第五章① ルキフェルとレオン
船医室は船腹の奥に押し込められた、狭く暗い部屋だった。棚には乾燥した薬草が束ねて吊るされ、酒精の匂いが鼻を刺し、海のうねりに合わせて瓶がカタカタと震え、金属の器具がかすかな光を反射する。
その中に、ルキフェルは椅子に座らされていた。動くなと命じられたが、落ち着かぬ様子で視線を彷徨わせる。ふと正面の鏡に自分の顔が映り込み、思わず目を凝らした。
額の右から頬へと深々と斜めに走る裂傷。他にも浅く裂かれた線から血がじわじわと赤く滲ませ、顔全体を覆っている。
レオンはルキフェルの背後に立ち、灰青色の目で彼を観察しながら指先で器具を慎重に手に取り、滑らかに包帯を整えた。鏡の中の惨状を見つめながら、ルキフェルは小さく口を開く。
「……おれ、なんでこんな顔してんだろ」
ルキフェルの言葉に、傍らで器具を用意していたレオンが手を止めた。
「本当に……何も思い出せないのかい?」
レオンの思わず漏れた問いかけに、少年は迷いなく即答する。
「ない。真っ暗」
彼の素っ気なさに、レオンは胸の奥がきしんだ。あまりにも残酷な質問だったと、自分を叱るように唇を噛む。何を背負ってここに来たのかもわからぬまま、この子はただ己の傷を見て怯えているのだ。それでも医師としての手を止めるわけにはいかない。レオンは瓶を取り、酒精を布に染み込ませた。
「……動くなよ。これから消毒をする。しみるが、我慢してくれ」
レオンは布で傷口を拭い終えると机の上から清潔な包帯を取り出した。
「これを巻いて固定する」
椅子に座ったままのルキフェルがびくりと身をすくませる。
「やだ! しなくていい!」
ルキフェルは顔を背け、椅子の背に手をかけた。レオンが静かに制止の手を伸ばすと、少年は苛立ちを吐き出すように続ける。
「どうせ治らないだろ……! こんな顔、隠したって意味ないじゃん」
ルキフェルの声は荒く、どうしようもない自己否定が滲んでいた。更に彼は唇を噛み、ぽつりと吐き出す。
「……おれ、分かってんだよ。この顔が醜くて、皆が怖がるから隠すんだろ」
船医室に揺れる瓶の音が、やけに大きく響いた。ルキフェルの瞳は、包帯ではなく鏡に映る自分自身を睨みつけている。レオンは包帯を手にしたまま、しばし黙ってルキフェルを見つめた。その沈黙に少年はますます苛立ち、椅子から腰を浮かせようとする。
「もういいだろ! 放っとけよ!」
その瞬間、レオンの声が鋭く船医室に響いた。
「いいや、放ってはおけん!」
普段は穏やかな彼の顔に、珍しく険しい影が差していた。
「君はまだ若い。体は回復する力を持っている。だが、何もしなければ傷は膿み、感染する。船の上での生活を舐めるな!」
ルキフェルは驚いたように目を見開く。レオンは包帯を強く握りしめながら言葉を続けた。
「ここは陸の病院じゃない。清潔なベッドも、医師の数もない。あるのは最低限の薬草と酒精、そして俺の腕だけだ。それで君の命を守れるかどうかは、君がこの処置を受け入れるかにかかっている」
ルキフェルは俯き、拳を膝の上で握りしめた。悔しさと惨めさと、ほんの少しの恐怖がないまぜになった表情がまだ幼さを残す顔に浮かぶ。レオンはため息をつき、声を落とした。
「顔がどう見えるかなんて、今は問題じゃない。君が生きているかどうか、それがすべてだ」
ルキフェルは歯を食いしばり、しばらく沈黙したが、レオンの視線に押されるようにぽつりと口を開いた。
「……でも、痛いのはいやだ……」
今まで強がりと反抗の言葉で自分を守ろうとしていた少年の心の奥から、本音が零れ落ちた。レオンは少しだけ表情を和らげた。
「誰だって痛みは嫌だ。俺だってそうだ」
包帯を握る手をわずかに緩め、彼は静かに続けた。
「けどな、痛みは生きている証拠だ。君の体が、まだ戦おうとしている証でもある」
ルキフェルはハッと息を呑んだ。心の奥に差し込むその言葉が、反発の炎を少しだけ鎮めていく。しばらく黙っていたが、やがて肩を小さく落とし、うつむき加減に言った。
「……わかったよ。でも、ちょっとだけだからな」
子供じみた抵抗の余韻を残した声音だ。レオンは薄く笑みを浮かべ、包帯を広げながら答える。
「それで十分だ。最初の一歩を踏み出すことに意味がある」
彼は器具を整え、酒精を染み込ませた布を再度手に取った。
「少ししみるぞ」
「うっ……」
ルキフェルは思わず顔をしかめた。消毒の痛みに耐えきれず体を揺らすが、レオンの大きな手がしっかりと肩を押さえていた。
「動くな。これで君の体は守られる」
ルキフェルは歯を食いしばり、必死にこらえた。痛みは確かにあるが、同時に胸の奥に奇妙な安堵が広がっていた。消毒が終わり、包帯が丁寧に巻かれていく。頬や額を覆う白布は痛々しさを隠すと同時に、少年の表情にどこか影を落とした。ルキフェルは息を荒げながら、ぼそりと口を開く。
「剣も持たないのに……なんで船にいるの」
反抗というより、本気で不思議に思った声音だった。レオンは手を止めずに答える。
「戦う力は確かに必要だ。けど、一人でも医療の心得があれば、どんな最悪の状況でも結果は大きく変わるんだ。戦える者を一人救えば、その者がまた十人を救えるかもしれない。命の連鎖はそうして繋がる。俺はその鎖を絶やさないためにここにいるんだ」
ルキフェルは口をつぐみ、目を伏せた。やがて処置は終わり、レオンは手を離した。
「よし、これで当分は大丈夫だ。無茶をすればまた開くがな」
ルキフェルは力なく椅子にもたれかかり、深いため息をついた。
「……はあ、疲れた」
レオンはふっと微笑み、道具を片付けながら言う。
「疲れを覚えるのも、生きている証拠だ。忘れるなよ」
包帯をいじりながら、ルキフェルはわざとらしく肩をすくめた。
「……おれ、こんな目に遭うくらいなら怪我なんてしたくないなー。だからさ、強くならなきゃな。怪我しなけりゃ、お前に世話になることもないだろ?」
レオンは手を止めてルキフェルの顔を見た。
「強くなるのは悪いことじゃない。けど、強さっていうのは怪我を避けるためだけのものじゃない」
「……じゃあ何のために?」
ルキフェルは小さく唇を尖らせる。レオンはしばし目を伏せた後、口を開いた。
「自分を守るためでもあり、仲間を守るためでもある。……そうだな。俺の場合、愛する人を守りたいと思うことはある。戦う強さもあれば、耐える強さ、誰かの痛みに寄り添う強さもある。全部ひっくるめて“強さ”なんだ」
ルキフェルはきょとんとした顔をし、やがてぼそっと呟く。
「……なんか、それってちょっとズルいな。強さがいくつもあるなんて聞いてない」
レオンは肩を揺らし、くすりと笑った。
「世の中、ズルいことだらけだ。けど知ってしまえば、それを自分のものにできる。君も少しずつ学んでいけばいい」
ルキフェルは小さく息を呑み、胸の奥で何かが少し柔らかくなるのを感じた。レオンは再び処置台の包帯や薬品に手を伸ばし、今度はルキフェルの腕に目を向ける。打撲痕や浅い傷が、まだ赤く腫れているのを確認すると、静かに処置を始めた。
「では、腕の方も整えていこう。痛むかもしれないが、無駄にはならない」
ルキフェルは息を整えながらレオンの手元を見つめ、腕を差し出した。レオンは薬を手に取り、優しくルキフェルの腕に触れる。軽く押さえられるだけでも、まだ赤い打撲痕は微かに痛む。ルキフェルは思わず眉をひそめ、小さく息を吐いた。
「……やっぱ、痛い」
レオンは静かに頷き、手を止めずに言う。
「力を蓄えるための、ひとつの経験だと思え」
ルキフェルは腕を押さえながら、目を細めて反抗的に言った。
「さっきの、愛する人ってなに? 守るって、よくわかんない」
レオンは一瞬手を止め、視線を遠くにやる。思い出すのは、海の向こうに残してきた幼馴染の顔、エル・イエロ島で共に過ごした日々。小さな頃からずっと傍にいた、笑顔を絶やさぬ幼馴染。彼女のために、何かをしてあげたいと思ったあの感情。
「大切に思う相手のことだ。俺にとっては、幼馴染の少女がそうだった。生きていてほしい、笑っていてほしい。そう思う相手を守ることが愛だ」
ルキフェルはその言葉に、ぎこちなくも真剣な表情で聞き入る。痛みで眉を寄せながらも、次第に力を抜き、腕を預ける。
「……そういう気持ちか……」
ルキフェルは、まだ少し赤く腫れた腕を撫でながら、ぽつりと呟いた。
「でもさ……おれ、なにを守りたいのか自分でも分かんないんだ。なんとなく、守りたいってだけで」
レオンは包帯を巻きながらルキフェルの顔を見た。少年の翡翠色の瞳には、まだ答えを探す迷いが宿っている。
「なるほどな」
ルキフェルは少し顔を上げ、ねだるように視線を向けた。
「レオンの話聞けばなんか分かるかなぁ。幼馴染のこと、もっと教えてよ」
レオンはその無邪気な眼差しに少し苦笑しながらも頷いた。
「幼馴染の話か……いいだろう。けど、しっかり座って聞くんだぞ。海の揺れで椅子から落ちるな」
ルキフェルはくすりと笑い、身を乗り出した。
「わかった。ちゃんと聞くからさ、教えてよ」
レオンは腕に残った打撲痕を処置しながら、静かに語り始める。
「故郷に残してきた幼馴染のことは、俺にとって特別な存在だ。愛してるって言ってもいい」
その瞬間、レオンは照れくさそうに頬をわずかに赤らめ、はにかんだ。ルキフェルは目を丸くし、包帯に手を添えて口を開いた。
「じゃあさ、彼女さんはレオンのこと、どう思ってるの?」
レオンは少し眉をひそめ、内心で思う。
——いや、その言い方だと色々語弊がある。
やや苦笑しつつ、静かに答えた。
「どうだろうか。聞くのは勇気がいるからな」
ルキフェルはにやりと笑みを浮かべた。
「じゃあさ、最後に話した時の話してよ」
レオンはしばし目を伏せ、海の揺れに合わせて呼吸を整えてから語り出す。
「船に乗ると告げた時、泣きつかれた。俺が島のみんなや彼女の生活のために海に出るんだ、と言えば理解してくれたが」
レオンの声には言葉以上に重みのある情感が滲んでいた。レオンの語りを聞き、ルキフェルは口に出さずにはいられないとばかりに喋る。
「好きなのに離れちゃうの? それに彼女さん、理解してないと思う」
ルキフェルの言葉に、レオンの手が一瞬止まって動きが硬直した。ルキフェルは一歩身を乗り出し、容赦なく続ける。
「彼女さん、泣いたんでしょ? 本当は船に乗ってほしくなかったんじゃないの?」
レオンは一瞬言葉を失い、眉をひそめる。ルキフェルはさらに追い打ちをかけるように言った。
「レオンはここにいて、彼女さんのために頑張ってるかもしんないけど……でも、彼女さんはレオンの側にいたいんじゃないかな」
ルキフェルの言葉が、レオンの心の奥の微かな揺れを刺激する。彼の鋭い直感が、幼馴染の本心を指し示すかのように響いた。ルキフェルは小さく肩をすくめて言った。
「おれ、よく分かんないけどさ……なんとなく、レオンはこんな船にいないで、彼女さんの元に帰った方がいいと思う。なんとなく、その方がいいと思う」
レオンはしばし黙り、遠くを見つめるように目を細めた。やがて、低く静かな声で答えた。
「……分かった。少し考える」
レオンの言葉を受け、ルキフェルはわずかに微笑んだ。レオンは静かに処置を終え、最後に包帯を整えながら少年を見下ろす。
「生意気なところもあるが……お前なら、きっと大事な人を守れる男になる」
ルキフェルは顔をしかめ、腕を軽く振りながら反抗気味に言った。
「はぁ? 大事な人って、好きな人のことだろ? おれ、好きな人とか必要ないから。強くなりてぇ」
レオンは微笑みを崩さず、静かに言葉を返す。
「大事な人はなにも、好きな人だけじゃない。家族でも、仲間でも、時に守るべき命は様々だ」
ルキフェルが首を傾げると、レオンは柔らかく続けた。
「それに、好きな人ってのは案外、不意に訪れるものだ。意識しなくても、心が自然に気づく瞬間がある」
ルキフェルはまだ半信半疑の表情で、じっとレオンの目を見つめる。それから窓の外に目を向け、揺れる海をぼんやりと見つめた。
——誰かに好かれるだって?こんな顔で?
鏡に映る自分の顔を思い出すたび、胸の奥がざわついた。
「おれ……こんな顔で、誰かに好かれるわけないじゃん」
悍ましいほどの自己嫌悪、自己否定、孤独感。まるで、夜の霧の森でひとり彷徨うような気分だ。誰も自分を必要としない、誰も自分を求めない。そんな恐怖が、傷痕の痛みと重なって押し寄せてくる。だけど、不意にレオンの「意識しなくても、心が自然に気づく瞬間がある」という言葉に、ルキフェルの胸の奥で微かな感覚がざわついた。誰かを守るために強くなる、自分を認めてくれる存在、信頼する相手のために動ける可能性。だが同時に、そんな想像さえまだ自分には遠い話のようで、怖くて震える。
——おれが誰かのために?
ルキフェルはしばらく拳を握ったままじっと海を見つめていたが、やがて小さく息を吐き、肩の力を抜いた。レオンは腕を整えながら微笑む。
「処置はもう終わった。よく耐えたな」




