第四章⑤ 船医室にて
フランソワが船医室の前にたどり着くと、扉の向こうからすでに騒ぎ声が漏れていた。
かすかに聞こえる子供の叫び声、椅子が倒れる音、何かを叩くような衝撃音。外にいてもその混乱具合がわかる。フランソワは肩をすくめ、少し眉をひそめながら扉を押した。
船医レオン・マルヴォワが必死に一人の子供を押さえつけ、両腕でがっしり抱きしめている。もう一人の黒髪の少年が部屋の隅に身を寄せ、目を見開いて震えていた。フランソワは目を細め、押さえ込まれている子供を見ながらレオンに声をかける。
「えーっと……そいつが、例のガキ?」
レオンは疲れた声でうなずく。
「そうだ、早くなんとかしてくれ……」
フランソワはため息をつき、頭をかく。
「なんとかしろって言われてもなあ」
その瞬間、押さえられた子供が小さく何かを口走った。言葉にならない声、あるいは意味不明の戯言のようにも聞こえる。フランソワは耳を澄ますと、どうやら二種類の言語が入り混じっていることに気がついた。カスティーリャ語らしき響きと、もう一方はどこかフランス語めいた音……だが、どちらも断片的で完全には理解できない。
「……こりゃ、ただ事じゃねえな」
フランソワは深く息を吸い込み、乱れた船医室の中へ一歩踏み出した。
「ちょっと、そいつの顔を見せろ」
フランソワは軽い気持ちで、レオンに抱えられた子供に腕を伸ばした。顔を見れば、何者かくらいすぐにわかるだろう。レオンが慌てて制しようとするのも構わず、フランソワは無理やり子供の顔をこちらにぐいっと向かせた。そして、視界に入ったその顔を見た瞬間、思わず息を呑んだ。
「……え?」
言葉が出るより早く、子供の拳がフランソワの顔面に飛び込む。痛みが瞬時に脳天まで走り、フランソワは床に倒れ込み、のたうち回った。子供はその間、レオンの腕の中から飛び出し、フランソワから一定の距離を取って警戒の目を光らせて身構えていた。痛みに顔をしかめながら、フランソワは震える声で呟く。
「お、お前、その……顔……」
フランソワは意を決して、再び子供の顔をじっくりと見つめる。額の左から頬の奥深くへ斜めに走る裂傷。皮膚は歪に盛り上がり、血が赤く滲む。鞭で打たれた跡、刃物で浅く切られた線が網目のように重なり、無数の傷が顔全体を覆っていた。それでも翡翠の瞳は強烈に輝き、フランソワの視線を釘付けにした。怪我だらけの顔が醸し出す恐怖と、瞳の奥に宿る生々しい意思。その両方が、彼を無言のまま惹きつけた。フランソワは床に転がったまま痛む頬をさすった。
「なんだこいつ……」
野良犬みたいだ。自由奔放で警戒心が強く、こちらに牙を剥くその様子は、まさに捕らえどころのない野良犬そのものだった。
「どう接しろって言うんだよ」
フランソワは思わずため息を吐き、まず子供との距離を測る。近づけばまた殴られるかもしれない。逃げればさらに警戒を強めるだろう。目の前の小さな体に、どれだけの経験と恐怖が刻まれているのか、想像するだけで肩の力が抜けた。それでも雑用係として、そして少なくとも今は船の仲間として、この状況を無視するわけにはいかない。フランソワはゆっくりと膝をつき、子供の目線に合わせるように体を低くした。
「おい……大丈夫か、痛かったな……」
フランソワは無理に触れようとはせず、ただ子供の反応を見守る。子供は目を細め、少しずつ警戒の硬さを緩めていく。フランソワはそれを確認し、さらに柔らかい声を続ける。
「怖いか……そうだな、誰だってそうだ。俺もそうだった」
小さな野良犬のようなその子の瞳を、フランソワはそっと見つめながら、どう接すればいいのか手探りで考えた。フランソワは少年に落ち着いた声で問いかけた。
「……俺の言葉、わかるか?」
傷だらけの少年は一瞬目を見開いたものの、静かに頷いた。その頷きにフランソワは小さく息を吐き、次の手を考える。
「……じゃ、こっちもわかるか?」
今度はカスティーリャ語で、ゆっくりとした調子で問いかける。少年の瞳が一瞬大きく見開かれた。目の奥に驚きと、少しの警戒が混じる。しかし、しばらくしてから頷いた。フランソワは肩の力を少し抜き、唇の端にわずかな笑みを浮かべた。言葉が通じる。それだけで、距離を縮めるための小さな光が見えた気がした。
「よし、なら話せるな」
まだ警戒は解けていない。だが、少年は理解している。フランソワは徐々に少年と距離を詰めていった。その瞬間、少年の翡翠の瞳が鋭く光った。フランソワの腰に差していた小さなナイフが、少年の手元に滑り込む。
「隙あり!」
その声とほぼ同時に、少年は小柄な身体から想像もつかないほどの速さで斬りかかろうとした。フランソワは驚愕したが反射的に体をかわし、ギリギリの距離で刃を避ける。
「なにやってんだガキ、危ないだろ!」
フランソワが叫ぶと少年は冷ややかに、流暢な口調でカスティーリャ語を口にした。
「油断したそっちが悪いんだよ」
フランソワは一瞬息を呑む。およそ子供らしくない、落ち着きと論理性のある言葉遣いに思わず言葉を失った。少年の目はまだ光り、身構えたまま次の一手を虎視眈々と狙っている。フランソワは呟いた。
「……なんだこいつ。野良犬ってか、悪魔だな」
フランソワはナイフの軌道をよけながら少年の動きをじっと見つめる。目の前の小さな身体から繰り出される素早く、鋭い動きに緊張を強いられるが、彼の口調は落ち着いていた。
「落ち着けよ、まず名前を言え」
フランソワが穏やかに声をかけると少年は怒りを滲ませながら顔を歪め、声を荒げる。
「分かんない!」
フランソワは眉を寄せ、ナイフをかわしつつさらに問いかける。
「どこから来た?」
少年は刃を振りかざし、跳ねるような動きのまま叫ぶ。
「分かんない!」
「分かんないこたぁないだろ、あまり大人を困らせるな」
フランソワはナイフの動きに合わせてステップを踏み、なんとか接近を避けながら少年を冷静に見据えた。しかし少年の返答は相変わらず「分かんない!」の一択で、ナイフを振り回すたびに船医室の床にランプの灯りが反射する。
「そんなすげえ動きできて、なにも分かんないとかあるか?!」
フランソワは思わず声を張って突っ込んだ。その瞬間、少年の瞳に涙が滲み、ナイフを振り回しながら歯を食いしばる。
「……分かんないんだよ!」
少年の声が裏返り、怒鳴るというより吐き出すようになる。
「何も……何も残ってない! 思い出そうとすると、頭の奥が真っ暗で……冷たくて……!」
刃先が揺れ、動きがわずかに乱れる。
「なのに……なのにさ……!」
少年は突然、自分の顔を両腕で覆った。
「色々聞かれるのが嫌だ! 見られるのも嫌だ!」
掴みかけた記憶ではなく、もっと根深いものが噴き出す。
「こんな顔で……目も、他のやつと違って……変な色で……!」
少年の声が震え、喉が詰まる。
「見るなよ……そんな目で見るな……!」
ナイフを振る腕が大きくぶれ、息が乱れ始める。
「知らないのに……分かんないのに……なんで、みんな見るんだよ……!」
胸を押さえ、少年の呼吸が急に浅くなる。
「やめろ……やめろ……!」
吸おうとしても息が入らない。吐こうとしても抜けない。
「あ、あ……っ」
少年の視線が宙を彷徨い、足元がふらつく。
「見るな……聞くな……ほっといてくれ……!」
その瞬間、ナイフが床に落ちた。ガラン、と乾いた音が響く。少年は膝をつき、肩を激しく上下させ始めた。フランソワは即座に異変を察する
「……くそ、違う、これは……!」
ここでフランソワの理解が一段深くなる。
——こいつ、記憶がないから暴れてるんじゃない。“見られる”ことそのものが、引き金になってる。
「こ、これは過呼吸か!? 落ち着け、落ち着け!」
だが少年の呼吸はますます荒くなり、胸が波打つように上下し、声も出せなくなっている。フランソワは距離を保ちながら慎重に声をかける。
「大丈夫だ、俺はここにいる。怖くない。だから、ゆっくり息をしろ……!」
それでも少年の呼吸は止まらず、手足をばたつかせ、体全体が小刻みに震える。レオンも手を伸ばそうとするが、フランソワが制止する。少年の呼吸が荒く上下するたび、フランソワの心臓も跳ねる。息を荒げる少年の姿はまるで、恐怖そのものが形を取ったかのようだった。
フランソワがどう手を尽くしても荒ぶる少年を落ち着かせられず、焦燥が胸を締め付けた時、船医室の扉が静かに開き、気配もなく一人の影が滑り込んだ。
「……リュウ?」
フランソワが振り返ると、いつもの凪のような表情で少年の傍にかがむリュウがいた。深緋のローブの裾が静かに揺れる。彼の視線は冷たさではなく、静かな慈しみを宿して少年の全身に注がれていた。
リュウは言葉を発さず、手をそっと少年の肩の高さまで差し伸べる。呼吸のリズム、体の緊張、血の流れ、彼の目は全てを一瞬で読み取り、掌に伝わる気の流れで少年の心を優しく包み込む。
「……ふぅ……」
荒れていた呼吸がようやく静まる。少年は床に膝をついたまま、額に滲んだ汗を袖で拭った。誰も何も言わない。その沈黙の中で、フランソワが静かに口を開いた。
「……あの、あんた……今のどうやって……?」
リュウはフランソワにゆるりと視線を向け、穏やかに微笑んだ。
「気を読む。それだけだ。ただ、怖がる者に寄り添うだけでいい」
フランソワは思わず目を丸くする。
「寄り添うだけ……? こんなに劇的に落ち着くなんて……」
その瞬間、フランソワは確信した。この孤高の用心棒は、戦場でも混乱の中でも、人の心を自在に操る、異質で凄まじい力を持っている。そして今、自分の目の前でその力を、迷える子供のために惜しみなく振るったのだと。
「船長に報告してくる。君たち、なんとかしておいてくれ」
レオンは微かに苦笑し、ため息をつくと船医室を後にした。レオンは廊下に出ると静かな足音を立てながら階段を上り、船長のもとへ急いでいく。リュウはゆっくりと立ち上がった。少年はその存在感に一瞬息を呑み、後ずさりするように体を引く。
「先ほどの動き、しばし拝見した」
リュウの声は空気を切るように少年の胸奥まで染み渡る。
「剣の腕に覚えがあるようだな」
少年の眉が一瞬跳ね上がり、緊張と戸惑いが入り混じった表情を浮かべる。小さく肩をすくめ、視線を逸らしながら答えた。
「……よく分かんない。身体が勝手に動くんだ」
少年の言葉は生意気さの中に、どこか素直な驚きと困惑が混ざっていた。リュウはそのまま少し微笑むように視線を落とし、少年の姿勢や呼吸を確かめる。
「なるほど……体が自然に動くか。だが、その動きは確かに腕前の証だ」
少年は少しだけ体の力を抜き、目を細めながらリュウを見上げた。リュウは少年の動きを静かに見つめたまま、ゆっくりと膝を曲げ、目線を少年の高さに合わせる。少年はわずかに身を引くが、リュウの穏やかな視線に少しずつ警戒を解きかけていた。
「ただ、無理をするな。君の心の中に計り知れん恐怖と葛藤が見える。それが呼吸の乱れにも繋がっている」
少年は少し目を見開き、呼吸を整えるように肩を小さく揺らす。リュウは言葉を続ける。
「その傷や怪我を癒すためにも、動きは控えた方がいい」
少年はどこか安心したように微かに息を整える。フランソワは傍らで、その静けさとリュウの落ち着きに思わず感嘆した。少年の心の奥底で、少しずつ壁が緩む瞬間だった。荒ぶる気持ちの片隅に、「信じてもいいかもしれない」という小さな芽が生まれかけている。
傷だらけの少年は、船医室の片隅でうずくまる黒髪の少年を鋭い目で見据えた。
「怖がってないで、こっちこいよ」
黒髪の少年は動けず、目の前の少年の不気味な自信に押されて震えていた。傷だらけの少年はその反応を見て、さらに冷ややかに笑う。
「変な奴。じゃあ相手してやんないから」
フランソワは思わず背筋にぞくりとした。リュウも珍しく眉を顰め、少年の危うい精神の奥底に警戒を強めた。黒髪の少年は心の中で凍りついたまま、体は硬直して動けない。だが、その凍りつきの奥で、何かが音を立てて崩れたように微かに涙が滲む。恐怖と戸惑いの中で、彼の心は静かに震えていた。
黒髪の少年、アントワーヌは絶望した。傷だらけであってもラウルに違いなかった。だが、今はどうだろう。友であったラウルの面影はない。顔に無数の傷を残して消え去った。あの無邪気な笑顔も、自分との絆と思い出も、砂で建てた城のように崩れ、風が砂を運んで襲いかかってくるようにアントワーヌの心に傷を刻んできた。目の前にいる彼は、もはやラウルではない。彼の皮を被った、全く別の人間だ。同じはずなのに違う。
その時、扉がきぃと開いてレオンが慌ただしく戻ってきた。
「フランソワ。船長がお呼びだ。……その子どもと一緒に部屋に来いとさ」
レオンに言われた瞬間、フランソワは気だるげに眉をひそめ、視線をちらと傷だらけの少年へ送った。
「はぁ。よりによって今かよ」
お決まりのように深いため息を吐き、肩を竦める。フランソワは少年の手を引いてレオンの横をすり抜けようとした時、レオンはフランソワの耳元で囁いた。
「その子は記憶喪失かもしれない」
フランソワは足を止めて、横目でレオンを見た。
「記憶喪失?」
「可能性の話だ。まだ断定はできない」
フランソワは少年を見下ろした。少年は首を傾げてばかり。フランソワはそのまま少年を連れて船医室を後にした。
リュウは目を伏せていたが、直感が警鐘を鳴らしていた。あの少年を、このまま船長の前へ連れていくのは危うい。静観するはずだった思考が知らぬ間に覆されていく。




