第五章③ ルキフェルとアラン
ルキフェルが目を丸くする。
「うわぁ……なにこれ、数字ばっか」
「数字ばっかじゃねぇ、命綱だ」
アランは椅子に腰を下ろした。光を半分だけ遮る眼帯のせいで、表情が半ば影に沈んでいる。
「この船の動き、積荷の重さ、風の流れ。全部、数字で掴む。どの樽が空で、どの弾が残ってるか、間違えりゃ全員海の藻屑になる」
フランソワは黙ったまま壁際に立つ。どうやらここでは口を挟む気はないらしい。アランは机の上の羊皮紙を指で弾き、ルキフェルを顎でしゃくった。
「お前、数字が見えると言っていたな」
「え、ああ……なんとなく分かるかも」
「なら見てみろ。風向きと帆の角度、ここに書かれてる数値で、今の速度を出せ」
再びルキフェルは数字の海に呑まれた。彼の目が、紙面の上を素早く行き来する。鉛筆の先が動き、数行の計算式が現れていく。アランが無言で腕を組み、じっと見つめる。部屋の中は、ペン先の擦れる音だけが響いていた。数分後。ルキフェルは顔を上げ、無邪気な笑みを浮かべた。
「できた。これで合ってると思う」
アランは紙を取り上げ、一瞥して沈黙した。次の瞬間、低く唸るように言った。
「……合っている」
フランソワが思わず「は?」と声を上げる。
「マジかよ。あの航海士でも一度間違えた計算だぞ?」
アランは机に紙を置き、ルキフェルをまっすぐ見据えた。その片目には、初めて興味の色が灯っていた。
「面白いガキだな。勘ではない、感覚で掴んでいる。稀だ」
ルキフェルは首を傾げ、頭を掻く。
「よく分かんないけど、見た瞬間に分かった。なんか風と数字が同じに見えた」
アランはわずかに目を細め、机の奥から羊皮紙を一枚取り出した。
「よし。……試してみる価値はある。今日からしばらく、俺の傍で話を聞け。文句はあるか?」
ルキフェルは一瞬きょとんとしたが、すぐに勢いよく首を振った。
「ない!」
その様子を見て、フランソワが頭を抱える。
「マジかよ……また面倒なのに目ぇつけられたな……」
アランは笑わなかった。ただ、羊皮紙を机に広げながら、淡々と言う。
「必要なことだ」
ルキフェルは机の図面を覗き込み、首を傾げた。
「ねえ、おっさん」
次の瞬間、フランソワの拳が軽くルキフェルの頭に落ちた。
「誰がおっさんだ、誰が!」
「いって! だっておっさんじゃん!」
「言うな!」
アランは二人を一瞥し、淡々と続ける。
「構わん。続けろ」
ルキフェルは少しだけむっとしながらも、改めて問いかけた。
「……何する人なの? 剣振らないし、偉そうだし」
フランソワが「偉そう言うな」と呟くが、アランは気にしない。指先で羊皮紙を軽く叩き、静かに言った。
「クォーターマスターだ」
ルキフェルは瞬きをした。
「……だから、なにそれ」
「船の“腹の中”を管理する役だ」
アランは船図を指し示す。
「食料、弾薬、積荷、配分。船がどれだけ走れて、どれだけ戦えて、どれだけ生き延びられるか。それを決めるのが俺だ」
ルキフェルは目を丸くした。
「へえ……じゃあ、あんたがミスったら?」
「全員死ぬ」
即答された。ルキフェルは一瞬言葉を失い、それから息を飲んだ。
「……すげえ」
アランは淡々と続ける。
「剣が強い者は、戦場で人を殺せる。だが、数字を握る者は戦場そのものを選べる」
ルキフェルは羊皮紙をじっと見つめた。そこに描かれた線や印は、まだよく分からない。それでも、何か大事なものを見せられている気がした。
「戦う力だけが力じゃない。覚えておけ」
アランの言葉にフランソワは腕を組み、ため息交じりに言った。
「聞いとけよ、ガキ。この人の言うことは大体正しい」
ルキフェルはゆっくりと頷いた。
「……うん」
その小さな返事を、アランは見逃さなかった。羊皮紙を畳み、静かに言う。
「今日のところはそれでいい。理解は後、まずは目で覚えろ」
ルキフェルは拳を握り、小さく笑った。
「よく分かんないけど……なんか、面白そう」
ルキフェルの言葉にアランはほんの一瞬だけ眼帯の奥で目を細め、ふと顔を上げる。
「……他に聞きたいことはあるか?」
ルキフェルは少し考え込み、やや不意を突くように口を開く。
「その眼帯の下、どうなってるか見たいです」
フランソワは思わず吹き出し、肩を震わせながら笑い、アランはフランソワを鋭い眼光で睨みつけた。
「黙れ」
フランソワは瞬時に笑いを止めた。ルキフェルはきょとんとしながらも、興味津々の瞳でアランを見つめている。アランは無言で眼帯に触れ、しばらくルキフェルを見つめた後、ゆっくりと口を開く。
「よし、いいだろう。これは褒美だ」
そう言いながら、アランは手早く眼帯を外した。ルキフェルの目に映ったのは想像とは違う、柔らかな瞳。初めて見える灰緑の瞳。光を受けて柔らかな緑色が揺れ、普段見えているアンバーの瞳との対比が鮮やかに浮かび上がる。ルキフェルは思わず息を呑み、目を大きく見開いた。
「えっ……!? ちょ、なにそれ、すげぇ……!」
フランソワもまた、思わず声を詰まらせ、わなわなと身を震わせた。
「ちょ、ちょっと待て、マジか……?」
そんな二人の反応をアランは眺めながら、初めて口元に柔らかな微笑みを浮かべた。
「両目ともちゃんと見えている。生まれつき左右で色が違うだけだ」
ルキフェルは目を輝かせ、小さく息を漏らした。
「かっこいい…!」
フランソワは思わず笑いを噛み殺しながら、腕を叩きつつ声を上げる。
「おい、言うな言うな! ガキが何を言ってんだ!」
ルキフェルはクスクス笑いながら、ふと眉をひそめる。
「でもさ……なんで眼帯しちゃうんだ? かっこいいのに」
アランは片手で眼帯を整えながら口を開いた。
「暗闇に慣れるためだ。いざというとき、闇の中で瞬時に物を見るため。そもそも、眼帯とはそのためにある。決してただのファッションじゃない」
ルキフェルは少し首をかしげるが、アランの瞳を見つめ、ゆっくりと理解していく。
「なるほど……ただのカッコつけじゃないんだな」
アランは眼帯をきちんと装着し直し、軽くうなずいた。
「海賊として生きる知恵のひとつだ。こういう小さな工夫が、大きな差を生む」
ルキフェルは自分の翡翠色の瞳をぎゅっと瞬かせながら、にやりと笑った。
「おれも緑の目なんだ! なんか親近感湧くなー」
アランは軽く眉をひそめ、口元にわずかな笑みを浮かべる。
「お前の目に宿る緑色はいささか眩しすぎるけどな」
ルキフェルはくすくすと笑い、手を胸にやる。
「そう? なら、おれのはまだまだ負けてないぜ」
アランは軽く目を細め、静かに頷いた。
「ほどほどに光を抑えろ。眩しすぎる緑は時に周囲を惑わす」
ルキフェルはまたもきょとんとした。アランは机の書類を整えながら、ゆっくりと顔を上げた。
「今日はここまでだ。次は、天気の良い夜にでも星の位置を教えてやる」
ルキフェルはわずかに頷き、興味深そうにアランを見上げる。
「星かあ。楽しみだな」
アランは静かに視線をルキフェルに向け直し、少しだけ鋭さを増した口調で言った。
「さて、俺はフランソワと話がある。お前は先に帰れ」
フランソワが肩をすくめてルキフェルに声をかける。
「船尾にリュウがいたはずだ。あいつの元で、太極拳でも教わってこい」
ルキフェルは小さく笑みを浮かべて頷いた。
「わかった、行ってみる」
そう言い残して、ルキフェルはアランの部屋を後にして通路を足早に進んでいく。フランソワが深呼吸をした途端、アランは突然フランソワの胸ぐらを掴み、強烈な力で引き寄せる。
「おい、よく聞け! あのガキの計算力はどういうことだ? あの包帯の下の素顔は一体どうなってる!」
フランソワは驚きと恐怖で目を見開き、必死に言葉を絞り出した。
「落ち着いてください、アランさん! 俺だってよく知らされてないんです! 船長からあのガキの教育係にされただけで、詳しいことは何も……!」
アランはなおも胸ぐらを握ったまま、鋭い眼光でフランソワを睨みつけた。
「なるほど……だが、黙って見過ごせることじゃない。俺が確かめるまでは、何も見逃せんぞ」
フランソワは必死に手を挙げ、必死に答える。
「わ、分かってます! 本当に何も知らないんです! 船長の意図も、あのガキの潜在能力も、俺には……!」
アランは一瞬フランソワを見据えたまま静かに息を吐き、やや力を緩めた。
「……次に何か見落とせば、ただじゃ済まん。覚えておけ」
フランソワは肩を震わせ、苦笑混じりに頷いた。
「はい……分かりました……!」
その瞬間、アランの鋭い視線はルキフェルが去っていった扉に向けられる。
「……奴のことは、俺がこの目で確かめる」
フランソワは胸ぐらを離されたあともまだ肩で息をしながら、やや不安げに口を開いた。
「アランさん……あの俺、計算できなくてよく分からないんですけど……やっぱり、難しいんですか……?」
アランは腕を組み、ゆっくりと語り始める。
「難しい……となれば、それは確かに難しい。だがな、難しいからこそ意味がある。計算は単なる数字遊び
じゃない。積載量、帆の角度、風速、潮流、星の位置……それらすべてを一度に理解し、瞬時に判断できる力を養うためのものだ」
アランは軽く肩をすくめ、続ける。
「俺が王国海軍の測量士だった頃も、似たような計算を毎日やっていた。航海において、ほんの少しの誤差でも船の運命を左右する。だからこそ、数字に慣れ、瞬時に読み取れる力は必須だ」
フランソワは眉をひそめ、ルキフェルのことを思い浮かべながら小さく呟く。
「なるほど……ルキフェルがここまでやるとは……」
アランは少し口角を上げ、鋭くも微笑む。
「フランソワ。お前が思うよりずっと、あのガキの力は恐ろしい。だが、恐ろしいからこそ、正しく導く必要がある。数字の裏にある現実を理解させねばならん」
フランソワは深く頷いた。アランはしばし腕を組み、眉間に軽く皺を寄せながら考え込んだ。やがて、フランソワに鋭く問いかける。
「あいつにルールのことは教えたか?」
フランソワは肩をすくめ、少し戸惑いながら答える。
「船の上での役割については教えました。甲板掃除や縄結び、航海作業の基礎です」
アランは一瞬うなずき、低くつぶやくように言った。
「そうか。それなら、あのガキには規律についても教えてやらなければならん」
続けて視線を鋭くフランソワに向ける。
「海賊の掟に関しては、俺が教育しよう。この船の“法と秩序”を担う者としてな。お前はあいつの身の回りの世話だけしていればいい」
フランソワは思わず肩をすくめるが、アランの眼光に逆らえず、素直に頷く。
「わかりました、アランさん。身の回りのことは任せてください」
アランは軽く手を振り、フランソワに指示を与えた。
「よし、それなら帰れ。用はここまでだ」
フランソワは深く礼をしてから、少し苦笑しつつも船の通路へと歩き去った。




