながらも真剣な声で言う。


「傷……痕になっちゃった」


 フランソワは何も言わず、目線だけは逸らしたまま。その沈黙が、ルキフェルの胸にさらに重くのしかかる。だがルキフェルは構わず、内心をさらけ出すように声を続けた。


「でも、今は傷のこと、どうでもいいんだ」


 ルキフェルは手を緩めず、フランソワの目をじっと見つめながら言う。


「おれ……お前に無視される方が、哀しい」


 冷たい風が二人の間を通り抜ける。だが、ルキフェルの瞳の中には嵐のような心の動揺と同じくらい熱い思いが燃えていた。


「おれが皆に迷惑かけてるのは、わかってる」


 ルキフェルの小さな声が雨音にかき消されそうになりながらも、はっきりとフランソワに届く。


「それでも寂しいんだ……寂しくて、寂しくて……」


 ルキフェルの胸が押し潰されそうなほどに切羽詰まった声が続く。ルキフェルは少し目を細め、必死に訴えかけるように言った。


「でも、お前は最初から側にいてくれた」


 雨粒がルキフェルの顔を滑り落ち、視界がにじむ。だがルキフェルはそのまま言葉を紡いでいく。


「今まで、お前がいたからなんとかなってた。お前が側にいないと……おれは、何もできないんだ。それも、フランソワがおれに構わなくなってから気付いたんだ」


 ルキフェルの胸の奥から滲む感情が、抑えきれずに言葉になった。彼の声が一段と震える。


「頼むよ、フランソワ……おれ、もうあんな暴れたりしないから。だから……お願いだ。おれの前から消えないで」


 ルキフェルの瞳は、ただただフランソワに向けられている。雨に濡れた甲板に響くのは、ルキフェルの切実な願いだけだった。フランソワはしばし言葉を失ったまま、濡れた髪を額から払った。ルキフェルの瞳に映る切実な声と願いが、フランソワの胸に重くのしかかる。


「あの時……お前がパニックになったのを、迷惑だなんて思ってない」


 フランソワの小さく吐き出した言葉は、冷たい雨の中で柔らかく響く。フランソワは目を伏せ、握りしめた拳に力を込めた。


「全部、俺が悪いんだ。あの混乱を作ったのは俺自身……船長命令で離れたのも、またお前を傷つけるんじゃないかって……怖かったからだ。でも……それが逆にお前を傷つけてしまった」


 フランソワの言葉の端々に、怒りと悔恨が混じる。彼は唇をかみ、雨に濡れた甲板に視線を落とした。


「それでも……今、お前がこうして本心を打ち明けてくれた。もう一度……ちゃんと向き合おう。お前の心に、ちゃんと寄り添おう」


 フランソワはゆっくりとルキフェルの顔を見上げ、雨粒が流れる頬を手で拭うように触れた。彼の手はもはや強く引き離すものではなく、守ろうとする意志そのものだった。


「だから……もう、離れたりしない。お前がそう望むなら、俺はここにいる」


 フランソワの瞳は嵐のような空と雨を背に、揺るがぬ決意でルキフェルを見つめていた。ルキフェルはフランソワの手のぬくもりを感じながら、胸の奥に長く閉じ込めていた孤独と不安が、少しずつ溶けていくのを感じた。


「……フランソワ」


 フランソワは目を細め、雨に濡れた髪の隙間からルキフェルの瞳を覗き込む。ルキフェルは小さく体を寄せ、フランソワの腕に身を預けた。フランソワはそれを受け止め、そっと肩に手を回す。ルキフェルはフランソワの腕に体を預けたまま息を整えていた。フランソワはしばらく沈黙のまま、ルキフェルの顔をじっと見つめる。彼の視線はただの観察ではなく、深い思慮と心配が混じったものだった。


「……その顔は、人に見せない方がいい」


 ルキフェルの目がフランソワに向く。そこには驚きや反発ではなく、雨に濡れた甲板の冷たさを忘れるほどの真剣さが宿っていた。フランソワの声には、ルキフェルを傷つけたくないという切実な想いと、これから待ち受ける困難への覚悟が込められていた。


「だが……お前がその顔を晒したけりゃ晒していい。俺は止めない。お前の意志を尊重する」


 フランソワはさらに言葉を重ねた。


「お前がこれから先、その傷を抱えながら強く生きていけるよう、俺が鍛えてやる。俺も、お前のために自分自身を鍛えて、お前を守るから」


 ルキフェルの胸の奥に熱いものが込み上げる。孤独や不安がまだ完全に消えたわけではないが、この瞬間、フランソワという存在が自分の人生に確かな支えとして存在していることを肌で感じた


「なあ、フランソワ。前に戦い方を教えるって言ってくれたよな?それってなんだ?」


 フランソワは一瞬、雨粒が頬に落ちるのを気にする素振りを見せたあと、穏やかに口を開く。


「西洋剣術だ。それと……“なんでも武器に変える力”。俺が勝手に編み出した、狡賢い戦法だな」


 ルキフェルの瞳が少し輝く。


「なんでも武器に変える……? どういうこと」


 フランソワは立ち上がって剣を取ると軽く振り、雨の中で軌跡を描きながら答える。


「剣だけじゃない。身の回りのもの、どんなものでも戦うために利用する。頭と動き次第で、日常のあらゆるものが戦力になるんだ」


 ルキフェルは目を輝かせながら呟いた。


「……かっこいいな。教えてくれよ、フランソワ」


 フランソワは小さく笑みを浮かべ、剣の握りを少し強めた。


「もちろん。けど、覚悟しろよ。甘くはない」


 雨粒がまぶたを叩く中、フランソワは剣の刃先をそっと甲板に滑らせ、音もなく止めた。風が二人を隔てるように吹き抜ける。ルキフェルの瞳が期待と緊張で揺れるのをフランソワはちらりと見た。


「あと、もう一つ戦法がある」


 フランソワの声はいつになく真剣で、甲板の喧騒もどこか遠くに感じられた。ルキフェルは身を乗り出し、息を詰めるようにして訊いた。


「なんだよ、それ?」


 フランソワは意を決した口調で言った。


「“暗殺術”だ。人が苦しむ間もなく、一瞬で命を断つ戦い方。そういうやつだ」


 彼の言葉に雨音が少しだけ強く聞こえた。ルキフェルの顔に一瞬、驚きと戸惑いの色が走る。言葉を探すように口を開くが、出てこない。フランソワは続けた。声は冷たくはあるが、どこか重い慈しみも含んでいる。


「あれは、スペインの裏社会で仕込まれた技術だ。生き延びるために、汚い仕事で大金を得るために必要だった。奴らの世界では、そういう術が生き延びる術だったんだよ。けどな、ルキフェル。俺がお前に教えるのは、命を奪うための技術そのものじゃない」


 フランソワはゆっくりとルキフェルの瞳を覗き込んだ。雨粒がまつげにまとわりつく。


「暗殺術だとか、速く確実に人を仕留める術。そういう“やり方”自体を、お前に教えるつもりはない。伝えるのは簡単だ。けど、教える側が冷たくなれば、技術はただの凶器になるだけだ」


 フランソワの瞳にほんの少しだけ痛みが滲む。


「代わりに、俺が教えるのは身体の仕組みだ。筋肉はどう付いているか、呼吸や循環がどのように働くか、致命傷がどの箇所でどう影響するか。そうした“知識”だ。命を断つ方法を知ることは裏返せば命を救う術にもなる。構造を知れば、傷の手当て方もわかる。どこを守るべきか、どう援助すべきかが見えてくる」


 フランソワはルキフェルに手のひらをそっと差し出すように動かし、雨を受け止めるように言葉を続けた。


「技術は道具だ。道具の使い手が何を選ぶかで、世界は変わる。だから教える側にこそ倫理が要る。お前が力をつけた時、その力で『誰をどう守るのか』をまず考えてほしい。命の重さを理解するために、身体のことを学べ。それを教えるのが俺たちの役目だ」

 

 ルキフェルは震える声で、ぽつりと呟いた。


「……人を、止めるための術ってこと?」


 フランソワは小さく頷き、刃をそっと収めた。


「止める、というのは色んな意味がある。戦で止めるのもあるし、誰かを守るために先に動くのもある。どの場合でも、生きている者の尊厳を軽んじてはならない。それを忘れたら、術はただの凶器だ」


 雨が二人の間に落ちる。ルキフェルの胸の奥で何かがざわつく。学びと恐れ、好奇と拒絶が混ざり合った表情で彼は小さく答えた。


「……分かった。教えてほしい。強くなって、誰かを守れるようになりたい。おれは……人を簡単に壊したくない」


 フランソワの顔に一瞬だけ柔らかい影が差した。彼は肩越しに遠くの水平線を見やり、低く言う。


「よし。なら、まずは体と呼吸を鍛えよう。お前が本当にその重みを担えるか、俺たちが確かめるまでだ」


 夜と水の匂いの中で、教える者と学ぶ者、危うくも真摯な約束が結ばれていった。雨粒が甲板を叩き続ける中、羽織を頭上に掲げてリュウが二人の元へ歩み寄った。雨に濡れないように注意しながら、その目は二人をしっかりと捉えていた。


「お互いに本心を語り合えたのか?」


 リュウの声は穏やかで、まるで雨音に溶け込むように響いた。ルキフェルとフランソワはほぼ同時に答える。


「ああ」

「うん、なんとかね」


 リュウは満足げに微笑み、甲板の濡れた空気を吸い込みながら言った。


「それなら良かった。互いの心を確かめ合えたのなら、あとは行動で示すだけだ」


 ルキフェルはリュウの目を真っ直ぐに見据えた。


「ヨシマサ。おれ、フランソワと約束したんだ。戦い方、フランソワも教えてくれるって」


 リュウは少し目を見開き、微かに頷く。ルキフェルはさらに強い決意を込めて言葉を重ねた。


「おれ、二人の教えを全部覚えて強くなる。強くなって、二人みたいに誰かを守れるようになるんだ」


 ルキフェルの声には雨に打たれながらも揺るがない覚悟が宿っていた。リュウは彼の言葉を受け止めて頷き、雨音の中で心の中に深く刻み込むようにルキフェルを見つめた。ルキフェルの声が力強く響く。


「おれと、フランソワと、ヨシマサとの契約だな!」


 フランソワは眉をひそめ、少し呆れたように言う。


「あのな、無理に難しい言葉を使うな。そこはシンプルに”約束”でいいんだよ」


 ルキフェルがフランソワを見ると、リュウも微笑みながら口を開いた。


「まあ、契約でも約束でも同じようなものだな。……“誓い”。そう、これは一つの誓いだな」


 雨粒が三人の肩や髪を濡らし、甲板には淡い水煙が立ち込めていた。ルキフェルの瞳は強い光を帯び、フランソワとリュウも同じく覚悟の色を滲ませる。フランソワが手にしたカットラスを握りしめ、鋭い刃を甲板の水面に翳した。ルキフェルは木剣を強く握り、まだ赤茶けた傷痕のある顔に雨を受けながらも決意を滲ませる。リュウは柳葉刀を静かに構え、その刃先が雨に濡れた空気を切るように光った。三人は互いに視線を交わし、一斉に声を上げた。


「お前を導く!」

「絶対に強くなる!」

「共に守り抜く!」


 その瞬間、フランソワのカットラスとルキフェルの木剣、リュウの柳葉刀が互いに突き合わせられた。水滴が跳ね上がり、甲板の上で小さな飛沫となって飛び散るたび、三人の誓いが視覚的に刻まれていく。

 雨粒と水飛沫が混ざる中、刃先が交わるごとに水しぶきが舞い、まるで世界が一瞬、三人の覚悟に応えたかのように甲板を凛とした空気が覆った。ルキフェルは木剣を握る手に力を込めて呟く。


「おれ、絶対に強くなる! この手で、誰かを守るんだ!」


フランソワとリュウも頷き、それぞれの刃をさらに固く握りしめる。

 水飛沫に濡れた甲板に、三人の誓いの熱量が雨音と共に刻まれた。

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