第五章② ルキフェルとフランソワ
ルキフェルはまだ少しばかり痛む腕を摩りながらゆっくりと立ち上がった。
船医室を出て、階段を上がっていく。海風が顔に触れ、潮の匂いが鼻腔をくすぐった。甲板に出ると揺れる船体に足を取られつつも、ルキフェルは手すりにしがみついて前方を見据える。その時、仕事をひと段落させたフランソワがルキフェルの姿に気づいて声をかけた。
「よお、包帯小僧。しっかり巻きつかれてんな」
ルキフェルの視線は甲板の端にそびえる見張り台に向かっていた。
「……あそこ、行きたい」
フランソワは彼の指先を追い、ゆっくりと眉をひそめる。
「ルキフェル、あそこは危険だ。ガキが遊びで行くところじゃない」
ルキフェルは負けじと顔をしかめ、反抗気味に言った。
「でもおれ、見たいんだ。上から海を見るの、潮風に当たりたいの」
フランソワは深く息をつき、腕を組みながら渋い顔で答える。
「そういう気持ちは分かる。でも、まだ無理だ。怪我が癒えて、体も十分に慣れてデカくなるまでは、ここで我慢しろ」
ルキフェルは小さくため息をついた。
「うぅ……でも、行ってみたい……」
フランソワはその目を見て、少し微笑みながらも強い口調で叱責した。
「船の上での生活は舐めちゃいけない。怪我もする、海も荒れる、風も容赦なく吹く。全部、覚えておけ。怪我も病気も、船の上じゃすぐ命取りになる。自分を守ることで、仲間も守れる」
ルキフェルは腕に触れたまま少し俯く。
「守れる、か。どうすれば強くなれるんだろう」
フランソワは少し柔らかく微笑む。
「まずは基本だ。体を慣らし、動きを覚える。船上で生き抜くための力は、必ず身につく」
ルキフェルは胸の奥で小さく唸る。まだ怖さは残るが、フランソワの言葉に背筋が少し伸び、決意が芽生える。
「わかった」
フランソワは頷き、手を軽くルキフェルの肩に置いた。
「いい返事だ。痛いことも、怖いこともあるだろう。けど、それも無駄にはならない。すべて、お前の力になる」
ルキフェルは甲板の端から見張り台——クロウズネストを指さし、目を輝かせた。
「それでも、あそこに登りたい!」
「馬鹿か。今までの流れ、ぶった斬るな。ガキのお前の体力じゃ落ちて海の餌になるだけ」
フランソワの言葉にルキフェルは顔をしかめ、少し拗ねたように唇を尖らせた。
「そんな、ちょっと登るくらい……」
フランソワは腕を組み、厳しい目でルキフェルを見下ろす。
「遊び場じゃねえ。あそこは命を張る仕事の場所だ」
ルキフェルは肩を落とし、つぶやくように言った。
「ふん。じゃあ、おれには無理か」
フランソワはルキフェルの背中を叩き、力強く言った。
「なら、船の上で生きるために叩き込んでやる。お前が役に立つ男になるまで、だ」
ルキフェルの目に少しだけ驚きが混じる。
「叩き込む……?」
フランソワは微笑を交えながらも、真剣な目で説明する。
「海賊の掟だ。生きるために覚えること、守ること、役割を理解すること。これが船で生き抜くための基本」
その後、ルキフェルは船上生活のしごきを始めることになった。まずは縄結び。ロープを手に取り、手首に巻きつけ、結び方を覚える。船員たちはからかい半分に声をかけてきた。
「おい包帯のガキ、そんな結びじゃ波に飛ばされちまうぞ!」
「そろそろ指も痛くなるぞ、覚悟はいいか?」
ルキフェルは手が思うように動かず、顔をしかめて唸る。
「うぅ、難しい……」
次は甲板掃除。バケツを持ち、ブラシを握り、潮水で滑る甲板をゴシゴシと擦る。船員たちはからかいながらも手順を教えてくれる。
「そうだ、そこ! やり方が下手だと滑るぞ、落ちるなよ」
樽運びも経験する。重い樽を持ち上げ、甲板を駆ける。汗が滴り、息が上がるが、ルキフェルは次第に感覚をつかむ。
「……これなら、少しは役に立てるかも」
フランソワは腕組みを崩さず、ルキフェルを見下ろす。
「これが船で生きるってことだ。戦うだけが強さじゃねえ。覚えろ、役に立つってのはこういうことだ」
ルキフェルは顔を汗で濡らしながらも、どこか誇らしげに息を整えた。
「うん。おれ、頑張れる」
甲板掃除のあと、汗だくで立ち止まったルキフェルはフランソワに言った。
「フランソワ。おれ、頭使うこともしたい」
フランソワは思わず肩をすくめ、目を丸くする。
「はぁ……? いや、ここまで散々体使って動き回ってきて、なんで急に頭の話になるんだよ」
ルキフェルは少し俯き、小さく呟く。
「なんでだろう。なんかさ、今までやってたこと、あんまり向いてない気がするんだ」
フランソワの表情は一瞬固まったが、すぐに鋭く叱責する。
「甘えんな! 動くことばかりが強さじゃないけど、だからって逃げる理由にはならねぇ」
ルキフェルは肩を落とし、唇を噛みながらも目を伏せる。
「うぅ……」
フランソワは腕を組み直し、低く厳しい声で続ける。
「体を動かすことも頭を使うことも、両方やるからこそ生き抜けるんだ。中途半端に放棄する奴は、この船じゃ生き残れねぇぞ」
ルキフェルは小さく息を吐き、少しだけ肩をすくめて応える。
「わかった。逃げないようにする」
フランソワは軽く頷いた。
「よし、じゃあ望み通り頭も使う訓練だ。まずは航海中の船上作業で必要な計算をやらせてみる」
ルキフェルは首を傾げた。
「計算……?」
「お前、今の風の向きと帆の角度で、どのくらいの速度が出るか算出してみろ」
フランソワは木箱の上で紙と鉛筆を借りると簡単な図を描き、数字を示す。敢えてやり方は教えなかった。そもそもフランソワ自身が計算できない男だからだ。問題自体は航海士が持ってた図面を丸暗記したもの。ルキフェルは眉をひそめて紙に目を落とし、指先で数を追いながら唸る。
「なんだこれ……ここをこうして……あれ?」
数秒沈黙したあと、ルキフェルは小さく声を上げる。
「なるほどね、よく分かった」
その後、ルキフェルは欠けた鉛筆を握って、紙面に次々と計算式と答えを書き込んでいく。その様子を見たフランソワは目を丸くし、思わず声を上げた。
「え、お前、計算できんの?」
ルキフェルはちょっと得意げに肩をすくめる。
「よく分かんないけど……よく分かった」
フランソワは呆れながらも、内心では驚きを隠せなかった。
「まさかこのガキ、見た目だけじゃなく頭まで使えるとはな」
ルキフェルは鼻を鳴らし、汗まみれの手で紙を差し出した。
「な、ちゃんとやればできるって言ったろ」
フランソワは思わず笑みをこぼす。
「ああ、やればできるガキだ。……本当に、な」
ルキフェルとフランソワが甲板の隅で図面を覗き込んでいた時、二人のやり取りを遠くからじっと見つめている影があった。その男は黒革の眼帯をしている。
夜目を慣らしているような姿は、周囲の船員たちの中でもひときわ異質だ。彼は静かに歩み寄る。靴音が板張りを叩くたび、周囲の空気がわずかに緊張した。陽光が黒革の眼帯に硬い光を落とす。フランソワは男の気配に気づき、思わず息を呑んだ。
「あ……やべぇ」
ルキフェルはただ首を傾げる。
「誰?」
男は答えず、ルキフェルの手にある図面をひょいと奪い取ると、琥珀色の片眼でじっと見つめた。沈黙。風がロープを鳴らし、帆の影が彼の顔を斜めに切り裂く。男は図面から顔を上げて口を開いた。
「——この計算、誰がやった」
ルキフェルが「あ、おれ」と答えると、男の眉がわずかに動く。
「目分量にしちゃ正確すぎるな。見よう見まねで、こうは出ねぇ」
「なんか、分かったんだ」
ルキフェルは首を傾げたまま、無邪気に言った。男は図面を折りたたみ、手の甲で軽く叩いた。
「面白ぇガキだ」
吐き出した男の言葉に、フランソワの背筋が冷える。ルキフェルはその言葉にぱっと顔を上げ、無邪気に笑った。
「おっさんもなんか面白いぞ」
その瞬間、フランソワの顔色が変わった。
「——バカッ! お前、何言ってんだ!!」
フランソワの怒鳴り声が甲板に響き、ルキフェルがびくりと肩を跳ねさせる。
「え、なんで?」
「“おっさん”じゃねえ! この人は——」
フランソワは慌てて背筋を伸ばし、敬礼に近い動作をとった。
「この船のクォーターマスター、アラン・クロードさんだ。船長の右腕で、実質この船を動かしてる人だぞ!」
「へぇ、すごい人なんだ」
ルキフェルは眼帯の男——アランを見上げた。アランは小さく鼻で笑う。
「“おっさん”でもいい。呼び方に興味はねぇ。ただ——」
言いかけて、彼はルキフェルの肩に手を置いた。重くもないのに、逃れられない圧がある。
「口の利き方一つで、海の上じゃ命の値が変わる。覚えとけ、坊主」
「……うん」
ルキフェルは素直に頷いた。だが、目はまだ笑っていた。その様子を見て、フランソワが頭を抱える。
「お前ほんっとに畏れ知らずだな……」
アランはふっと片口を上げる。
「放っとけ。こういうガキの方が、後々化ける」
潮風が三人の間を抜け、甲板を濡らした。陽光が眼帯に反射し、アランの琥珀の片眼だけが鋭く光る。
「お前がルキフェル、だな」
「うん!」
「なら覚えとけ。海賊の世界じゃ、“面白い”より“生き残る”方が難しい」
言葉を残し、アランは踵を返して去っていった。甲板を歩くたび、革靴の音が波に紛れて消えていく。フランソワは彼の背を見送りながら、溜息をついた。
「おいガキ。今の人の前で無礼働いたら、普通なら海に放り込まれてんだぞ」
「でも、なんか怖くなかった」
「……お前のそういうとこが一番怖ぇわ」
笑い合っていたルキフェルとフランソワの背後から、低く鋭い声が落ちた。
「おい。何をぼさっとしている」
二人とも、同時に硬直した。その声の主は、先ほどのアラン・クロードだった。振り返ったフランソワが反射的に直立し、背筋を伸ばす。
「アラン・クロード殿っ」
ルキフェルも慌てて姿勢を正すが、やはり目はどこか好奇心で輝いている。アランはそんな二人の反応を一瞥し、ため息まじりに言った。
「お前らに用だ。俺の部屋に来い」
「えっ、おれたち?」
ルキフェルがぽかんとした顔で問い返すと、アランは目だけでこちらを射抜く。
「文句があるなら、海に話しかけてこい」
ルキフェルは肩をすくめ、フランソワは「やっべぇ……」と額を押さえる。しかし逆らえるはずもなく、二人はそろって甲板を離れた。足元の板が軋み、波音が階段の下から響いてくる。先を歩くアランの背中には、不思議な威圧と静けさが同居している。
「なぁ、フランソワ。あの人、何する気なんだ?」
ルキフェルがひそひそと尋ねる。
「知らねぇよ……けど、怒ってるときは海より静かな声になる人だ」
「それ、怖いの?」
「当たり前だろ!」
アランが振り向いた。眼帯の下の影が深く落ち、片目の光が僅かに光る。
「うるさいぞ、ガキども」
その声に、二人とも背筋をぴんと伸ばした。
「……はい!」
そのまま三人は船の奥——クォーターマスターの部屋へと進んでいった。
そこがルキフェルにとって、“航海の世界の裏側”を初めて垣間見る場所になるとは、この時の彼はまだ知らなかった。階段を降りきると、潮と油の混じった匂いが濃くなる。薄暗い廊下の突き当たり、重厚な鉄の扉の前でアランが足を止めると無言のまま錠を外し、扉を押し開けた。
「入れ」
二人が足を踏み入れた瞬間、思わず息を呑んだ。狭い船室の壁一面に、航海図と星図が貼られている。机の上には羅針儀、測距儀、計算盤、積荷の目録、それから紙片にびっしりと書き込まれた数列。まるで、戦場の司令室のようだった。




