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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】1・2巻「誕生編」  作者: セキユズル
第四章「明けの明星……夜明け前の暗闇に先んじて現れ、闇を照らす」
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第四章⑥ ゼフィランサスと少年

 フランソワは面倒くさそうに片手で頭をかきながらも、もう一方の手で傷だらけの少年を引き連れ、重い扉を押し開ける。船長室に一歩足を踏み入れた瞬間、潮風と古びた木の匂いが鼻を掠めた。外の景色はすでに動いている。船は陸を離れ、波を切り裂いていた。

 窓辺に立つ背の高い影、ゼフィランサスは白亜の断崖が遠ざかるのを見送っていた。ノルマンディーの白い壁が、陽を受けて冷たく光っている。


「……無事であったか」


 フランソワは気怠げに肩を竦め、少年の腕を引いたまま答えた。


「まあな。やんちゃはしてたが……元気な証拠だろ」


 フランソワの言葉に隣の傷の少年はぴくりと眉を動かし、ムッと唇を噛みしめた。だが同時に、視線は自然と窓辺の背中へと吸い寄せられていく。得体の知れない、重さ。その人影から漂う気配に、少年の胸中で言葉にならぬざわめきが広がった。フランソワは少年を前に押しやりながら気怠げに口を開いた。


「そういやさ、このガキ……名前もどこから来たかも分かんねえらしい。レオンが言うには——記憶喪失、だとか」


 その一言に、ゼフィランサスが弾けるように振り向いた。黄金の双眸が、まっすぐ少年を射抜く。一瞬、空気が張り詰めた。フランソワでさえ息を呑むのを忘れたが、傷だらけの少年はただその目を見返していた。変わった色の目だな。そう思いながら、眉をひそめるでもなく、見据える。それに思っていたより若い。背中から感じた重苦しさの割に怖さもない。ゼフィランサスの視線が少年に釘を打つように突き刺さる。


「……お前、嘘だろ」


 低く掠れた声には、押し殺した焦燥が滲んでいた。


「本当に……オレのこと、覚えてないのか?」


 傷だらけの少年はゼフィランサスの気迫に思わず身を固くしたが、嘘をつけるような余裕もない。


「うん。お前のこと、知らない」


 少年は言い切ってから、じっと見返した。


「お兄さん、変わった目してんな」


 少年の無邪気な一言に、ゼフィランサスの黄金の瞳が大きく揺れた。言葉が出てこない。喉の奥で何かが詰まったように、声にならない息だけが漏れる。彼は動揺を隠しきれず、ただ少年を凝視した。その眼差しの奥に悲しみ、喪失、そして抑えきれぬ喜びが一瞬だけ交錯する。

 フランソワは船長の異変に気づかず、気まずそうに頭を掻いていた。だが、彼の背後で控えていたリュウは違った。じっとゼフィランサスを観察し、その揺らぎを見逃さない。

 ……何かを隠しているな。この御方は。

 冷ややかに瞼を伏せながらも、リュウの内心には確かな確信が芽生えていた。

 ゼフィランサスはわずかに息を震わせ、喉の奥からかすれた声を絞り出す。


「……そうか。名前が、分からないのか」


自分に言い聞かせるように呟いたあと、彼はふっと首を横に振った。


「いや……正確には“名前が無い”のだろう。名前が無ければ、君も不便だろうな」


 金の瞳に翳りを宿しながら、努めて平静を装った言葉。だが傷だらけの少年はきょとんと目を瞬き、次の瞬間には眉をひそめた。


「はぁ? なに言ってんだよ、お兄さん」


 あまりに真顔で突拍子もないことを言われたためか、呆れとも苛立ちともつかぬ声が漏れる。少年の隣でフランソワが「だよなぁ」と肩をすくめるのと対照的に、ゼフィランサスの表情は一瞬だけ陰り、しばし沈黙した。窓辺に射し込む白い光が金の瞳を照らし、その表情を半ば影に沈める。

 その沈黙のあいだ、少年は所在なく視線を彷徨わせ、ふと船室の壁に目をやった。粗い木壁に、釘で打ちつけられた一枚の黒い布。海賊旗だった。闇を吸い込むような黒地に、鳥の頭、交差する二本の剣。刃は風を裂くような角度で描かれ、今にも動き出しそうな気配を帯びている。

 少年は一瞬だけ、それを眺めた。表情は変えないが、胸の奥で小さく何かが鳴った。


 ——ふーん。悪くないじゃん。


 理由もなく、そう思った。ただの布切れのはずなのに、妙に目を引く。名前も立場も、何も持たない自分とは無縁のはずの印なのに。やがてゼフィランサスはゆっくりと振り返り、少年を真っ直ぐに見据えた。


「……よし。ならばオレが名を与えよう」


 彼の声には、迷いを振り払うかのような力がこもっていた。彼の口元が不敵に歪む。ひときわ鋭い響きをもって、その名が放たれた。


「“ルキフェル”——。今日から君は、ルキフェルだ。この名こそ、君にふさわしい」


 まるで運命を告げる鐘の音のように、彼の言葉は船室に響いた。傷だらけの少年はきょとんと目を瞬き、次いでその胸が大きく震えた。これまで何者でもなかった自分に、名前が与えられた。虚無の闇に漂っていた心が、急にひとつの形を得たかのように。


「ルキフェル……おれの名前……!」


 翡翠の瞳が眩しく輝き、少年——ルキフェルの唇がかすかに震える。昂揚と興奮、そして得体の知れない熱が全身を駆け抜けた。ルキフェルの様子を、フランソワは驚きの混じる視線で見つめ、リュウはただ沈黙のまま雇い主の胸奥に秘められた意図を探ろうとしていた。ゼフィランサスはしばしルキフェルを見据えたのち、視線をフランソワへ移した。


「フランソワ。今日からお前がルキフェルの面倒を見ろ」

「……え、俺ですか!?」



 フランソワは目を剥き、慌てて両手を振った。

「いや俺、ガキの相手は苦手なんで。あいつら、わけわかんねーことばっか言うし……」


 ゼフィランサスは呆れたように深いため息を吐き、肩を竦める。


「バカやろう。エル・イエロで子供たちの人望集めてた奴が何言ってやがる」

「うっ……!」


 図星を突かれて言葉に詰まるフランソワ。


「お前は子供の扱いをわかってる。それに、この船の船員の中じゃ最年少だ。ルキフェルの相手は、お前が適任だ」


 そう言って、ゼフィランサスの口元にイタズラっぽい笑みが浮かんだ。


「この際、雑用係の仕事は免除してやる。今日からお前は“教育係”だ」

「教育係……!」


 フランソワの目がギラリと光った。次の瞬間には人が変わったように胸を張り、声を張り上げた。


「わかった! あんたには色々世話になってるしな。ガキの面倒は、俺に任せとけ!」


 内心では雑用係から解放された歓喜で飛び跳ねたい気分だった。ゼフィランサスは彼の様子に満足げに頷く。


「じゃあ決まりだな。もう一人の子供はレオン・マルヴォワに任せるとしよう。……んじゃ、お前らは帰れ」

「了解! よし、ルキフェル。喉乾いたろ? ギャレーに連れてってやる」


 フランソワは少年の肩を軽く叩き、意気揚々と船長室を出ていった。ルキフェルはまだ戸惑いを残しながらも、不思議と背筋を伸ばしてその後をついていった。出て行く二人を横目に、リュウは低く唸る。


「……ルキフェル、か。なるほど」


 彼の声音は感嘆にも似ていたが、どこか底知れぬ思索に沈んでいた。ゼフィランサスはそんな彼に向き直ると静かに口を開いた。


「リュウ・ヨシマサ、契約の件で話がある」

「……なんでしょうか?」


 胡乱げな眼差しで応じる武人に、ゼフィランサスは僅かに口端を歪めた。


「契約内容を変更する。今日からはオレの用心棒じゃなく、あの子の保護を頼みたい」


 一瞬、リュウは言葉を失った。だがやがて息を吐き、短く頷いた。


「契約内容の変更……問題はありません。ただし」


 リュウは眼を細めた。まるで鋭い刃のような視線がゼフィランサスを貫いた。


「あなたは私達に、まだ話していないことがあるでしょう」


 ゼフィランサスの笑みが深まる。挑発を楽しむかのように。だがリュウは笑わなかった。彼の声音は冷ややかで、どこか哲人めいた響きを帯びていた。


「秘密とは時に人を守り、時に人を壊す。真実を晒せば人は迷い、虚偽で固めれば人は盲いる。ゆえに秘密とは剣よりもなお鋭く、毒よりもなお甘美なもの……」


 低く呟きながらリュウは静かに肩を竦めた。


「私は武人。真実を突き止めるのが役目ではない。ただ、秘密が人をどう導くのか、その行く末を見届けるのもまた務めだと思っています」


 ゼフィランサスは目を細め、わずかに口角を上げた。


「ふ……なるほど。ならば任せよう」


 二人の間に流れる一瞬の沈黙は、鋼と鋼が擦れ合う緊張にも似ていた。ゼフィランサスは軽く肩を揺らし、低く囁くように言った。


「それと、もう一つ。君に頼みたいことがある」


 リュウは一歩近づき、船長の背に影を落としながら静かに応じた。


「……承知しました。何なりと」


 二人の間に言葉が行き交う。時折ゼフィランサスが視線を窓の外へ向け、遠くに消えたフランスの地を確かめる。リュウも彼の背中を見据え、言葉少なに頷いた。朝の光が海原に反射し、白波が船体を跳ねる。帆は風を受けて膨らみ、船はゆったりと水面を切って進んでいった。



 揺れる船内で、フランソワはルキフェルの手をしっかり握り、時折後ろを振り返りながら少年の様子を確認する。ルキフェルはまだ船の揺れに身体を翻弄され、踏ん張りながら歩く。細く尖った足先が床を蹴るたび、微かにきしむ甲板の音が響いた。


「大丈夫か?」


 フランソワは声をかけながらも手を引く力を緩めず、ゆっくりと安定した歩幅で進む。ルキフェルは小さく頷き、まだ不安げに周囲を見渡した。その瞳には、かすかに恐怖と好奇心が混じっていた。

 やがて二人はギャレーの前にたどり着く。揺れる階段を降りた先、無口な料理人が手渡す小さな器には、琥珀色に透き通った液体が入っていた。フランソワはそれをルキフェルに差し出す。


「飲みな。仲間が知恵を集めて作ったやつだ」


 ルキフェルは恐る恐る器を受け取り、唇に近づける。一口、そしてまた一口とゆっくりと味わい、口の中に広がる酸味と甘味、乳酸の香りに眉をひそめるどころか、目を丸くして思わず声を上げた。


「う、うめえ…! お兄さん。これ、なんだか変な匂いもするけど美味いな」


 フランソワは苦笑し、肩をすくめる。


「お前、いくつだよ」


 彼らの様子を横目で見ていたリュウは淡々と告げる。


 「彼は六歳だそうだ」


 六歳。まだ何も知らず、ただ名前だけを与えられた自分。だがこの瞬間、ルキフェルは微かに生き延びられる実感を覚えた。フランソワは少年の表情を見て、肩の力を抜く。


「よし、これでちょっとは落ち着いたか」


 リュウは静かに船内を見渡し、目を細める。


 三人は階段を上がって甲板に出た。潮風が顔を撫で、甲板の木の香りと混ざり合う。波が船体を揺らすたび、甲板の板が微かにきしむ音が響いた。フランソワはルキフェルの手をそっと握り、リュウは静かに隣で立っていた。


「すごい、あたり一面青い!」


 ルキフェルの声が風に溶けて海原に消える。眼前に広がる水平線——無限に続く青のグラデーション——に、少年の胸は高鳴った。太陽の光を受けて煌めく水面、果てしなく広がる空。すべてが彼の心に、言葉では表せない歓びを迸らせる。幼いながらルキフェルの心の奥底に、抑えきれない高揚感が渦巻いた。

 まるでずっと待ち望んでいた瞬間が今ここに訪れたかのようだ。


「うわあ……冒険が、始まるんだな」


 広がる青の海原にルキフェルは深く息を吸い込み、身体いっぱいで世界の鼓動を感じた。フランソワは苦笑を浮かべる。


「冒険か。そんな楽しいもんじゃないぞ。でも、今日の海は穏やかだな。お前のことを歓迎してるみたいだ」


 ルキフェルは首をかしげ、軽く笑ったように言った。


「お兄さん、何言ってんの?」


 フランソワはすぐさま眉をひそめ、肩をすくめる。


「お兄さんって言うな。俺はな、フランソワって名前がちゃんとあるんだ。だから……フランソワって呼べ」


 ルキフェルは小さく頷き、フランソワの手を握ったまま、甲板を歩きながらあちこちを見回した。揺れる船体に足を踏ん張りつつ、手すりやロープに触れてみる。ざらりとしたロープの感触、冷たい金具、板の隙間から伝わる微かな震え。すべてが彼にとって未知の刺激だった。


「なあ、ルキフェル。怖くないか?」


 フランソワが少し前に歩きながら声をかける。

「ううん……なんだか、面白い」


 ルキフェルは小さな手で帆を固定するためのロープに触れ、ぎこちなくも確かに握り直す。その手つきに、フランソワは少しだけ笑みを浮かべた。


 三人は船尾で腰を下ろし、ゆるやかに揺れる船のリズムとともに広がる海原を眺めていた。遠くでは帆を操作する船員たちの姿が見え、あちこちから異国の言葉が飛び交い、互いに助け合いながら船を動かしている。ルキフェルはその様子を興味深そうに眺め、ふとフランソワに問いかけた。


「ねえ、フランソワはおれの面倒見るって言ってたよな。じゃ、赤い服のお前は……?」


 リュウは視線をルキフェルに向ける。波間に映る瞳は落ち着き、深みを帯びていた。


「君を守るために、ここにいる」


 ルキフェルはリュウの言葉を反芻しながら眉をひそめた。


「守るって、どういうこと?」


 リュウは落ち着いた声で答えた。


「守るとは、単に危害から遠ざけることではない。時には手を貸し、時には目を離さず見守る。心を委ねさせ、信頼に応え、必要な時に最善の選択を行うことだ。だが、守るという行為は常に単純であるとは限らん。時として、それは苦悩と矛盾を伴うものでもある」


 ルキフェルは頭をかきむしるようにして、小さく呻いた。


「……うーん、ぜんぜんわかんないよ」


 フランソワはその様子を見て、口元に苦笑を浮かべながら肩を竦めた。


「簡単に言うと、俺たちがお前を危ない目に遭わせないってことだ。でも、ただ守るだけじゃなくて、お前自身が強くなるよう手伝うって意味もある。だから、好き勝手やろうとしても、俺たちがいるから大丈夫ってことだな」


 ルキフェルは小さく頷き、少しだけ納得した顔を見せた。


「そっか。じゃあ、フランソワたちがいれば大丈夫ってこと?」


 フランソワは笑みを返し、ルキフェルの肩を軽く叩いた。


「そうだ、俺たちがついてる。だから安心して、少しずつ慣れていけ」


 リュウは静かにその様子を見守り、潮風に髪をなびかせた。ルキフェルはふと思い出したようにリュウの方を向いた。


「名前、聞いてなかった。なんていうの?」


 リュウは穏やかに答えた。


「リュウ・ヨシマサだ。好きなように呼んで構わない」


 ルキフェルはその音の響きを口に出して確かめるように繰り返した。


「リュウ・ヨシマサ。不思議な音だな」


 フランソワは肩を揺らして笑みを漏らし、少し誇らしげに言った。


「リュウは東の方から来たんだ。それに、めちゃくちゃ強いぞ。お前、あんまり舐めんな」


 ルキフェルはリュウの方を見つめた。


「ねえ、強いってどういうこと?」


 リュウは目の前の海をちらりと見やり、静かに語り始める。


「強さとは、ただ剣を振るう力ではない。心を保つ力、恐怖を受け止める力、そして何を為すべきかを見極める力の総体だ。人はそれを測ろうとするが、真の強さは外からは計れぬ。己が内に在るものだ」


 ルキフェルは眉をひそめ、少し混乱したように目を瞬かせる。その様子を見てフランソワが肩をすくめ、簡潔にまとめた。


「要は、強いってのは頭と心が折れないってことだ。単に力があるってだけじゃないんだよ」


 ルキフェルは納得したように頷き、目を輝かせて言った。


「……よくわかるね」


 フランソワは思わず吹き出し、肩を揺らした。ルキフェルはフランソワに向かってにやりと笑う。


「じゃあフランソワ、おれの面倒はちゃんと見るってことだな?」


 フランソワは肩をすくめ、呆れたように首を振る。


「おい、なんで偉そうなんだよ。俺は面倒見るってだけで、お前を甘やかすわけじゃねえぞ」


 ルキフェルは小さく舌を出し、得意げな表情で返す。


「うるさいな、わかってるよ。でも、大人が二人もいるから心強いな」


 フランソワはちょっと照れたように眉を上げ、ルキフェルの頭を軽く叩いた。


「まあな。でも、頼りすぎんなよ。自分で考える力も大事だからな」


 リュウは少し距離を置いて二人を見守りながら静かに言った。


「船上での生活は力や知恵だけでなく、仲間との信頼があって初めて成り立つ。君も今日から、その一員になるのだ」


 ルキフェルは潮風に髪をなびかせながら、視線を遠くの水平線に向ける。心の奥でこれまで感じたことのない安堵と、ほんの少しの誇らしさが混じり合った。


「おれ、ここにいていいんだな」


 フランソワはふっと微笑み、軽く肩を叩いた。


「そうだよ。今日からあんたはこの船の仲間だ。変な顔してても、もう一人じゃねえ」

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