第四章② アントワーヌ
アントワーヌは薄暗い室内で静かに息を潜めた。廊下の向こうから、叔父の重い寝息が漏れてくる。時計の針が刻む音さえも、夜の静寂にかき消されるかのようだ。
「よし……今だ」
息を整え、窓際に向かう。外は夜風がわずかに揺れる木々の葉を光らせていた。窓枠に手をかけ、そっと開ける。冷たい夜風が顔に当たり、全身の神経が一瞬ピリリとした。宿の外壁に沿って慎重に足を運ぶ。下に飛び降りる距離は十分だが、慎重さを欠けば足を滑らせかねない。
アントワーヌは軽くジャンプし、下の地面に着地すると、夜の闇に身を沈めた。無事に宿を抜け出した安心と、今から始まる小さな冒険への高揚感が、胸の奥で静かに熱を帯びる。月明かりの下、アントワーヌはラウルの元へと向かう道を確かめた。月明かりだけが頼りの細い路地。アントワーヌの足音は、砂利や石畳に吸われるように小さく消える。
普段なら何てことない街並みも、今はまるで別世界のようだ。家々の窓はほとんど閉ざされ、寝静まった街の静寂が逆に神経を尖らせる。
「……やっぱり、ちょっと怖いな……」
小さく呟きながらも、影に隠れるように壁沿いを進む。路地の角を曲がるたび、心臓が跳ねた。月明かりに映る自分の影が壁に大きく伸びるたび、誰かに見られているような錯覚に襲われた。遠くから聞こえる犬の鳴き声、風に揺れる木の葉のざわめき、どれもが自分を見張る者の足音に思えて息を止めてしまう。
「……大丈夫、大丈夫、ラウルのためだ……」
怖さに震える体を無理やり奮い立たせ、アントワーヌは細い路地を慎重に進んだ。村の路地を抜け、少し高台に差し掛かると遠くに屋敷の影がうっすらと見え始めた。屋根や尖塔が黒い輪郭を浮かび上がらせる。普段見慣れた建物も異様に大きく、冷たく感じられた。アントワーヌは立ち止まり、息を潜める。足元の砂利を踏むたびに小さくカツッと音が響き、胸がドクンと跳ねる。屋敷に近づくほどに緊張が増し、わずかな音さえ耳障りに感じられた。
「……まだ気づかれてないはず……」
小声で自分に言い聞かせ、足音を最小限に抑えて石畳の継ぎ目を意識しながら、慎重に一歩一歩進んだ。屋敷の窓や塀の影を見ては、身を低くして息を殺し、心臓は高鳴り、全身の神経がぴんと張り詰めた。子供ながらに、これほどまでの静寂と孤独に身を置く経験は初めてだった。
「……ここまで来れば、もう少し……でも、絶対に音を立てちゃダメ……」
ようやく屋敷の門が視界に入った。大きくて重厚な門は、昼間とは違って闇に沈み、影の塊のように見える。アントワーヌは息を潜め、ゆっくりと近づいた瞬間、鼻を突く異様な匂いに思わず立ち止まる。
「……?」
これまで嗅いだことのない、鉄と何か生々しいものが混ざった強烈な匂いだった。心臓が跳ね上がり、足が固まる。手を少し震わせながら、目を凝らして門を見つめると、門の縁が昼間とは違い、無理やりこじ開けられたような形跡があることに気づいた。割れ目や擦れた跡が月明かりにかすかに光る。その異様さに、背筋がぞくりと冷たくなった。恐る恐る、アントワーヌは門の端に手をかけ、軽く押してみる。
「……っ!」
ギギッという、古びた金属と木材が軋む不気味な音が、夜の静寂を切り裂いた。心臓が激しくバクバクと打つ。体中の血が沸き立つような恐怖に、アントワーヌは思わず後ずさった。闇に慣れた目で見ても、この門の異様さは一目でわかる。
今この瞬間、ただならぬ事態がそこにあると体中が警告していた。門をくぐると、庭の木々の影がねじれた怪物のように揺れ、風が葉をざわつかせるたびに、アントワーヌの耳には不吉な囁きが聞こえるようだった。足元の小石が転がる音ですら周囲に大きく響き、心臓が跳ね上がる。
「……落ち着け……あとは、裏口へ」
自分に言い聞かせながらも、体は小刻みに震える。夜の庭はまるで生き物のようで、木の枝がひそやかに手を伸ばしてくるかのように、通るたびに影が揺れた。草むらを踏むと、何かが隠れている気配を感じる。月明かりがわずかに道を照らすがその光は限られ、地面の凹凸や低木の影が幻の獣に見えて、アントワーヌの視線を何度も揺らした。
「……誰もいない……」
そう呟きながらも、足を止めると背後でかすかな音がした。風ではない、かすかな、まるで忍び寄る足音のような音。振り返る勇気はなく、ただ前に進むしかなかった。裏口へ続く道を目指し、庭を逸れて進むたび影は濃く、風は冷たく、香りは鉄と湿った土の混ざった匂いが混じり、息をするだけで胸が締め付けられる。草の葉が服に触れるたび、小さな音が夜の静寂を切り裂き、アントワーヌの神経を逆撫でした。
「……あと少し、あと少し……」
裏口に向かう道を進むにつれ、草や土に混ざる匂いが次第に異様に濃くなってきた。最初は湿った土や落ち葉の匂いだと思っていたものが、鉄のような刺激的な香りに変わる。鼻をつくその匂いは嗅いだことのない生々しいもので、アントワーヌの胸をぎゅっと締め付けた。
「……さっきから何……?」
足を止め、匂いの元を探ろうと辺りを見回す。月明かりに照らされた地面には、赤黒く光る染みが点々と散らばっているように見えた。目を凝らすと、踏み込むたびにその染みがかすかに光を反射し、まるで道を示す血の跡のようだった。アントワーヌの体は小刻みに震え、呼吸は浅く速くなる。心臓が喉まで跳ね上がり、まるで自分の鼓動が暗闇に響いているように感じた。
「……でも、裏口まで行かないと……ラウルが……」
震える手を草や低木に擦りながら、恐怖を必死に抑えて一歩ずつ進む。血の匂いはさらに濃くなり、鼻腔を刺すように突き上げ、吐き気を催すほどだった。やがて曲がり角を越えた先に、裏口の扉がかすかに月光を受けて浮かび上がる。扉の隙間からは、さらに濃厚な鉄の匂いが漂い、アントワーヌの足は思わず止まった。恐怖で体が固まる。しかし、ラウルとの約束が心の奥で彼を前に進ませる。
「……ラウル、待ってろ……!」
息を整え、手を震わせながらも扉に近づく。アントワーヌが裏口に手をかけようとしたその瞬間、向こう側から微かに足音が聞こえた。規則正しい、複数人の足音。続いて金属が触れ合うような小さな音も重なる。
「……?」
思わず声にならない声が漏れ、背筋に冷たい汗が伝う。アントワーヌの手は固まったまま、扉に触れたまま動けない。足音は徐々に近づき、金属音もはっきりと耳に届く。心臓が破れんばかりに跳ね、鼓動が耳の奥で響いた。
慌てて数歩後退り、月明かりの当たらない、低い茂みの影へ体を滑り込ませ、葉や枝のざわめきに紛れて身を潜めた。彼の瞳は暗闇に適応し、わずかな動きも逃さぬよう鋭く光を捉えていた。
やがて、裏口の扉がゆっくりと軋む音を立てて開いた。
その先から、複数の大人たちが庭へと現れる。踏み出すたびに地面の葉や小石を踏む音が微かに響き、空気に漂う血の匂いは濃度を増して鼻腔を突き刺した。
月明かりがわずかに彼らの姿を照らすと、持っている剣が赤黒く濡れているのが見える。
血に染まりながらも月光を受けて鋭く光り、異様な輝きを放っていた。アントワーヌは声も出せず絶句した。
目の前の光景は、これまで夜の闇で見たどんな影とも違った。人の手で生まれた、血に濡れた恐怖そのものだった。冷たい月光の下、剣を手にした、知らぬ大人たちの姿は少年の胸に深い震えを刻みつけた。
アントワーヌは息を殺し、目の前の光景を凝視する。
大人たちは、まるで普通の夜の散歩でもしているかのように淡々と歩を進めた。彼らの口から漏れる言葉は、状況の恐ろしさにそぐわないほど穏やかだった。
「今日も良い成果をあげられたな」
「そうだな、思わぬ助っ人もいたし」
言葉だけ聞けば、まるで狩りや仕事の報告をしているかのよう。しかし、血の匂いと赤黒く濡れた剣が示す現実と完全に噛み合わず、アントワーヌの胸に冷たい寒気を落とした。少年の目は、恐怖と困惑で大きく見開かれた。理屈では理解できても心は震え、足が硬直して動かせない。血の匂いはますます濃くなり、アントワーヌの恐怖をさらに煽る。少年は心臓が破れそうなほど脈打つのを感じながら、影の中でじっと息を潜め続けた。
その時、裏口の扉が微かな軋みを立てて開いた。アントワーヌは息を詰め、その先を凝視する。闇の中から現れたのは別の人影、重い何かを抱えた姿だった。その瞬間、雲間から月が顔を覗かせ、淡い光が人影を照らし出す。
アントワーヌの視界に飛び込んできたのは、あの黄金の目。夜の闇を射抜くようにぎらつく光彩は紛れもなく、庭で冷徹に振る舞っていたあの異国の男。
大海賊ゼフィランサスだった。威風堂々たる衣服はところどころ黒ずみ、乾ききらぬ血に染まっている。まるでその布地が、彼の行いを隠しきれずにいるかのようだった。そして、彼の腕に抱かれていたものを目にした瞬間、アントワーヌの心臓は鷲掴みにされた。
小さな影。まだ幼さの残る輪郭。顔は見えないが、その肩幅も髪の癖も、アントワーヌにはわかってしまった。
——ラウルだ。
頭では否定したかった。だが理屈よりも先に直感が告げていた。あの男の腕に抱かれているのは、間違いなくラウルだと。アントワーヌの喉が震え、声にならぬ悲鳴が胸の奥でこだました。
月明かりに浮かび上がる黄金の目と、少年の小さな影。その不吉な光景はアントワーヌの目に焼き付き、二度と消えることはなかった。
剣を手にした男たちが、ゼフィランサスへと歩み寄る。その口からこぼれたのは場違いなほど気安い声だった。
「よぉ、お疲れさん。助力に感謝するよ」
「まさかお前が加わってくれるとは思わなかったぜ」
あまりに日常的な口調に、アントワーヌは耳を疑った。だが次に響いたゼフィランサスの低い声は、容赦なく現実を突きつける。
「……オレは先に船に戻る。お前たちもぜひ来てくれ。歓迎する」
彼の言葉に男たちは顔を見合わせ、愉快そうに笑った。
「そうか。それなら快く後で邪魔するぞ」
「これからについても話したいからな。……お前が提案した“細工”の件も、この後、ちゃんとやっておくから」
交わされる会話は、まるで古い友人同士のよう。次の瞬間、男たちは踵を返し、茂みの方へ向かってくる。アントワーヌの胸が悲鳴を上げた。
——こっちに来る!?
息を止め、茂みの奥へと身を縮める。男たちの靴音が、すぐ目の前を掠めて通り過ぎた。軽やかな足取りだが、一切の無駄がない。草を踏む音も、衣擦れも最小限。鍛え抜かれた兵士の動き。遊び半分の殺戮者ではない。男たちは門前の方へと走り去り、闇に溶けていった。
ゼフィランサスが抱えた少年の体を支え直し、踵を返そうとしたその時だった。
アントワーヌの小さな体は、考えるよりも先に動いていた。茂みを押し分け、闇を破って飛び出してしまう。振り向くゼフィランサス。血で汚れた顔が月光に照らされ、黄金の瞳が鋭くアントワーヌを射抜いた。その目には、怒りも喜びも浮かんでいない。掴みどころのない冷徹さだけがあった。
アントワーヌは恐怖に喉を縛られ、言葉も声も出ない。月の光が二人の間を隔てるように落ち、しばし見合うだけの時間が流れた。やがて、ゼフィランサスの口がゆっくりと動く。
「……お前も、来るか?」
低く響いたその声に合わせるように、庭を渡る強い追い風がアントワーヌを叩いた。背を押されるような、抗えない力。誰にも甘えられず、孤独の中で耐えてきた自分にとって、その言葉はあまりにも鮮烈だった。挑発にも似た誘いの中に、不思議な期待があった。血に塗れた顔でありながら、どうしようもなく引き寄せられる。
「……いく」
アントワーヌの口からは、迷いの欠片もなくその一言が零れ落ちた。ラウルへの心配、そして何より、この男の言葉と存在が自分を突き動かしていた。
次の瞬間、ゼフィランサスが駆け出した。血塗れの少年を抱きしめたまま、闇を切り裂く風のように。
アントワーヌもまた、その背中を追って駆け出す。走る。駆ける。庭の緑を、夜の空気を切り裂いて。
——風のような男に。自分も、風になりたかったから。
屋敷の裏庭を抜けた先、二人の足音は夜の草原を踏みしだき、やがて潮の香りが鼻を打った。血の匂いと混ざり合う塩気に、アントワーヌの胸は締めつけられるようだった。だが恐怖よりも、ただ前を走る背中を見失うまいと足を動かす。振り返れば、静まり返った屋敷。だがその闇の奥には、確かに血と惨劇の影が蠢いていた。
アントワーヌは背を向ける。すべてを振り切るように。海岸線に出た時、視界いっぱいに広がる黒い海が月を飲み込み、波音が荒々しく響いた。ゼフィランサスは振り返らない。血に濡れた腕の中の小さな命を守りながら、ただ風のごとく前へ。その背を追うアントワーヌの胸は高鳴り、恐怖と興奮が入り混じって喉を焼く。
——夜の海へ。
屋敷を捨て、血の匂いを背にして。二人と一つの小さな影は潮風を切って走り去り、やがて闇の彼方へと飲み込まれていった。




