第六章④ ルキフェル
——その頃、船内。
リュウ背中を追いながら、ルキフェルとアントワーヌは薄暗い廊下を進んでいた。波音が壁越しに響き、甲板の騒ぎが遠くでかすかに続いていた時、不意にルキフェルが「あ」と小さく声を上げた。
「どうした?」
リュウが振り返る。
「木剣、置いて行ったままだ!」
言うが早いか、ルキフェルは踵を返し、来た道を駆け戻ろうとした。
「待て、ルキフェル!」
リュウの声が響いたが、少年はすでに角を曲がって姿を消してしまった。一瞬、嫌な胸騒ぎが走る。リュウは息を吐くと、アントワーヌに向き直った。
「……君は先に船医室へ行っててくれ。レオンがいるはずだ。いいね?」
「え、でも——」
「いいね?」
リュウの低い声に、アントワーヌはややあって頷く。リュウが走り去ると廊下には波音だけが残り、船全体が不穏に軋んだ。
甲板の上では、すでに緊迫した空気に包まれている。セザールと女が縄で縛られ、アランの前に引き据えられた。周囲の船員たちは黙り込み、ただ潮風が帆を鳴らす音だけが響く。フランソワの顔は紅潮し、目に妙な光が宿っていた。普段の軽口や怠け癖は消え失せ、代わりに怒りと義憤だけが真っ直ぐに炙り出されている。彼はぎゅっとナイフの柄を握り締め、アランの前に出た。
「アランさん、俺にやらせてください!」
彼の声は狂気じみて響き、甲板の風に飛んでいく。アランは静かにフランソワを見下ろすと、言葉少なに頷いた。
「好きにしろ」
アランは手を止めず、冷たく告げる。
「掟に則り、ここで裁きを受けてもらう。船内に女を連れ込んだ者は、即刻死刑。連れ込まれた者も同罪。皆、覚えておけ」
彼の文言に誰もが息をのんだ。海賊の掟。それは「自由の代償」としての、血と鉄の律法だ。セザールが必死に何かを言おうとし、女は半狂乱になって助命を乞う。だが、フランソワの動きはためらいを知らなかった。
——その瞬間、船内の階段を駆け上がる小さな足音が、甲板の隅から響いた。
「ルキフェル、待て!」
リュウの声がルキフェルの背後から追いかけてくる。だが、ルキフェルはすでに甲板へと飛び出していた。彼の視界の中、怒号と潮風の中でフランソワがナイフを振り下ろす。
刃が光を弾いた、その一瞬、少年の視界は闇に塗りつぶされた。
暗い廊下、刃の閃き、襲いかかる影。自分の顔と手に伝わる温かい血の感触。女の絶叫。あの夜の記憶。音もなく、世界が崩れた。鼓動の音だけが残り、視界が遠ざかっていく。
現実の甲板に戻ったとき、冷たい風が頬を打った。ルキフェルは息を荒げ、両手を震わせていた。足元には、動かなくなった二人の罪人の影。そのすぐ傍らで、フランソワの刃先がゆっくりと血を滴らせていた。周囲の風音や海鳴りが、鼓膜を突き刺すように響いた。
——なに、今の……。
言葉にならない問いがルキフェルの胸に渦巻き、彼の中で恐怖と怒りが絡み合った。アランは淡々とその場を見渡した。
「これで終わりだ。掟は掟だ」
アランの低い声が甲板に響いた瞬間、ルキフェルには届かなかった。
意識は過去と現在を飛び越え、暗い廊下の影、床に横たわる子供、剣の煌めき、女の絶叫、すべてが一斉に押し寄せる。心臓が喉元まで跳ね上がり、呼吸は荒く、手足は勝手に震えた。目の前のフランソワの姿も、瞬く間に黒い影に変わる。刃が迫り、血が飛び散る光景が脳裏でリピートされ、身体の筋肉が痙攣するように膝が折れ、立ち上がることもできなかった。
「うわああ……!」
思わず漏れる声に喉が詰まり、口から嗚咽が溢れた。視界は揺れ、色彩が歪み、時間が止まったかのように長く引き伸ばされる。手が甲板にしがみつくも、身体は震えと恐怖で支配され、逃げようにも逃げられない。心の奥底で、無力感と恐怖が渦巻き、理性が音もなく押し潰されていく。まるで、過去と現在の恐怖が一つに重なり、ルキフェルの全身を凍らせていた。フランソワが咄嗟にルキフェルに駆け寄る。
「ルキフェル、大丈夫か!」
しかしルキフェルの目には、フランソワの姿は黒い影にしか映らなかった。心の奥底で過去の剣の煌めきと女の絶叫が渦巻き、理性の声は届かない。
「来んな……人殺し……!」
突然の叫びとともに、ルキフェルは手に触れたフランソワを全力で突き飛ばした。衝撃でフランソワは数歩後退するが、ルキフェルにはその現実すら把握できない。胸が激しく上下し、呼吸は浅く速く、肺が焼けるように痛む。過呼吸の発作が全身を支配し、汗が目に入り、視界はぼやけ、音は遠く、誰の声も届かない。そして、あの自分でも知らないはずの記憶が頭の中に侵食してくる。現実も記憶も分からぬまま、自分という存在が恐怖の渦に飲み込まれていった。
騒然とする甲板の上、甲板板の軋む音や船の揺れや遠くで叫ぶ声が混ざり合う中、ひときわ存在感のある影がルキフェルの前に立ちはだかった。ゼフィランサス。その黄金の瞳がパニックに陥った少年をしっかりと捉えると、ゆっくりと慎重に歩み寄り、落ち着かせるように声をかける。
「ルキフェル……!」
だが、ゼフィランサスの声は届かない。それどころか、ルキフェルの目線がゼフィランサスの顔を捉えた瞬間、視界の境界も記憶も完全に混ざり合った彼の頭の中から、唸るような声が漏れ出した。
「お前……お前はもっとダメだ……! 全部、お前のせいだ!」
ルキフェル自身も理解できない。混濁と錯乱の中で無意識に発せられた叫びだった。ゼフィランサスは彼の様子を目の当たりにして、思わず背筋に冷たいものを感じる。目の前の少年はもはや、かつて知っていた友ではなく、獣のような理性を失った存在にしか見えなかった。ゼフィランサスは一歩ずつ距離を詰め、声のトーンを意識的に落として繰り返す。
「ルキフェル……オレだ、オレがいる。お前は一人じゃない」
だが、ルキフェルの耳に入るのは自分の記憶と錯覚が重なった断片的な音ばかり。それらが洪水のように押し寄せ、過呼吸が激しくなる。
「なんだよ、これ……頭が、割れそう…!」
ゼフィランサスの黄金の瞳だけが、混乱したルキフェルの姿を冷静に見据えていた。手を伸ばすのは危険だと理解しつつも、少しずつ慎重に少年の心に触れるように歩みを進める。
「お前は……オレが守る。信じろ、ルキフェル……!」
ルキフェルは無意識のまま唸るように震え、振り払おうとした瞬間、甲板の喧騒の中で黄金の瞳と翡翠の瞳が交錯した。
「……全部……お前のせいだ……!」
ルキフェルの無意識の叫びが甲板に木霊する。ゼフィランサスは手を伸ばすが、少年の小さな体がついに力尽きて崩れ落ちた瞬間、彼は迷わず前に飛び出し、ルキフェルを両腕で受け止めた。
「ルキフェル……!」
黄金の瞳で少年の揺れる意識を見据えながら、ゼフィランサスはその場に座り込んだ。ルキフェルの体は力なくゼフィランサスの胸に預けられ、微かに震え続ける。周囲の海賊たちは声も出せず、ただこの異様な光景を見つめていた。普段は冗談ばかりの者も目を見開き、何も言えず立ち尽くしている。
混乱の余韻に包まれた甲板で、ゼフィランサスは冷静さを保ちながらも、心の奥で少年の内なる嵐の深さを思い知る。ルキフェルは徐々に呼吸を整えながら、暗闇に沈んでいく意識の端で、ゼフィランサスの存在だけをかすかに感じ取っていた。黄金の瞳が彼を守る光であることを、まだ理解はできなくても、本能的に彼に身を委ねていた。




