第六章⑦ ルキフェル
廊下を進みながら、小さな足音が木板にこつこつと響く。灯りの少ない船内を抜け、船尾近くのクォーターマスターの部屋前で立ち止まる。扉の向こうからは、紙を捲る音とペンの走る微かな音が聞こえていた。アラン。この船で最も現実的で、最も恐れられている男。ルキフェルは息を整え、拳を軽く握った。
「大丈夫。ちゃんと見てもらえば、きっと——」
自分に言い聞かせ、ノックした。扉の向こうから低い声が返ってくる。
「入れ」
ルキフェルは深呼吸を一つして、静かに扉を開けた。部屋の中には紙束の山と、濡れた外套を椅子の背に掛けたアランの姿があった。ランプの灯が淡く照らし出す横顔は、疲労と苛立ちが混じったように見える。アランは顔を上げ、入ってきたルキフェルを一瞥した。彼の視線が、ルキフェルの包帯の取れた顔に一瞬止まるが、何も言わずに再び書類へと視線を戻した。
「……何の用だ」
アランの声は冷たいが、無視もせず、追い返しもしない。それだけで、ルキフェルはなぜか少しだけ胸が軽くなった。
「その……顔、見てもらおうと思って」
ルキフェルはおずおずと答える。アランの手が止ま理、ランプの光の中で静かな沈黙が落ちた。
「……見せに来たのか、わざわざ」
「うん」
「なぜだ?」
ルキフェルは少し俯きながら言った。
「怖かったから。アランが、おれの顔を見て……もう話したくないって思ったら、どうしようって。でも、逃げてたらずっとそのままだから」
アランは無言のまま椅子を引いて立ち上がる。長身の影がルキフェルの前に落ちる。彼はわずかに腰をかがめ、少年の顔を間近で見つめた。
「……よく治ったな」
ルキフェルは目を瞬かせる。アランの声音に、ほんの少しの温かみが混じっているのが分かった。
「傷は残る。だが、お前は生き延びた。それが何よりだ。人は、見た目よりも内側を失った時の方が脆い。……お前はまだ立ってる。それで十分だ」
ルキフェルは言葉を失った。アランの目は相変わらず厳しいままだが、その奥に宿るものは怒りでも失望でもなく、どこか深い憂慮の色を帯びていた。
「……アラン」
「何だ」
「ありがとう」
アランは肩をすくめ、そっぽを向いた。
「礼を言うほどのことじゃねぇ。次に来る時は、傷のことなんかより……まともに報告の一つでも持ってこい」
「うん」
ルキフェルが小さく頷くとアランはそのまま机に戻り、手元の書類を再び開いた。だがルキフェルの去り際、アランの低い声がルキフェルの背中に投げられる。
「……無茶はするなよ」
ルキフェルは足を止めた。少しの間、言葉もなくアランの横顔を見つめ、それから静かに微笑んで部屋を出た。船内の廊下には、雨音が鈍く響いている。外板を叩く水の音がやけに近く感じた。階段を上がる途中、ルキフェルは数人の船員とばったり出くわした。彼らは工具を抱えた整備班の連中で、油と潮の匂いをまといながら足を止めた。
「おい……ルキフェルじゃねぇか」
「顔の傷、もう塞がったのか?」
一人が目を丸くする。ルキフェルは苦笑しながら頷いた。
「ま、なんとかね。まだ引き攣るけど」
すると無骨な船員の一人が腕を組み、にっと歯を見せて笑った。
「いいじゃねぇか。その顔、イカしてるぜ」
ルキフェルは瞬きして、言葉の意味を測るように相手を見た。もう一人が続ける。
「前より……なんつーか、“生き残った男の顔”になったな」
ルキフェルは少しだけ口元を緩めた。心の奥で、ひどく冷たかったものがほんの少しだけ解けていくような気がした。
「……ありがと」
礼を言って、再び歩き出す。雨の匂いが、風に乗って艦内に流れ込んでくる。ルキフェルはふと、自分の傷跡をなぞりながら呟いた。
「イカしてる、か……」
その言葉を胸の奥で反芻しながら廊下を進んでいく。やがて夕餉の鐘が鳴るまでの時間をどう過ごそうかと考え、自然と足が船医室へと向いた。扉を開けると、室内には静かな紙の匂いと薬草の香りが満ちていた。その中央で、リュウが一冊の本を膝に広げている。彼はルキフェルに気づくと、軽く視線だけを上げた。
「戻ったか」
「うん。アランに顔見せてきた」
ルキフェルがそう言って笑うと、リュウは目を細めた。
「そうか。……いい顔になったな」
何かを見透かすような口調だったが、リュウはそれ以上何も言わず、再び本に目を落とした。ルキフェルは椅子を引き寄せてリュウの隣に腰を下ろし、少し首を傾げた。
「なに読んでるの?」
リュウは短く答えた。
「『月下の詩篇』。東方の古い詩集だ」
「詩? ヨシマサが?」
ルキフェルが思わず素っ頓狂な声を上げると、リュウは笑いを堪えるように鼻を鳴らした。
「おかしいか?」
「だって、詩とか読むタイプじゃないと思ってた」
「戦うことばかり考えていると思うか?」
リュウの声音は穏やかだった。彼の横顔は、剣を振るう時の鋭さとはまるで別人のように静かで、詩の一節のように柔らかい。
「戦いの詩もあるが、これは夜の海や月の下で人が何を想うか、そんな詩が多い」
「へえ……難しそう」
「そうでもない。“生きているものは、すべて月の光に照らされて同じ影を持つ”。ただそれだけのことだ」
ルキフェルは竜の言葉をしばらく反芻して、ゆっくりと呟いた。
「……なんか、ヨシマサっぽいな」
「そうか?」
「うん。剣の話してる時も、結局はそういう感じのこと言ってる気がする」
リュウはわずかに笑った。
「かもしれんな。だが私は詩人ではない。せいぜい、風に耳を傾ける武人の端くれだ」
「……詩人よりカッコいいよ」
「そうか」
ルキフェルは、リュウの手元にある詩集へ身を乗り出した。古びた紙の上には、流麗な筆致で幾つもの詩が並んでいる。ところどころに挿絵のような墨のにじみがあり、それがまたどこか懐かしさを誘う。ルキフェルがページをめくる指を止め、ある一篇で目を細めた。見知らぬ言葉、でも一部だけ字面に見覚えがある。
「これ、なんて読むの」
ルキフェルの指先が止まった先には、月を詠んだ短い詩が書かれていた。静寂の中、リュウは声に出して数行を読み上げる。
夜の空に懸かる月よ
言の葉なき想ひ、託す
静けき風に乗りて
遠き人へと渡らむ
されど振り返らず
月の光、背を押す
影にひそめし志を抱き
しづかに明日へと歩まむ
リュウが読み終えると、ルキフェルは小さく笑って言った。
「これ、歌になってるよね」
リュウが軽く眉を上げる。
「歌になっている?」
「うん。“月影之文”って曲名だったと思う」
「……月影之文。この詩と同じ題だな」
リュウは一度目を閉じて静かに本を閉じた。
「そうか。歌になっているとは初耳だ。私の知らぬこと」
リュウはは微かに笑んだ。
「……詩とは面白いものだ。書いた者が伝えようとした想いを、誰かが拾い、別の形で残していく」
「それって、ヨシマサの“技”と似てるね。教えてもらって、覚えて、次の誰かに伝えてく」
「ふむ。そう言われると、そうかもしれんな」
リュウはふとルキフェルを見やり、静かに問いかけた。
「ところで、ルキフェル。なんでこの詩を知っているんだ?」
ルキフェルは少し首をかしげ、考え込むように言った。
「なんでだろ……なんか、知ってるんだよな」
その瞬間、ルキフェルの脳裏にふわりと澄んだ女性の声が流れ込む。透明で心地よく、空気に溶けるような歌声。誰の声かは分からないけれど、孤独でぽっかりと空いた胸の奥に、そっと温かさが満ちていく。ルキフェルは思わず目を細め、口ずさんでしまった。知らず知らずのうちに歌声に合わせて旋律を追う。
リュウは目に驚愕の色を浮かべたまま、しばしルキフェルの様子を見つめる。やがて、リュウは柔らかな笑みを浮かべて呟いた。
「そうか……それが、その歌なんだな」
ルキフェルの孤独をそっと癒すように、頭の中で鳴る歌声に合わせて鼻歌をする。長らく閉ざされていたルキフェルの胸の奥で何かが解れていく。リュウはルキフェルの表情を見て、声を潜めるように言った。
「その笑み……久しぶりに見るな、ルキフェル」
ルキフェルは鼻歌をやめ、少し照れくさそうに肩をすくめた。
「……久しぶりかも、こうやって落ち着くの」
リュウは頷き、柔らかく背中を押すように言った。
「技も、詩も、歌も……すべて心の糧になる。忘れるな。孤独の中でも、心は救われるものだ」
ルキフェルは言葉を胸に留めるように暫く余韻に浸ったが、やがて小さく肩を落とし、ぽつりと呟いた。
「……フランソワが、相手してくれなくて寂しいんだ」
リュウは穏やかな眼差しでルキフェルを見つめた。
「そうか。そう思うのも無理はないな」
しばらくの間、沈黙が流れる。やがてリュウは優しく声をかけた。ルキフェルは小さく唇を噛み、視線を落としたままぽつりと呟く。
「……フランソワに会いたいな。あんなことがあったのに、なんでおれ、まだ寂しいんだろう」
リュウはルキフェルの横顔を見つめる。
「それは自然なことだ。誰だって、大切な人に気持ちを理解してもらえなければ寂しいものだ。だが、ルキフェル。フランソワは君に何も言わないだけで、心の中では君を案じている。君を傷つけた責任を、ずっと感じているんだよ」
ルキフェルは小さく息をつき、目を細める。
「……そっか。でも、なんでおれはまだもやもやするんだろう」
リュウは微かに笑みを浮かべ、優しく言った。
「それは君がまだ心の中で整理できていないからだ。悲しみも、怒りも、寂しさも……全部、受け止めていい。無理に押し込める必要はない」
ルキフェルは頷き、少しだけ肩の力を抜いた。リュウの存在が、まるで寝転がった時の草原の柔らかさみたいに彼の孤独な心に触れ、心の奥底で停滞していた感情を少しずつ解いていく。
「……ありがとう、ヨシマサ」
「気にするな、ルキフェル。今はただ、落ち着ければいい」
ルキフェルはしばらく天井を見つめ、リュウの言葉を反芻したが、それでも心の奥底では納得できない自分がいた。
「……でも、このままじゃ嫌だ。待つだけなんて、おれには我慢できない」
リュウは目を細めた。
「なるほど。ならば、君は待つことに意味を求めるのではなく、自ら動くべきだ。心が我慢できぬなら、それを尊重する。だが行動は慎重に、思慮深く。君の思いを伝えたいなら、待つだけではなく、己の足で確かめるのだ。行動こそが、心を納得させる唯一の手段である」
ルキフェルはリュウの言葉に頷いた。待つだけの時間はもう終わりだ。自分の思いを、フランソワに、そして自分自身に向けて示すときが来たのだと彼は心の奥で決意する。ルキフェルは窓の外に目をやり、雨に濡れながらも甲板で忙しそうに動く船員たちの声を聞いた。
「よし。おれ、フランソワに会ってくる」
フランソワはまだ甲板にいるだろうか。そんな思いを胸に、ルキフェルは船医室を出ようとする。彼の背に、リュウの高くも低くもない声が届いた。
「風邪など引くなよ」
ルキフェルは一瞬振り返り、少しだけ微笑みを返すと決意を胸に船医室を後にした。




