第五章⑥ 名前と星空観測
他の船員から、フランソワは船医室にいると聞かされたルキフェルは、言われたとおり船医室へ向かった。軋む扉を開けると、室内ではフランソワとレオン、それにあの陰気な少年アントワーヌが、何やら話し込んでいた。だがルキフェルはそんな空気を一切気にせず、ずかずかと中へ入っていく。
「おお、ルキフェルか。どこ行ってた?」
顔を上げたフランソワが言う。ルキフェルはニカッと笑って答えた。
「アランのとこ、行ってた」
「……アランの?」
フランソワの口角が一瞬ひくついた。彼手が自然と自身の腹に当たる。
「お、おま……お前、よりによってあのクォーターマスターのところに……? 生きて戻ったのか……」
フランソワは胃のあたりを押さえながら、青ざめた笑みを浮かべた。彼の横で、レオンが小さく息を吐く。
「君って社交性の塊? それともただの恐れ知らず?」
レオンの皮肉めいた調子に、ルキフェルはきょとんと首を傾げる。アントワーヌはそんな三人のやり取りを横目で見ながら、何も言わず手元の薬草を弄んでいた。それから、ルキフェルはキョロキョロと室内を見渡しながら、手をもぞもぞさせる。
「ねぇ、フランソワ……ルキフェルってどう書くの?」
フランソワは顔を強張らせ、小さくぶつぶつと呟いた。声は低く、独り言のようでいて、どこか切迫している。
「……もし、ルキフェルって名前が……“あれ”由来なら……綴りは……」
彼の言葉にルキフェルはぴくりと反応し、首を傾げた。意味は分からないが、耳に引っかかる音だった。一方、アントワーヌはフランソワの様子を察したのか、机の引き出しに手を伸ばす。ぎしり、と金属の留め具を外す音。取り出されたのは、分厚いラテン語の新約聖書。それを机の上に置いた瞬間、フランソワの顔色が一段階悪くなる。
「おい……やめとけ」
アントワーヌは一瞬だけ逡巡し、聖書を開きかけた指先が途中で止まった。ルキフェルは二人のやり取りを不思議そうに見比べ、フランソワの方を見て素朴に尋ねる。
「なあ。さっきからぶつぶつ言ってる“ルシファー”って、なに?」
その瞬間、フランソワは反射的に声を荒げた。
「聞くな!!」
フランソワは思わず机を叩きそうになり、慌てて手を引っ込める。ルキフェルは目を丸くした。
「え、なんでだよ」
「いいから聞くな! 知らなくていいことだ!」
レオンもまた聖書に落としていた視線を上げ、わずかに眉を寄せる。一度は口を開きかけたが、結局、何も言わなかった。アントワーヌは聖書の表紙を指でなぞる。
「……今は、知らない方がいい」
ルキフェルはきょとんとしたまま、アントワーヌを見つめる。
「えー……なんだよそれ。気になるじゃん」
フランソワは深く息を吐き、額を押さえた。
「ガキのうちから背負うもんじゃねぇんだよ……そういう名前は」
ルキフェルは彼の言葉の意味を測りかねながらも、聖書にちらりと視線を落とす。分厚く、重そうな本。
「……名前の書き方、知りたいだけなのに」
アントワーヌは一瞬だけ驚いたようにレオンを見た。レオンはゆっくり頷く。
「それなら……いい」
アントワーヌは聖書を開き、該当するページに指を置いた。意味や由来については何も説明せず、文字だけを示す。ルキフェルは覗き込み、アントワーヌの指先を目で追った。
「……ふーん。こう書くんだ」
フランソワはその様子を横目で見ながら、どこか複雑な表情で息をつく。
「……綴りを知るくらいなら、まぁ……」
ルキフェルは顔を上げ、アントワーヌを見る。
「おれの名前、これで間違って書かなきゃいいんだな?」
アントワーヌは小さく頷いた。
「そうだね。名前をどう書くかを知ることは……自分が“ここにいる”って確かめることでもあるから」
ルキフェルは少しだけ考え込み、肩をすくめる。
「ふーん……なんか、ちょっと大人になった気分だな」
ルキフェルの言葉に、フランソワとレオンは視線を交わす。どちらも何も言わない。ルキフェルは目の前に座るアントワーヌをじっと見つめた。
「……お前、良いやつなんだな」
ルキフェルの言葉に、レオンが軽く眉をひそめて口を開いた。
「ルキフェル、まず言うべきことはそれか?」
ルキフェルは一瞬ためらったが、深呼吸をひとつして、アントワーヌに面と向かって言った。
「……酷いこと言ってごめん。それと……ありがとう」
アントワーヌは目を大きく開き、言葉を失っていたが、ルキフェルの翡翠色の瞳の奥に、かつてのラウルの面影を見つけた。
「……いいんだよ。困ったときは、お互いさま」
アントワーヌの言葉にルキフェルは少し肩の力を抜き、安堵の息を吐いた。レオンは横で小さく笑いながら、二人の様子を見守っている。
「……やれやれ、少しは成長したか」
フランソワは立ち上がり、腰に帯びた小剣を軽く揺らしながら声を上げた。
「よし、そうと決まれば訓練だな。今日は俺が稽古つける」
ルキフェルはすぐさまフランソワの後を追おうとしたが、ふとアントワーヌに目を向けた。
「あ、せっかくだから来いよ」
アントワーヌは一瞬迷ったが、小さく頷いた。二人は顔を見合わせて微笑み、レオンはそんな二人に声をかける。
「くれぐれも、怪我するなよ」
ルキフェルとアントワーヌは振り返らずとも軽く応え、船医室の扉の向こうへと走り去った。
夜が深まり、甲板は静けさに包まれていた。潮風が穏やかに帆を揺らす中、ルキフェルは約束した通り、アランとともに甲板の一角に立っていた。アランは静かに星空を見上げ、手に持った羅針盤と航海図をランタンが灯る木箱の上に並べる。
「今日は星を通して船の位置を確認する。ルキフェル、お前もよく見ろ」
ルキフェルは夜空を見上げ、無数の星の瞬きに目を凝らした。普段は走り回ることばかり考えていたが、今は頭を使う訓練の延長線のように、星の配置を観察することに集中している。
「この星の並びを覚えておけ。北の方角を知るには、ポラリスを目印にするんだ」
アランの声は落ち着いていて、甲板の波の音にかき消されることはなかった。ルキフェルは頷き、アランの指示に従って星座と角度を測る。
「見えた……!」
ルキフェルが小さく声を上げると、アランは「それでいい」と頷いた。
「星はただの光じゃない。方角を示し、航路を教え、時には命を救う。お前もその意味を理解できるようになる」
ルキフェルは星空に視線を戻し、ふと思う。自分の行くべき場所も帰るべき場所も、夜空の映っているのかもしれない、と。アランはルキフェルの肩に手を置き、口を開いた。
「ここで覚えたことは、昼の訓練と同じくらい大事だ。船上では、頭と目を同時に使える者だけが生き残る」
ルキフェルは星空を見上げたまま、ふと目を細めた。
「アラン。あの星、やけに明るいな。それに、あっちの星も……」
小さな指が空を指し示す。二つの星は青白く煌めき、ほかの星よりもひときわ目立っていた。アランはルキフェルの指の先をちらりと見やり、淡々と答える。
「ああ、あの青い星たちか? シリウスとプロキオンだな」
ルキフェルが少し期待を込めて食い下がろうとした瞬間、アランは手を振り、あっさりと言い切った。
「特に意味はない。ただ明るいだけだ」
ルキフェルは口を開く間もなく、アランは淡々と星の観測を続ける。それまで神秘的に見えた星空は、アランの一言で単純に明るく輝くだけの光の集合に変わったように感じられた。ルキフェルが夜空を見上げていると、アランが静かに彼の横に歩み寄る。
「なあ、ルキフェル。お前、何者なんだ?」
ルキフェルの心臓は一瞬止まったかのように跳ね、全身がビリビリと緊張に包まれた。まるで言葉の刃が胸を突き刺したような感覚だった。目の前の大人の瞳が鋭く、自分の弱さを見透かされているように感じたが、ふとリュウ・ヨシマサから教わった呼吸法を思い出した。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。心拍の乱れを押さえ、身体の緊張を少しずつ解きほぐす。
頭の中で「今、自分はここにいる」という一点に意識を集中させる。やがてルキフェルは、肩の力を抜き、瞳に少しだけ落ち着きを取り戻した光を宿した。震える声ではっきりと言う。
「分かんないんだ。目が覚めたら、ここにいた」
アランはじっと少年を見つめたまましばし沈黙する。ルキフェルはそっと自分の頬に巻かれた包帯に手を触れ、指先が包帯の感触を辿るたびに胸の奥にどこか居心地の悪い感覚が広がる。
「なんも思い出せないし、顔は傷ばっかで嫌んなっちゃうよ。おれ、この包帯を外すのが怖い」
ルキフェルの声は小さく震え、呟くようだった。普段なら誰に対しても冷徹で、感情をあまり表に出さないアランも、彼の言葉を聞くと一瞬だけ目を和らげた。
「……怖いのは当然だ。だが、恐れることは悪いことじゃない」
アランは穏やかに言葉を続ける。
「傷だろうと過去だろうと、それがどうあれ、お前はここにいる。包帯を外すのも恐れるのも、少しずつでいい。焦る必要はない」
ルキフェルは彼の言葉に深く息を吐いた。いつもなら冷徹な声しか聞かせないアランが、こんな風に励ましてくれるのは初めてだった。ルキフェルがじっと包帯に触れているのを見て、アランもまた自分の眼帯に指をかけた。片目に覆いをしているその手つきは、どこか自嘲を含んでいた。
「俺も、人前でこの目を晒すことを怖がった時期があった」
アランの声は普段の冷徹さとは違い、どこか柔らかく響いた。アランは眼帯を軽く撫でながら、目線だけをルキフェルに向ける。
「だが、そのうち怖いと思わなくなる。慣れるものだ」
ルキフェルはアランの言葉に少し驚き、眉をひそめる。
「まあ、できればな……俺はいい加減、お前の素顔を見てみたいが」
アランの口元にわずかに笑みが滲む。
「その包帯に巻かれた顔を見るのも、もう飽きてきた」
ルキフェルは一瞬、胸の奥が熱くなるような感覚を覚えた。アランはルキフェルの肩に一つだけ手を置いた。その手つきは粗野ではあるが、確かな重みと温もりがあった。
「それと、忘れるな。お前の顔も包帯も、俺にとってはただの事実だ。価値判断の材料じゃない。お前はお前だ。包帯を外しても、俺はお前を見捨てたりしない。飽きたとか言ったのは茶目っ気だ。お前が安心できる場所を、ここに作るのが俺の仕事だ」
言葉の最後に、アランは軽く肩を叩くようにして距離を取った。アランの表情はいつもの硬さへと戻りつつあったが、手のぬくもりは確かに残っている。ルキフェルの胸の奥のざわつきが、少しだけ静まるのが分かった。
「……わかったよ」
ルキフェルは小さく息を吐いた。アランは顎をしゃくると言葉を替えた。
「さあ、今日はもう休め。フランソワが心配するだろうから」
アランが甲板を去ったあとも、ルキフェルは一人残り、夜風に吹かれながら静かに佇んでいた。頭上には青く明るい星──シリウスが瞬き、まるで消え去った過去の面影や、彷徨う“狼”の魂をそっと照らしているかのようだった。ルキフェル自身、その星が示す意味も宿命の影を背負っていることも、知る由はない。
一方、船のどこかでアランもまた夜空を見上げていた。彼の視界に浮かぶのは、シリウスのすぐ傍らで控えめに光る、もう一つの青い星──プロキオン。闇に沈みかけた視界の端で、進むべき方向をそっと示すような静かな光。片目の奥に影を抱えたアランにとって、その星は不思議と馴染んだ。まるで自分自身の立ち位置を映す鏡のように、傍らで道を照らす存在。
星々は何も語らない。意味を与えるのは、いつだって人の側だ。
シリウスはやがて、大海原の上で“狼”として語られる光となり、その傍らで瞬くプロキオンは先を行く者、あるいは導く者として、そう“見える”だけの星であり続ける。
ルキフェルとアラン。二人はそれぞれの場所で同じ夜空を見上げながら、知らず知らずのうちに同じ航路へと足を踏み入れていた。その歩みはまだ緩やかで、交わるとも離れるとも定まらない。
二つの青い光が重なって見えたその夜、世界はすでに舵を切り始めていた──まだ誰も、そのことに気づかぬままに。




