第六章① ルキフェル
朝靄の中、海風を切りながら進む船の甲板で、ルキフェルとアントワーヌは遠くに霞むサン・マロの街並みに目を向けていた。港の輪郭が少しずつ浮かび上がり、陽光に照らされた尖塔や石造りの屋根がまるで蜃気楼のように揺らめいている。二人の背後では、フランソワとリュウが小声で話していた。ルキフェルは風に髪をなびかせながら、振り返って問う。
「なあ、あれがサン・マロだろ? 着いたら何すんの?」
フランソワは海の先に目を向けたまま答える。
「まずは物資の補給、仲間と合流。それから……今日でお別れする奴らへの挨拶だな。滞在する時間は、ほとんどないはず」
ルキフェルは少し得意げに胸を張った。
「おれ、知ってるぞ。そういうの、契約満了ってやつだろ?」
フランソワが片眉を上げる。
「へえー、よく知ってんな。誰に聞いた?」
ルキフェルは満面の笑みで、さらりと言った。
「アランが教えてくれた」
その瞬間、フランソワの手がぴたりと止まり、リュウの眉が微かに動いた。二人の間にほんの数秒の沈黙が落ちる。
「……アラン?」
フランソワが念を押すように呟くと、ルキフェルは悪びれもなく頷いた。
「うん、クォーターマスターの」
フランソワは途端に胃を押さえた。
「……お前、ほんとに爆弾みたいな奴だな」
リュウは苦笑を浮かべながら腕を組む。
「それで、ルキフェル。アランと会って、何をしてたんだ?」
「星を見た」
ルキフェルのあまりにあっけらかんとした答えに、三人の間の空気がまた少し止まった。
「……星?」
「うん。夜の甲板で、いっしょに」
ルキフェルは無邪気に空を見上げた。空にはまだ薄く月が残っている。
「青い星が二つあってさ、アランが『明るいだけ』って言ってた。なんか、そんな風に言うのがアランらしいと思ってさ」
フランソワは頭を掻き、リュウはわずかに目を伏せた。
「……あの人が、星を?」
「そうだよ。アランって見た目は怖いけど、話すとぜんぜん違うんだ。おれ、アラン好きだな」
ルキフェルの一言に、フランソワとリュウの顔が同時に引きつった。
「……おいルキフェル、そういう発言は人を選べ」
「え、なんで?」
「なんでもだ!」
フランソワが叫び、リュウは喉の奥で笑いを堪えている。
「……お前、ほんとに手のかかる弟分だな……」
フランソワが苦笑しながら呟いていると、甲板の向こうにはサン・マロの港町がハッキリと輪郭を現し始めていた。潮風が肌を撫で、波音の合間に船員たちの掛け声が響く。そんな中、アントワーヌがふと口を開いた。
「サン・マロの次は、どこに行くんですか?」
彼の問いに答えたのは、帆の影を見上げていたリュウだった。
「エル・イエロ島。——船長たちの故郷に向かうそうだ」
「エル・イエロ……?」
聞き慣れない響きを確かめるように、アントワーヌが首を傾げる。
「その島、どの辺にあるんですか?」
「カナリア諸島の近くだ」
フランソワが答える。彼の声には長い航海を前にした水夫らしい覚悟と、どこか懐かしさが混じっていた。
「これまでより長い航海になる。補給も限られてるから、寄港できるのはせいぜい今日一日だな」
潮風が一層強まり、遠くの鐘楼の音がかすかに波間を渡ってくる。港町が近づくほどに、甲板の上に漂う空気もどこかせわしなくなっていった。船員たちは荷の整理や小さな身支度をしながら、時折互いに声を掛け合っている。その中でアランは淡々と歩み寄り、小さな箱を抱えて一列に並んだ契約満了者たちの前で立ち止まった。朝の光が彼の半分隠れた顔を淡く照らし、アランのアンバーの瞳が一人ずつを見渡す。
「こっちへ来い」
アランは箱から包みを取り出し、渋い表情で手際よく封を解いていく。銀貨と紙幣、いくばくかの小物が包まれて船員の手へと渡される。
「今までよく働いた。これでしばらくは食い繋げるだろう。好きに使え」
受け取った者たちは最初、目を疑うように包みを握りしめ、次いで顔がほころぶ。感謝の声があちこちで上がり、握手や抱擁が交わされた。本来ならそこで笑顔が交差しても不思議はない。だが、アランは軽く息を吐くと、ふいに顔の表情を引き締めた。
「だが、ひとつ言っておく」
アランの声音は穏やかさの中に刃のような冷たさが混じり、甲板のざわめきがふと収まる。船員たちは包みを握ったまま動きを止めた。
「この船で見聞きしたことは、外に持ち出すな。特にゼフィランサスについて語るな」
アランは一歩前に出て、視線を一人ひとりに合わせる。
「もし約束を破る者がいれば、お前たちはもう仲間ではない。降りたその日から、敵だ。口外すれば容赦せん。叩き斬ることになると心得よ」
その瞬間、甲板を吹いていた風が冷たく感じられた。笑い声は消え、感謝の声は引きつり、受け取った包みが手の中で硬く握り直される。ある者は一瞬目を伏せ、ある者は唇を噛み締める。歓声を交わしていた表情は、見る見るうちに萎んでいった。
「……わかりました、アランさん……」
誰かの掠れた声が漏れる。誰もが同じ言葉を反芻する。表向きの報酬と、背後にある冷徹な条件。アランはそれを確認するように一度だけゆっくりと頷き、冷えた視線を巡らせるとサッと背を向けた。
甲板に再び日常の作業音が戻り始めるが、空気は前とは違っている。誰も大声で笑わない。荷を抱えながら去っていく者たちの背中はどこか重く、足取りも速い。彼らの耳には、アランの言葉が繰り返し残った。ゼフィランサスの船は補給と別れを同時に飲み込みながら、静かに港へと舵を切る。
甲板の片隅で、アランは小さな紙切れを火であぶるように眺め、懐へと仕舞う。
帆柱の影の下で、ルキフェルはじっとその一部始終を見ていた。金貨を受け取った男たちの強ばった顔、アランのわずかに動いた唇。あの「叩き斬る」という言葉が、風に乗ってまだ残響している気がした。ルキフェルは腕を組んで小さく首を傾げ、ぽつりと呟く。
「……あれ、脅しって言うんだよな」
その場にいたフランソワとリュウがほぼ同時に振り返る。フランソワが眉間に皺を寄せながら、頭を抱えるようにため息をついた。
「おいおい、声でけぇよ! 本人に聞こえたら命がいくつあっても足りねえぞ……!」
ルキフェルは悪びれる様子もなく、首を傾げたまま続ける。
「だって、毎回あれ言うの? あの『口外したら叩き斬る』ってやつ」
「毎回じゃねぇ!」
即座にフランソワが突っ込んだ。
「アランさんがあんな調子になるのは、契約満了の時だけ! あれ“儀式みたいなもんなんだよ。あの人なりの、けじめだ」
ルキフェルは「へぇ」と気の抜けた声を漏らす。どこか腑に落ちない表情で、アランの背を目で追っていた。フランソワはそんなルキフェルを見て、眉をひそめつつも苦笑する。
「まったく……お前、怖いもん知らずにも程があるぞ。あれを『毎回言うの?』なんて口にするガキ、俺は初めて見たよ」
「そう? だって、言い方ちょっと怖いけど……本気で怒ってる感じじゃなかったし」
ルキフェルの無邪気な言葉に、フランソワは一瞬返す言葉を失った。リュウが肩をすくめて呟く。
「そう見えるのは君だけだ、ルキフェル」
ルキフェルは遠ざかっていくアランの後ろ姿をじっと見つめていた。
「やっぱさぁ……あれ、脅しだよな」
「黙れ。口を動かすより手を動かせ」
フランソワは吐き捨てるように言い、すでに背を向けていた。ルキフェルは「へいへい」と気の抜けた返事をして肩をすくめる。その間にも、サン・マロの防波堤が見えてきた。
「前方三百ヤード、防波堤入り口。速度そのまま!」
甲板長が指示を飛ばすと、号令が連鎖するように船員たちが動き始めた。帆を調整し、錨の鎖を整備する音が響く。ルキフェルも甲板の脇へ回り、縄を巻き取る手を貸す。ふざけた顔つきのままだが、動きは正確だった。
「おい、ルキフェル、反対舷のロープも頼む!」
「はいよ、隊長殿!」
「誰が隊長だ、バカ!」
フランソワの怒鳴り声に、アントワーヌが笑いをこらえながら綱を引いた。やがて船体が潮流を受けて角度を変え、防波堤の白い壁面が目前に迫る。港の鐘が鳴り、桟橋には他船の船乗りたちが姿を見せた。風の匂いが変わる。海の塩気が薄れ、陸の湿った空気が鼻を刺した。
「——錨、下ろせ!」
甲板長の号令とともに、鉄鎖が唸りを上げて滑り落ちる。錨の鎖が軋む音のあと、船員たちの「停泊よし!」という声が甲板に響いた。港の喧騒がすぐそこに広がっている。荷役人の声、車輪の軋む音、遠くで犬が吠える。ついにサン・マロの港だ。帆を畳み終えたルキフェルは、風を受けながら目を細める。潮の匂いの奥に、魚と木樽の混ざった香りがした。
「……ここが、サン・マロ」
ルキフェルの呟きに、アントワーヌが頷く。
「ずいぶん活気ある港だね。思ってたより大きい」
「昔から交易の要だからな」
フランソワが答え、船縁から港を見下ろした。桟橋には、こちらの到着を待つ人影が並んでいた。その服装を見た瞬間、フランソワの表情がわずかに変わる。
「おいおい……見覚えある顔がいるぞ」
フランソワの声に釣られ、ルキフェルも視線を向けた。陽光を反射する海の向こう、紺の上着に白いスカーフを巻いた男たちが手を振っている。ゼフィランサス海賊団の分隊一味、かつて一緒に航海した仲間たちだ。
「おおっ、本艦の連中じゃねえか!」
港の方から一際大きな声が上がった。先頭に立つ浅黒い男、かつての分隊長が満面の笑みで叫ぶ。
「フランソワ! てめぇ、まだ生きてたのか!」
「はっ、死ぬわけねぇだろ。お前こそ相変わらず図体でけぇな!」
フランソワは舷側を跨いで飛び降り、男たちの元へ駆けて行った。分隊長とフランソワの腕がぶつかり合い、乾いた音が響く。
「まったく、こっちはてっきりお前ら沈んだと思ってたぜ」
「沈むのはてめぇらの方だ。こっちはゼフィランサスの船だぞ、簡単にゃ沈まねぇ!」
桟橋で笑い声が弾ける。ルキフェルとアントワーヌも思わず顔を見合わせた。
「……本当に仲間なんだ」
「うん、あんなふうに笑ってるフランソワさん、初めて見た」
リュウが静かに船を降り、袖をまくりながら言った。
「ゼフィランサスの船団に所属している限り、遠く離れても仲間。あれが海賊の絆というやつだ」
「……へぇ」
ルキフェルはその言葉を噛みしめながら、遠くで握手を交わす男たちの輪を見つめた。リュウに連れられて、ルキフェルとアントワーヌは下船する。フランソワ達に近づくたび、会話の内容がはっきりしてきた。
「で、あんたらの操舵手は元気にしてるのか?」
フランソワの問いに、分隊の男たちは一斉に頷いた。
「元気も何も、あの人は相変わらず化け物みてぇな体力してるさ」
「こっちがヒイヒイ言ってるのに。あの人だけ一晩中、舵握ってんだぞ」
「はははっ、そりゃ相変わらずだ!」
フランソワが腹を抱えて笑うと、分隊の男たちもつられて笑い声を上げた。その時、一人の船乗りがルキフェルの方を見やった。
「で、そっちのガキは誰だ? 新入り?」
「おう、そうだ」
フランソワは後ろに立っていたルキフェルの肩をぽんと叩いた。
「ルキフェルだ。今は俺が教育係やってんだよ」
一瞬の静寂。次の瞬間、港に響くほどの爆笑が起きた。
「ははははっ! お前が教育係!? 冗談きついな!」
「いや、信じられねぇ! お前に教えられるって、どんな罰だ!」
「それにしても……あの顔、ほとんど包帯じゃねえか! どうやって表情読むんだよ!」
笑い声が潮風に乗って弾ける。ルキフェルはぎこちない笑みを浮かべたが、その胸の奥では何かがちくりと刺さった。頬に巻かれた包帯の内側で熱が籠る。
「……へへ、そう見える?」
ルキフェルがかろうじて笑ってみせると、フランソワが隣で腕を組みながら言った。
「うるせぇぞお前ら、こいつ、案外筋がいいんだ。すぐに追い越されんぞ」
「ははっ、そうかい! そりゃ楽しみだな!」
笑いの余韻の中でルキフェルの胸には小さな痛みが残った。港の喧騒と笑い声の中、自分だけが少し遠くにいるような、そんな感覚だ。嘲笑が止まらない中、ルキフェルの胸の奥にじわりと熱がこみ上げる。まるで小さな炎が静かに燃え広がっていくように、心の内側でじりじりと火花が弾けている。
「……そろそろ、頭きた」
彼の隣に立つアントワーヌそっと身を寄せ、耳元で囁いた。
「……おれもいい?」
ルキフェルの瞳が瞬き、ほんの少しニヤリと笑った。
「もちろん」
二人の間に、言葉にせずとも通じ合う覚悟の火が灯る。港の喧騒や笑い声は、いつの間にか二人だけの世界に変わったようだった。ルキフェルはゆっくりと嘲笑する男たちの前に歩み出る。港の風に煽られながらも、彼の瞳には炎が燃え広がっている。
「おやおや、どうした? 何か言いたげだな」
男の一人が身を屈め、ルキフェルと視線を合わせようと近づく。
「まずい、逃げろ!」
フランソワの叫びが耳に届く。
「安心しろ。オレは危害を——」
男が言い終わらないうちに、ルキフェルの身体が滑るように動いた。習ったばかりの太極拳の動きが、自然と彼の身体を支配する。手首と足の流れるような動きにより、男はあっという間に地面に倒れ伏した。数人の男たちも、思わず息を呑む。
ルキフェルに圧倒された男たちの間に、アントワーヌが腰に差していた木剣を抜き放った。彼は素早く一歩踏み出すと、最初の男に鋭い打撃を叩き込む。男は驚きのあまり一瞬足を止め、身体が後退する。他の男がアントワーヌを捕まえようと飛びかかるが、アントワーヌは俊敏な身のこなしとカウンター技を駆使して一人、また一人と敵を地面に沈めていく。
「くっ、速すぎる!」
男たちの声が港の風に混じる。その瞬間、アントワーヌの動きを読み切った男が仕返しを狙い、最後の一撃を放とうとするが、そこに立ちはだかったのはルキフェルだ。木剣をしっかり握り、呼吸を整えた彼は中華剣術の流れるような動きで最後の男を迎え撃った。ルキフェルの剣先が一閃し、男の攻撃は見事に空を切ると床にひざまずき、ルキフェルの木剣の前で動けなくなっていた。
港に響くのは、呼吸の音と倒れた者たちの呻きだけ。ルキフェルとアントワーヌは互いに目を合わせ、無言の連携を確認。勝負はあっという間に決していた。倒れた男たちは口をパクパクさせるだけで暫く言葉も出なかったが、やがて一人がかろうじて声を絞り出す。
「……な、何だ……あの二人……?」
「さっきまでただの子供だと思ってたのに……」
他の男たちも口々にざわつき、驚愕の色を隠せない。彼らの様子を横目に、フランソワは苦笑しながら頭を掻いた。
「だから逃げろって言ったんだよ。……この二人、筋がいいからさ」
リュウも腕を組み、穏やかながらも含みのある笑みを浮かべた。
「ふむ……今度、ちゃんとした護身術を学ばせるか」
ルキフェルは少し誇らしげに胸を張り、アントワーヌも満足げに頷いた。港には彼らの小さな勝利を讃える風がそよいでいた。




