第四章④ 雑用係と用心棒
フランソワはバケツを片手に、ブラシをもう一方で握りしめ、ハンモックが揺れる狭い通路を抜ける。木製の床板は潮風で湿り、踏みしめるたびにきしむ音が甲板全体に微かに響いた。壁際に沿って進むと、天井から吊るされたロープや帆布の隙間に、昼間の残り香や塩の匂いと混じって、あの血生臭さがさらに濃く漂ってくる。
フランソワは肩をすくめ、顔を顰めながらも。歩を進める。通路の角を曲がり、階段の段差に注意しながら上っていく。暗がりの中、床板の濡れた部分や小さな水たまりを踏まぬように神経を研ぎ澄ました。ほんの少しでも音を立てれば、夜の帳に潜む何かに気付かれるかもしれない。そんな思いが背筋をひんやりさせる。
階段を上りきると甲板に出られる。塩と血の混じった匂いがさらに強く鼻を刺し、心臓が小さく跳ねたがバケツを抱え、ブラシを握り締めながら甲板へ一歩踏み出した瞬間、彼の足は思わず止まった。
「……なにこれ?」
甲板一帯に広がる赤黒い染みを前に、フランソワは呆然と立ち尽くした。板の隙間に染み込み、ロープを伝い、跳ね上がった跡が月光を受けてぎらついている。鉄の臭いが鼻を灼き、胃がひっくり返りそうだった。だが、次に口から漏れたのは舌打ちだった。
「今からこれ全部掃除すんの? 俺ひとりじゃ無理なんすけど……」
目の前の惨状よりも、面倒くささの方にまず舌打ちが出る。その“ずれ”は幼さでもあったが、同時に恐怖に押し潰されない強さの証でもあった。恐怖や緊張は確かに存在する。しかし彼の目はどこか楽しげに、むしろ仕事への文句としてこの惨状を俯瞰しているかのようだった。
フランソワは甲板の血塗れの広がりを見下ろした。赤黒い液体はまるで生き物のように板の隙間に絡みつき、ところどころに飛び散った血しぶきは月光に鈍く光っている。
「やべぇ、これまじ?」
呟きながら血の中に踏み入れるたび、ブラシを握る手が緊張で震える。板の上でこぼれる水も跳ねる赤黒い液体も、すべてが甲板の上で生々しい模様を描く。だが、フランソワの目はどこか仕事をやらねばという義務感に焦点を合わせている。
「どこまで広がってんだよ……」
赤黒い液体に踏み込むたび、フランソワの舌打ちは止まらない。
「ちくしょう、面倒くせぇよ……」
彼はため息をつき、バケツの水をすくい上げる。血と海水の混ざった液体は、重く濃密で、まるで夜の闇そのものをすくい上げているかのようだった。だがその不気味さを前にしても、フランソワの頭の中は 面倒くせぇなという感情に変換されていた。バケツの水にブラシを浸す。彼は深呼吸を一つして、重い足取りでブラシを甲板に押し付けた。
「うわ……」
刷毛が板に触れた瞬間、粘度のある血が音もなく抵抗し、軋むような感触を指先に伝える。水と血が混ざった液体はブラシの隙間に絡みつき、こすればこするほど赤黒い模様が甲板全体に広がる。フランソワの心臓は跳ね上がった。しかし、恐怖に圧倒される暇もなく、彼は無言でブラシを動かし続けた。手元の血液が跳ね、板の隙間に入り込み、静かな夜の甲板に赤い痕跡を残す。足元で液体が波打つ音だけが妙に響く。
「こんなに汚したの誰だよ、絶対遊んでんじゃん」
血塗れの甲板でブラシを動かすフランソワ。冷たく、重苦しい惨状の中で、彼のズレた感性だけが軽やかに響く。
「……随分と熱心だな」
フランソワの背後から落ち着いた声が響いた。低すぎも高すぎもしないその声は、まるで深い井戸に澄んだ水を落とした時のように、じわりと胸の奥に染み入ってくる。不意を突かれたフランソワはぞくりと背筋を震わせ、振り返った。
そこには、いつの間にか船縁に腰掛けている男の姿があった。
深緋のローブを風に遊ばせながら、長い袂を揺らして座る姿は、荒くれ者ばかりの船上には不釣り合いなほどに静謐だった。黒地の袴が膝下で締められ、足首まで覆う布が夜闇に溶ける。編み上げの黒い靴が甲板を支えているのに、その存在感は水面に浮かぶ影のように軽やかで、気配はほとんど感じられない。肩まで伸ばした黒髪にはわずかに茶が混じり、後ろでひとつに束ねられている。
粗野な船員たちとは異なり、無精髭ひとつなく、若々しい面差し。だが、その双眸の奥に宿る光は積み重ねた歳月の深みを隠そうともしなかった。
彼の名はリュウ・ヨシマサ。中華に生まれ育ちながら、その血には東の島国の武士の系譜が流れている。西でも東でもない混淆の出自は、彼の在り方そのものに現れていた。流麗でありながら揺るぎなく、異質でありながら自然にそこに溶け込む。甲板に吹き抜ける風の中、ただ一人、凪のような静けさを纏って。
「リュウ、ちょうどいいところに……なあ、少しは手伝ってくれよ」
「私は剣を振るうために雇われている。雑用を請け負うのは、お前の役目だろう。仕事を奪うわけにはいかん」
リュウの声は穏やかだが、その奥には硬質なものが宿っている。フランソワは舌打ち交じりに大げさな溜息をついた。
「……ほんと、あんたって真面目だよな。血の海でブラシ握ってんの俺一人だってのに」
リュウはわずかに片眉を動かした。
「真面目かどうかは知らん。ただ、剣でしか応えられぬのが今の私の立場だ」
「いやいや、そういうとこだって」
フランソワは肩をすくめ、ブラシを甲板に擦りつけた。赤黒い筋が水に溶けて広がっていく。
「普通なら『お前が大変そうだから手伝ってやるか』ってなるとこだろ。何でもかんでも立場で割り切るなよ」
リュウはしばし黙り、風に吹かれるように細い息を吐いた。
「立場を忘れて刃を置いた者は次に刃を握るとき、その重みを忘れている。……だから私は、刃を離さぬようにしているだけだ」
リュウの言葉に、フランソワは目を瞬いた。
「……なんか難しいこと言い出したな」
だが、口元には小さな笑みが浮かんでいた。フランソワはブラシをぎゅっと握り直し、血の筋をこすり落としながら口を開いた。
「甲板をこんなに汚すなんて、いったい何があったんだ?」
リュウは少し首を傾け、夜風を受けて髪を揺らす。
「私も詳しいことは知らん。眠っていたからな」
フランソワは思わず鼻で笑った。
「だろうな。あんた、いつも寝るの早いもん。夕方過ぎたらもう布団の虫だろ」
「眠るべき時に眠る。それだけのことだ」
リュウは感情を交えずに答え、視線を遠くの闇に向ける。
「……ただ、あまりに騒がしかったので、表に出てみた。そこはすでに血の海で、甲板では死体の始末に追われていた」
ブラシの動きが一瞬止まり、フランソワは息を呑んだ。
「……俺が寝てる間に、そんなことが?」
「どうやらそうだ」
リュウは淡々と告げる。フランソワはしばらく沈黙した後、眉を寄せてぽつりと呟いた。
「仲間割れ?」
「どうも違うらしい」
リュウの声は変わらず穏やかだが、語られる内容は重い。
「外部の人間が入り込んでいたようだ。先に剣を抜いたのは、ゼフィランサス船長だと聞いた」
フランソワは思わずブラシを握りしめた。
「船長が……?」
「それに感化された連中が、血の気に任せて次々と外部の者を斬り捨てたらしい」
リュウは月明かりを背に、影を落としたまま平然と告げた。
「だから、この有様だ」
血の臭いと夜風の中、フランソワは背筋に冷たいものを感じた。しばし口を閉ざし、やがて乾いた笑いを漏らす。
「おいおい……勝手に暴れた奴らの後始末をさせられる身にもなれよ。ったく」
わざと軽く吐き出した愚痴に、自分でも震えが混じっているのを悟る。
「こっちはブラシ片手に甲板磨きだってのに、なんで血まで拭かなきゃならんのさ」
フランソワは鼻で笑い、再びブラシを押しつける。
「あーあ、俺も前線で剣振り回してえなあ。せっかくゼフィランサスが島で稽古つけてくれて、やっと船に乗せてもらえたってのに……腕前を披露する舞台もないなんてさ」
ザッザッと手際よく血を拭き落としながら、ぶつぶつと愚痴をこぼす。
「剣のサビ落としは得意になったけどよ、こんな甲板掃除で鍛えてどうすんだか」
リュウは月を仰ぎ、腕を組んだまま静かに答える。
「今は辛抱の時だ。そもそも、ゼフィランサスの直轄船に乗れるだけでも光栄だろう」
フランソワはブラシを動かしつつ肩をすくめた。
「はいはい、わかってますよ、ご立派な用心棒殿」
互いの言葉はどこか噛み合わないようでいて、不思議と心地よく収まる。
リュウ・ヨシマサとフランソワ。立場で言えば「用心棒」と「雑用係」にすぎない。だが、リュウが口にする難解な話題に臆せずついてこられるのは、陽気で抜け目ないこの若者くらいだった。
孤高を貫き、他の海賊たちとは一定の距離を置くリュウにとって、フランソワは「仲間」ではなく「友」と呼べる数少ない存在である。だからこそ、こうして軽口を交わせる時間は、彼にとっても小さな安らぎに近いものだった。
血まみれの甲板も、ブラシを動かすうちに半分ほどは元の板の色を取り戻していた。空が次第に白みを帯び、夜の闇に沈んでいた船上が少しずつ見えるようになる。冷たい夜風に混じって潮の香りが強く立ち、血の匂いと混ざり合いながらも、徐々に夜明けの爽やかさが勝ってきた。
「お、ありがてえ……」
フランソワは思わず口元を緩め、小さく呟く。視界が広がる有り難さに、思わず胸の奥が軽くなる。だが同時に、明るくなった視界は時間の流れも告げていた。濡れた板の上に映る自分の影を見て、フランソワは少し焦りを覚える。
「……やべ、もうこんな時間」
嬉しさと焦りが頭の中でせめぎ合い、フランソワはブラシを握り直した。重苦しい夜の空気は少しずつ薄れ、船上には朝の光と匂いが満ちていく。フランソワの手元の血も薄い水で流れ、赤黒い色が徐々に薄れていった。突然、彼の背後から足音が近づく。
「おい、掃除はその辺でやめだ。お前にしか頼めないことがある」
フランソワはブラシを放り出し、振り向きながら目を細めた。
「お、なんだ?」
先輩船乗りは眉間に皺を寄せつつ、静かに告げる。
「今、ガキが二人いるんだが……そのうちの一人が暴れ回ってて、手がつけられん」
フランソワとリュウは同時に声を上げた。
「子ども?」
リュウは首をかしげ、微かに眉を上げる。
「はて、いつの間に子供が……」
先輩は肩をすくめ、荒っぽい笑みを浮かべる。
「見張りの奴が言うには、船長が拾ったらしい。一人は怪我してて、さっきまで寝てた。んで、起きて暫くは大人しくしたとも思いきや突然、暴走した」
フランソワは唇を尖らせ、舌打ちをひとつ。
「んで? 俺にその子の相手をしろと?」
先輩は不敵に笑い、淡々とした口調で告げる。
「ただのガキじゃない。言葉もめちゃくちゃで、何を言ってるか分からん。お前、頭良いだろ? ほら、お前にしかできん仕事だ」
フランソワはため息混じりに肩をすくめ、舌打ちをもう一度。
「また面倒ごとかよ……」
彼は血の匂いと潮風が混ざる甲板を後にして、階段に足をかけた。
夜明け前の薄明かりが差し込む中、船医室へ向かうため、重い足取りで階段を降りていく。




