第五章⑤ 海賊の掟
船長室の重厚な木の香りの中、ゼフィランサスは他の船員と変わらぬ食事にありつきながら、これからの動向について思案していた。
二人の子供の存在がある以上、略奪行為はしばらく控えねばならない。だが、身を隠せる場所もそう多くはない。
「サン・マロで一時補給するしかないか……」
彼の声は小さく呟かれ、黄金の瞳が机上の料理に映る光を跳ね返す。
あの港街はフランス海軍が幅を利かせながらも、裏では犯罪の温床となっている。奴らに金を握らせればこちらのものだ。あの港には自分の分隊が三隻ほど駐在していたはず。彼らと合流し、引き続きエル・イエロ島へ向かうとしよう。それに、もうすぐ契約が終わる者がいたはずだから、サン・マロで降ろすこともできる。
さらに、あの街で聞かなければならない情報もあった。
「あとでアランに提案してみようか」
戦闘を避ける今の自分は、周囲を従えるだけの権限を持たない。思案を巡らせつつも、ゼフィランサスは口元に軽く笑みを浮かべる。
「ひぇー。アランのやつ、恐ろしいんだよなぁ」
それでも頼れる右腕。黄金の瞳がイタズラっぽく光り、いつものように軽口を叩きながら、次の行動を見定める。
五日後の午後、クォーターマスターの部屋には紙の擦れる音と、古びた船体が軋む低い音だけが漂っていた。アランは机に広げた航海図を睨みながら、眉間に深い皺を寄せていた。
ゼフィランサスの提案を受けてからというもの、彼の頭は休む暇がない。物資の残量、サン・マロを発ったあとの航路、エル・イエロ島への補給の可否、そして契約満了を迎える連中への報酬。いずれも無視できぬ問題ばかりで、考えれば考えるほど胃が締めつけられるようだった。
「……頭が痛ぇ」
小さく呟き、アランは額を押さえた。書類の束を整理しようとした時、コツンという乾いた木の扉を軽く叩く音が響く。アランは思わず背筋を伸ばす。この船でわざわざノックなどする律儀な奴がいたとは心底、驚いた。
「……入れ」
扉が少しだけ開き、ひょいと覗くようにして一人の少年が顔を見せた。暗褐色の髪に包帯で巻かれて隠された顔、そしてどこか眠たげな翠の瞳。ルキフェルだった。彼が姿を現した瞬間、アランは背凭れに体を預けたまま、片眉を上げた。
「……何の用だ?」
ルキフェルは胸の前で抱えていたノートを差し出した。ページにはアランの癖の強い字で記された航海計算式と、赤いインクでびっしり書き込まれた補足がある。
「この前教えてもらった、潮の流れの読み方。ここ、どうしても意味が分からなくて」
ルキフェルの声音には怯えも躊躇もなかった。ただ純粋に理解したい、という意志だけがある。アランは一瞬だけ呆気に取られ、すぐに苦笑した。
「……お前、そんなもんのためにわざわざノックしたのか」
「だって、ドア開けたら怒られそうだし」
「正解だ」
アランは口元をわずかに歪めながら指先でノートを受け取り、ざっと中身を目で追う。すぐに羽ペンを取り、海図の上へ引き寄せた。
「ここを見ろ。潮流ってのは風と同じで、常に一定じゃない。だが、季節風が吹く方向と、月の満ち欠けが重なる時期を見れば、だいたいの流れは掴める」
「月の、満ち欠け……」
「そうだ。お前が覚えた潮汐表の数字、あれは単なる計算じゃねえ。自然の呼吸を数字にしたもんだ。覚えるより感じるんだ」
アランは指先で紙を軽く叩いた。そこに描かれた線、潮の動きはまるで生き物の血管のようにうねっている。ルキフェルはそれをじっと見つめながら、真剣な眼差しで頷いた。
「うん……でも、風と潮って逆の方向に流れることもあるんだよね? そのとき、どっちを信じたらいい?」
アランの手が止まった。すぐに口角を上げて、静かに笑う。
「どっちも信じるな。数字と風の匂い、両方を照らし合わせて自分で決めろ。それが航海士の仕事であり、俺たちの生き方だ」
ルキフェルは目を丸くしながらもアランの言葉を飲み込むように黙って聞き、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「アランって、やっぱりかっこいいな」
アランは一瞬むせそうになり、「バカ言うな」とだけ吐き捨てた。すぐに咳払いをして、手元のノートを閉じる。
「……まぁ、よく勉強してるのは認めてやる。だが、あんまりここへ入り浸るな。クォーターマスターの部屋は遊び場じゃない」
「でも、もっと知りたいんだ。海のことも、風のことも……」
ルキフェルは机の端に置かれた羅針盤を見つめながら、まっすぐに言った。その瞳はまだ幼いのに、何か底知れぬ光を宿している。アランは一瞬だけ目を細め、ため息を吐いた。
「知りたいなら、自分の目で見ろ。机の上だけじゃ海は学べん」
ルキフェルは首を傾げた。
「じゃあ、見るにはどうすればいい?」
アランは少し黙り込み、やがて机の上のペンを指先で転がした。
「そうだな。今夜は風が落ち着いてる。……夜半、甲板に来い」
「えっ、いいの!?」
ぱっと顔を輝かせるルキフェルに、アランは冷たく見せかけながらも小さく頷いた。
「ただし、約束だけだ。寝坊したら次はない」
「わかった!」
少年はそのまま勢いよくノートを抱えてドアの方へ走っていくと、アランの声がルキフェルの背を引き留めた。
「……待て。もう一つ教えておく」
ルキフェルが振り返ると、アランは机の引き出しを開け、一冊の古びた帳面を取り出した。
「これは、この船の掟。海賊の世界での“法”ってやつだ」
「掟?」
ルキフェルは目を丸くして、興味津々に机の上を覗き込む。アランは帳面をめくりながら淡々と説明を始めた。
「まず、略奪の分け前は全員で分ける。取り分の比率は役職で決まる。船長は八分、俺らクォーターマスターが七分、操舵手や砲手が六分、下っ端は五分。怪我をしたら補償も出る」
「補償?」
「腕一本で銀貨六枚、脚なら八枚。死んだら、家族に十枚。……海の上じゃ命が通貨みたいなもんだ」
アランの声には淡々とした響きがあったが、その目はどこか遠くを見ていた。ルキフェルは少し黙り込み、机の上の航海図を見つめる。
「じゃあ、もし誰かがそのルールを破ったら?」
「そのときは、俺の出番だ。裏切り、横領、命令違反……どれも、船の均衡を壊す行為だ。そういう奴は“海に還す”。掟の下じゃ、それが唯一の正義だ」
ルキフェルは息をのんだ。その幼い顔に浮かぶのは恐怖ではなく、理解しようとする真剣な眼差しだった。
「なんで、そんな厳しい掟があるの?」
アランは一瞬だけルキフェルを見つめ、それからゆっくりと視線を航海図に落とした。
「簡単な話だ。この船には王も神もいない。だからこそ、掟が“均衡”になる。誰もそれを壊しちゃいけねぇ。壊れた瞬間、全員が死ぬ」
静寂が流れる。ルキフェルは唇を噛みしめ、小さく頷いた。
「……そっか。じゃあ、報酬って、ただのお金じゃないんだね」
アランはその言葉にわずかに眉を上げた。
「お前、意外と察しがいいな。そうだ。報酬は“信用”の形でもある。自分の働きと、仲間の信頼が釣り合う場所。それが、海賊の船ってわけだ」
アランの言葉を聞いて、ルキフェルはなぜか胸の奥が少し熱くなった。自分も、いつかその“信用の輪”の中に入りたい。そんな想いが、幼い心に芽生えはじめていた。アランが帳簿を閉じかけたその時、ルキフェルはアランを見上げて口を開いた。
「なあ、アラン」
「ん?」
「甲板でさ、下っ端たちが話してたんだ。けーやく? が終わる人と、そうじゃない人がいるって」
ルキフェルは首を傾げていると、アランは目を瞬かせた。
「契約、か……」
アランは言葉を繰り返しながら、ひとつ息を吐く。どう説明したものかと一瞬考えた後、椅子の背にもたれかかった。
「つまりだな、契約ってのは“約束ごと”だ。ある期間、この船で働く代わりに報酬をもらう。船員はみんな、船長とその約束を交わしてここに乗り込んでる。期間が終われば、契約満了ってわけだ」
「ふうん……」
ルキフェルは納得しかけて、けれどまだどこか腑に落ちない顔をしている。
「じゃあ、その“契約が終わる人たち”にも報酬があるの?」
アランの表情がわずかに曇った。
「当然だ。働いた分の取り分はきっちり渡す。そこは掟だ。……ただ、あいつらはもう、この船には戻らんだろうな」
アランはそれ以上を語らず、「世の中ってのはそういうもんだ」とだけ呟いた。しばらく沈黙が流れ、ランプの灯がわずかに揺らぐ。帳簿の影がアランの手の甲を滑った。ルキフェルは意味をうまく掴みきれなかったが、船に乗る期間は無限じゃないことは理解した。彼は首を傾げ、口を開く。
「……ねえ、アラン」
「ん?」
「レオンの契約って、どうなってんの?」
ルキフェルの口から唐突に出た名前に、アランの手が止まった。
「レオン・マルヴォワ?」
アランは呟いたあと、眉間に皺を寄せて棚の方へ立ち上がった。分厚い革表紙の帳簿や書簡束を掻き分け、船員全員分の契約書を漁り出す。紙の擦れる音のあと、やがて一枚を取り上げた。そこには確かに、レオンの署名がある。几帳面な筆跡で、まるで軍の書類のように整っていた。
「レオンがどうした?」
アランが振り返りざまに問うと、ルキフェルは小さく肩を竦めた。
「いやぁ、レオンの契約っていつまでなんだろうって思って」
アランは契約書に目を走らせながら答える。
「レオンなら……エル・イエロ島に再び戻るまでとなってる。現時点では、な」
「じゃあ、その後は?」
「また更新するかどうか、それはわからん」
アランはそれだけ言って、契約書を元の束に戻した。
「ふぅん」
ルキフェルはそれ以上、何も言わなかった。普段なら矢継ぎ早に質問を重ねるのに、この時ばかりは妙に静かだ。アランはその様子を横目で見ながら、ぼそりと呟ぃ。
「……やっぱこのガキ、よくわかんねえな」
ルキフェルはぼんやりと机の上の紙束を見つめる。契約。報酬。満了。——そして、帰る場所。船員たちは皆、終わりが決まっている。行く宛てがあり、戻る家がある。
じゃあ、自分は。自分には、帰る場所なんて……ないな。ふと、ルキフェルの胸の奥が冷たくなる。考えても仕方ないことだと分かっていても、その思いは消えなかった。
「……なあ、アラン」
「ん?」
「おれには契約、ないの?」
「ない」
アランは容赦無く即答した。
「お前は海賊に拾われた孤児だ。契約してねぇから、海賊ですらない」
「……じゃ、契約って、どうすんの?」
ルキフェルの問いに、アランは机の上の紙を指でとんと叩いた。
「自分のサインだ」
「サイン?」
「ああ。この紙に、自分の名前を書く。それが契約の証だ」
アランの低い声が、ランプの灯の中に沈むように響いた。ルキフェルはその言葉を反芻しながら、紙に触れもしないまま視線を落とし、アランは書類を束ねながらふっと笑う。
「ま、ガキのうちは契約なんか気にすんな。どうせそのうち、嫌でも書かされるさ」
アランは軽く言い放ちながらも、声の奥には微かな優しさがあった。ルキフェルは彼の言葉に小さく頷いたが、すぐに俯いて呟いた。
「……自分の、名前……」
——ルキフェル。それが自分の名前。けれど、どんな意味があるのかも知らない。“名前を書く”と聞いた途端に、胸の奥で何かがちくりと疼いた。ルキフェルは紙の上に置かれた羽ペンをじっと見つめる。まるで、その先に答えがあるかのように。
「ルキフェルって、どう書くんだろう」
小さな疑問が波の音とともに彼の心の奥に沈んでいった。その表情を、アランは知らない。書類を片づける音だけが部屋の静寂を埋めていた。ルキフェルはしばらく考え込んだ末に肩をすくめる。
「……まあいいや。フランソワに聞いてみよう」
ルキフェルはすぐに気を取り直していつもの調子で笑い、アランの方へ振り向いた。
「じゃあ、おれ帰るね。今夜、楽しみにしてる」
アランは眉をひそめて言い返す。
「勘違いすんな。遊びじゃないからな」
アランの忠告にルキフェルはにかっと笑い、「おれとアランの契約ー!」と、悪戯っぽく言いながら手を振って部屋を出ていった。少年の背中が見えなくなると、アランはふっとため息を吐く。
「……契約、ね」
苦笑しながら呟く声が、誰もいない部屋に小さく響いた。海のうねりが船底をくぐって遠くで軋む。




