第六章⑤ 大人たち
重い瞼をゆっくり開ける。視界に広がるのは、淡いランプの光に照らされた船医室の天井と、机に突っ伏して眠るレオンの背中。窓の外を見れば、夜の海が静かに揺れている。
「……あれ?」
自分がどうしてここにいるのか、何があったのか、頭の中は霧に包まれたようにぼんやりしている。意識が途切れる前の光景も、叫びも、混乱も霧散してしまったかのようだ。ただ一つ、胸の奥にはもう二度と思い出したくないという強い想いだけが残っている。
ルキフェルはレオンをちらりと見て、呼吸を整えた。心臓はまだ速く打っているが、身体はゆっくりと現実を取り戻しつつある。
「あ……なんでおれ、ここに……?」
窓の外の夜空には、青白く瞬く星々——シリウスやプロキオンの光が、静かに航海を見守っているかのようだった。
「ようやく目が覚めたんだね」
ランプの柔らかい光に照らされて、アントワーヌの顔が見える。ルキフェルはまだぼんやりした頭で、声の主を察した。
「アントワーヌ……? おれ、何があったの?」
アントワーヌは小さく肩をすくめ、静かに答えた。
「ずっと気を失ってたんだよ。何日も」
ルキフェルは思わず目を見開く。
「……え? 何日も?」
「そう。ずっと高熱にうなされてたんだ。みんな心配してた」
アントワーヌの声には穏やかさと、どこか安堵の色が混ざっていた。ルキフェルはゆっくりと体を起こし、まだ熱の残る身体を確かめるように手を伸ばした。腕や脚の筋肉はだるく、関節もぎこちなく動く。
「……まだフラフラする」
小さな声で呟くルキフェルにアントワーヌはそっと近寄り、彼の肩に手を置いた。
「無理すんな。今はゆっくり休むのが一番だ」
ルキフェルは深呼吸をし、窓の外をぼんやりと見た。星はまだ夜空に瞬いている。だが、かつて甲板で見た恐ろしい光景は意識の底に深く沈められ、形を変えてうっすらとだけ残っていた。
あの時の恐怖、怒り、それらを抱えた自分の醜態。もう、二度とあんな目に遭いたくないと彼の心が拒絶していた。
「みんな、大丈夫?」
ルキフェルの問いに、アントワーヌは小さく頷き、安心させるように笑った。
「大丈夫。船長もフランソワも、みんな無事だ」
ルキフェルはまだ心臓の奥にざわつくものを感じながら、声をひそめて呟いた。
「……おれのこと、嫌いになったかな」
アントワーヌは首をかしげ、真っ直ぐルキフェルを見つめる。
「なんでそう思うの?」
ルキフェルは小さく肩を落とし、ぽつりと答えた。
「おれが暴れて、迷惑かけたから」
アントワーヌは即座に首を振る。
「迷惑なんてかかってないよ。みんな、ルキフェルを心配してただけだ」
ルキフェルは少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じたが、まだ心がざわつく。
一方、アントワーヌの内心では、「ただ一人だけを除いて」という思いが浮かんだ。彼の目にふと映ったのは、船長室に篭りきりのゼフィランサス。ルキフェルに対して彼が今何を考え、どんな気持ちでいるのか。その真意は誰にも分からないままだった。アントワーヌの胸の奥に、長らく蓋をしていた黒い感情が不意に溢れ出した。目の前にいるルキフェルを羨み、嫉妬で心がかき乱されそうな感覚が、まるで自分を飲み込もうとするかのよう。
「……羨ましいなぁ」
思わず漏れた声に、アントワーヌは慌てて自分の口を押さえた。ルキフェルは不思議そうに顔を上げる。
「どうしたの?」
アントワーヌはすぐに首を振る。
「なんでもない」
そして、やや柔らかい声で続けた。
「横になって休んでなよ。おれも、側にいるから」
ルキフェルは大人しくその言葉に従い、ベッドに横たわる。アントワーヌは彼の横顔を見つめながら、自分も医務室のベッドに横になって目を閉じた。静かな闇の中で、揺れ動く心を落ち着けようとするように。
船尾で月明かりを浴びるゼフィランサスの元に、フランソワとリュウが静かに近づいてきた。夜中に呼びつけられた二人は、これから自分たちのリーダーが何を口にするのか、内心で緊張していた。二人が視線を上げると、分隊の二隻の帆船が自分たちを追い、しっかり付いてきているのがわかる。ゼフィランサスはゆっくりと二人に振り返って問いかけた。
「まだ目覚めないのか?」
リュウはすぐに答える。
「はい、眠ったままです」
ゼフィランサスは俯き、静かな声で続けた。
「お前たちが掟に対して忠実なのは理解しているつもりだ」
だが次の言葉は鋭く、フランソワに対する説教へと変わる。
「だが、お前が罰を下すのは明らかな失態だ。教育係として、お前が子供たちをあの場から引き剥がすべきだった。……結果として、ルキフェルに深い傷を残してしまった」
フランソワは黙って俯き、月光に照らされた肩がわずかに震えていた。リュウは二人の様子を見守りながら、次の言葉を待った。ゼフィランサスはフランソワをまっすぐに見据え、低く命じる。
「お前はしばらくルキフェルに近づくな。ルキフェルの方から歩み寄るまで、距離を置け」
フランソワは顔を強張らせ、何か口を開こうとしたが、言葉は出なかった。さらにゼフィランサスは視線を遠くに泳がせながら付け加える。
「子どもたちの面倒はリュウ・ヨシマサとレオン・マルヴォワに一任する。お前は、教育係としての職務を一旦手放せ」
フランソワの肩がわずかに沈み、悔しそうな吐息が漏れた。自分の失態が招いた結果と、今後の自分の立場を理解した彼の胸には、深い後悔と悔しさが渦巻いていた。その時、リュウが不意に口を開いた。
「お言葉ですが、船長」
ゼフィランサスが目を向けるのを待ってから、リュウは続けた。
「ルキフェルのことで、聞きたいことがありすぎます。彼は……何者なのですか?」
ゼフィランサスはしばし沈黙し、月明かりに照らされた甲板を見つめたまま答えなかった。やがて、リュウが口を開く。
「たとえ記憶は消えても、身体に刻まれた経験は消えません。口こそ悪いが、彼の頭脳、振る舞い、それに剣の腕に私は覚えがあります。彼は高貴な身分であり……剣を教えたのも、あなたでしょう?」
フランソワの瞳が見開かれ、驚愕の色を隠せなかった。リュウはゆっくりと口を開いた。
「彼の修行に何度か付き合ってきましたが、動きは西洋剣術に染まり切っています。しかし、一見型通りに動いているかと思いきや、そこかしこに癖が見受けられる。一つ一つの動作の中に自由さがある……まさに、あなたが剣を振るう姿と重なったのです」
リュウは軽くフランソワをチラリと見て、さらに続けた。
「フランソワもそうです。ゼフィランサス船長の教えはまず型があり、その上で“型破り”な動きができることを体現しています。そう、自由にね」
フランソワは唇を引き結び、わずかに息を飲んだ。リュウはその反応を確かめるように言葉を重ねた。
「それだけではない。あなたはあの子のことをよくご存知のはずだ。そう、たとえば“年齢”」
ゼフィランサスの指先がぴくりと動いた。
「あなたはうまく誤魔化しているかもしれんが、私は見逃さん。今、ここで問いただそうか。なぜあなたは、ルキフェルが“六歳”であると知っているのか?」
夜風が甲板を渡り、ゼフィランサスは遠くの水平線を見つめていた。三人の元に、甲板を軽やかに踏みしめる影が近づいてくる。アランだ。月明かりに照らされる顔には、いつも以上に眉間の皺が深く刻まれ、瞳は鋭く光っている。
「船長……少し、耳を貸してもらおうか」
アランの声には緊張と怒りが混ざり、いつもより圧を伴っていた。ゼフィランサスは一瞬だけ彼と視線を合わせる。
「サン・マロでお前が何を嗅ぎ回っていたか、少し調べさせてもらった」
アランの口調にはためらいはなく、その後に続く言葉は船上の空気を凍らせた。
「うちの傘下にいた船団が、貴族のガキを狙った売買組織と商売取引をしていたのは事実か?」
ゼフィランサスの目がわずかに細まり、月明かりが彼の顔を鋭く映し出す。リュウもフランソワも息をのんだ。ゼフィランサスはゆっくりと息を吐き、冷静を装いながらも眉間には微かな緊張が走っていた。
「……事実だ」
ゼフィランサスの声には抑えた怒りと重みが混ざっていたが、アランの目には届かない。アランの声は冷たく、確信を帯びて甲板の静寂を切り裂いた。
「——あの夜だ。お前がガキどもを連れてきた、あの夜だよ。外部の連中が入ってきて、お前は次々と斬り伏せていた」
アランの言葉の一つ一つが重く、ゼフィランサスの前に投げつけられる。
「だが、奴らは人攫いだったんだろう? 貴族系の売買組織と繋がっていた。海軍の一部まで癒着してるって話だ。取引の実務は他船団がやってたが、どうしてお前がわざわざ関わっていた?」
ゼフィランサスは一瞬だけ顔を曇らせたが、すぐに冷静を取り戻して答えた。月光がその横顔を銀白に縁取る。
「オレなりのけじめだ。見過ごせなかった。始末したのは、争いをここで終わらせるため。サン・マロでの接触も、他船団への縁切りのため。結果、混乱は起きたが、オレは責任を取ったつもりだ」
アランはより一層眉を寄せた。
「縁切りだと? 正義のつもりで人を巻き込み、取引先と接触し、しかもその過程でやり方も選ばない。『始末する』ってのは便利な言い訳だ。お前のやり方が『けじめ』なら、説明が足りん。それとだ、もしお前が“守るため”にやったというならば、どうして俺に報告もしなかった? なぜ俺の了解を得ずに、お前だけで事を済ませようとした? 本当に『けじめ』だけか? もっと別の思惑があるんじゃないかと勘繰られても仕方なかろう」
ゼフィランサスの目が鋭く光るが、揺れた声には抑えらぬ熱を含んでいた。
「事態は複雑だ。表に出して対処するには、あまりに時間も手間もかかる。誰かが即決を下さねばならなかった。全ては人を売り買いする下劣な取引を見過ごしていた、頭目であるオレの責任だ。だからオレ一人で片付けた」
アランは舌打ちを一つだけして、ゼフィランサスから目を逸らした。フランソワの頭の中に、あの夜の光景が鮮烈に甦る。血まみれの甲板、床に落ちた断片、そして無言でブラシを動かし続けた自分の手の感触。フランソワは思わず吐き出した。
「……もう俺、よく分かんないです。船長がけじめのために人攫いを始末したなら、ルキフェルはどうなんですか? それに、アントワーヌも……いくら船長に理由があったとしても、あいつらの正体への答えになってませんよ」
ゼフィランサスは長く黙った後、揺るぎない声で言った。
「……いつか、話す。今は話せん。お前達が、あの子を心から信頼できるようになったら明かすと約束する」
フランソワとリュウ、そしてアランも彼の言葉に張り詰めた空気を感じたが、ゼフィランサスはさらに声を張り上げた。
「お前ら、あの子を信用してないだろう? オレの目は誤魔化せない」
ゼフィランサスの言葉に、三人の身体に緊張が走った。ゼフィランサスは少し俯き、夜の海を見つめながら心の中で呟く。こいつらに、全てを理解させるのはまだ早い。まだ、誰も信じられない状況にある。だからこそ言葉で導くよりも、行動で示さねばならない。信頼は時間と共に育まれるものだ。ゼフィランサスは再び三人の方を向き、鋭い声で言った。
「だからと言って待つだけではない。お前達はお前達で、あの子を守るために動け。過去を詮索するのではなく、今ここにある現実を見据えろ」
潮風が吹き抜ける中、アランはゆっくりと口を開いた。
「……悪いがな、船長。いや、ゼフィール」
敢えて愛称を皮肉混じりに呼ぶ声は重く鋭く、夜の海に低く響いた。ゼフィランサスの瞳が一瞬、険しく光る。
「俺はな……いや、ここにいるフランソワとリュウも同じか。俺たちは、あのガキよりお前の方が信用できない。正直言ってな」
アランの言葉にフランソワの肩に一瞬、緊張が走る。リュウも表情を硬くし、アランをじっと見つめた。
「お前が“風”のように気まぐれで、何も掴めない奴だとは以前から思っていた。理解しようともした。だが、今回ばかりは分からん。お前が腹の底で何を考えてるのか全く見えない、理解できない」
アランは眉間に皺を寄せ、啖呵を切ったように続けた。
「言うこ全てが嘘くさく聞こえる。この船における信頼問題に関わるんだ。お前の口から“真実”を聞かない限り、先はない」
アランの言葉には怒り、疑念、そして深い信頼の揺らぎ、三つの感情が混ざり合い、夜の海の静けさを切り裂くようだった。甲板の緊張が限界まで高まったその瞬間、ゼフィランサスはゆっくりと深く息を吸い込み、海を見下ろすように視線を落とした。潮風が彼の金色の瞳をかすかに揺らす。
「……いずれ話すと言っただろう? 今はオレの中で整理がついていないだけだ。心が決まったら……今度こそ腹を割って話す」
ゼフィランサスは背筋を伸ばし、夜の海と星空を前にして凛と立った。アラン、フランソワ、リュウの三人は互いに目を合わせながらも、船長の言葉を静かに受け止めるしかなかった。そのまま潮風の音だけが甲板に響き渡り、まだ解けきらぬ重みを残したまま夜は続く。




