第四章① ラウルとアントワーヌ、そして父との別れ
ラウルは茂みの陰で息を整えながら、まだ震える手を胸に当てていた。父と友人の険悪な睨み合いが、幼い胸に深く刻まれている。アントワーヌの表情は硬く、唇はかすかに噛み締められていた。
「二人とも行ったみたい。まさかラウルの父上が人を殴るなんて」
ラウルはびくっと肩を震わせ、目をぱちぱちと瞬かせながらも、アントワーヌの手に少しだけ触れて安心を得る。二人は茂みの中で互いの息遣いを確かめながら静かに見つめた。
ラウルは目の前で繰り広げられた、“海賊と海軍”の激しい駆け引きの意味を理解しきれずにいたが、胸の奥で何かが少しだけ変わったことを感じていた。
庭の片隅に、放り出されたままの模造剣が陽の光を鈍く反射している。アントワーヌは茂みから身を乗り出し、模造剣を拾い上げるとまだ震えるラウルの前に差し出した。
「ほら。あんなことがあっても、大事なものだろ? こういうのはそのままにせず、ちゃんと持っていたほうがいい」
ラウルは目を瞬かせ、恐る恐る剣を受け取った。小さな手の中で、模造剣の重みは先ほどとはまるで違う意味を帯びて感じられる。ラウルはアントワーヌに視線を向けた。友の眼差しは真っ直ぐで優しさが宿っている。
「……ありがとう」
か細い声で呟き、ラウルは剣を胸に抱き締めた。二人は互いに目配せすると、駆け足で屋敷に戻る。廊下を抜け、ラウルの自室へと滑り込み、窓を閉め、扉に背を当ててしばらく息を殺す。やがてラウルは模造剣を机の引き出しの奥、布に包んで厳重に隠した。二人は部屋の隅で肩を寄せ合いながら、訪れるかもしれない父の足音に怯え、ただ待ち続ける。ラウルは机に背を預け、胸を押さえたまま小さな声で震える。
「アントワーヌ、ボク、父さんが怖いよ……。ボクに剣を教えてくれた人も……」
アントワーヌは一瞬、何も言えずに固まった。ラウルの瞳には涙が滲み、声にはどうしようもない怯えが滲んでいる。やがて、アントワーヌはゆっくりと息を吸い込み、言葉を選ぶように口を開いた。
「……ラウル、落ち着け。おれは、そばにいる……けど……」
ラウルは顔を上げ、か細い声で震える唇を動かした。
「ずっと……ずっとそばにいてくれる?」
その問いに、アントワーヌの体が小さく硬直した。視線を外し、少し間を置いてから言葉を紡ぐ。
「それが……この後、帰らなくちゃいけなくなって……」
ラウルの胸の中に、不安と寂しさがさらに押し寄せた。小さな手がアントワーヌの袖にしがみつくが、そこにあったのは慰めか、それとも拒絶か。まだ答えの出ない揺らぎだった。
「キミも……ボクの元から、いなくなるんだ……」
ラウルの声には、怖さだけでなく、離れてしまうことへの寂しさと不安が滲んでいた。アントワーヌは彼の言葉を聞き、少し間を置いてから静かに答える。
「……パリに帰るのは、明日だ。出発まで、そばにいられるよ」
ラウルは目をぱちぱちと瞬かせ、少しだけ肩の力を抜いた。胸に渦巻いていた不安がほんの少しだけ緩む。
「……ほんとうに?」
アントワーヌは頷き、ゆっくりとラウルの肩に手を添えた。
「ああ、出発するまでは……ずっと」
扉が突然、勢いよく開いた。ラウルとアントワーヌは驚き、思わず小さく飛び上がる。
そこに立っていたのは、外出用の上着と手提げ鞄を抱えたエリオットだった。ラウルの肩は小刻みに震え、アントワーヌも思わずラウルの肩に手を添えながら息を呑む。
「少し、席を外してくれないか。ラウルと話がしたいんだ」
エリオットの声は穏やかだが、どこか冷たくもあり、威圧感を含んでいた。アントワーヌは一瞬迷い、ラウルと目を合わせる。ラウルは小さく頷き、震える声で「うん……お願い」と答えた。アントワーヌは深呼吸をひとつすると、そっとラウルの手を握り、最後にもう一度視線を交わしてから部屋の扉を静かに閉めた。
二人きりになったラウルとエリオット。エリオットはラウルの前にゆっくりと歩み寄る。その視線は真っ直ぐで、どこか落ち着きを伴っていた。
「ラウル、もう心配はいらない。あいつは……消えた」
エリオットの言葉に、ラウルは少し肩の力を抜くが、まだ震えが止まらない。
「けど……もし、またあいつが現れても、絶対に関わってはいけない。危険な奴なんだ」
エリオットの言葉に、ラウルは小さな声で震えながら口を開いた。
「でも……あの人、ボクに優しくしてくれたんだよ」
エリオットの顔が厳しく引き締まる。視線が一層鋭く、そして重くなる。
「あれは偽りの姿。お前を傷つけ、危険な目に遭わせるための嘘だ」
ラウルの胸がぎゅっと締め付けられる。息を整えようとしても、心臓の高鳴りは止まらなかった。エリオットはさらに低い声で続ける。
「あいつは、そういう奴なんだ。人を惹きつけて、言葉巧みに恐怖に陥れる。人の心を壊す天才なんだ」
ラウルは頭では理解していた。庭で見たあの光景、父と師の激突、すべてが示していた。それでもゼフィランサスの笑顔や優しい言葉、存在感はラウルの心の支えになっていた。
怖い、でも……離したくない。あの人の温もりが、まだ自分の中に残っているのを感じていた。エリオットは深く息をつき、ラウルに視線を落とした。
「分かったな、ラウル。やはり、立場が異なる者同士では分かり合えないんだ。その差は一生埋まらない。むしろ、近づけば近づくほど溝が深くなる」
ラウルは小さく頷く。心の中で、庭での光景やゼフィランサスの言葉が重くのしかかっていた。
「俺はこれからパリに戻る。お前のそばにいてやれなくて悔しいが……お前のためにも戦わなくてはいけない」
エリオットの声には、父としての愛情と戦士としての責務が交錯していた。
「剣も禁止だ。しばらくは室内で過ごせ。……お前を守るためだ」
ラウルは息を呑んだ。怖い、けれど父の言葉の奥にある優しさを感じた。エリオットはそっとラウルを抱きしめる。温かい腕に、ラウルはしばし安心を覚えた。
「父を、許してほしい」
その言葉とともに、エリオットはラウルを離すと静かに部屋を出ていった。扉が閉まると、部屋には静寂と、ラウルの胸の奥で微かに揺れる感情だけが残った。
父が去った後、ラウルはただ呆然と立ち尽くしていた。普段なら安心できるはずの自分のベッドも、部屋のあらゆる家具さえも冷たく、遠く感じられる。
まるで、世界全体が自分を突き放しているかのようだった。ラウルは拳を握り、床に視線を落とす。
「……ボク、何もできない……」
喉の奥で零れたその呟きは、空っぽの部屋に反響するだけだった。
父に別れを告げることもできず、ただ立ち尽くす自分。弱さと無力感が胸の奥で渦巻き、絶望の色を濃くしていった。ラウルの小さな肩が、ゆっくりと震えた。息を吸おうとしても、胸の奥に重くのしかかる感覚が邪魔をする。今ここで、彼は自分の無力さと弱さをまざまざと突きつけられていた。
突然、締め切っていた窓が音を立てて揺れる。ラウルは驚き、思わず体を跳ね上げた。
窓の向こうに目をやると、そこにはアントワーヌが両手を振っていた。
「え、何やってんの!?」
ラウルは驚きと慌てで、思わず窓へ駆け寄った。内開きの窓を必死に押し開けようとする手は震え、胸の高鳴りが全身に広がる。
「ちょ、ちょっと待って! 本当にアントワーヌ!?」
思わず声が裏返る。窓に手を伸ばしながら、ラウルは頭の中で何度も「落ちるな」と呟く。外で見守るアントワーヌは、ラウルの慌てた様子を即座に察した。ラウルの指が窓枠に触れ、窓がわずかに開く音が石壁に反響した。その瞬間、二人の視線がようやく交わり、胸の奥で一瞬、時間が止まったかのような感覚が走る。ラウルは驚愕のあまり、口を半開きにして言葉を失う。
「危なすぎるよ、アントワーヌ!」
アントワーヌはラウルの目を見て、にやりと微笑んだ。
「心配するな。隣の部屋から来ただけ」
ラウルが驚きで目を丸くすると、アントワーヌはさらに得意げに肩を揺らした。
「それに、おれは脱走の名人なんだ」
ラウルは思わず口を開けたまま、目をぱちぱちさせる。アントワーヌは窓枠に手をかけ、軽々と屋内へ足を踏み入れた。床に足が触れた瞬間、体がわずかに解ける。
「ふぅ……やっと戻れた」
アントワーヌは小さく息を吐き、膝を床につけたまま背中を壁に寄せる。彼は得意げに肩をすくめた。
「ほら言ったろ? 簡単さ」
ラウルは目を丸くして、思わずツッコミを入れる。
「そ、そういう問題じゃないでしょ! 危ないし、誰かに見つかったらどうするの!」
アントワーヌはくすりと笑い、肩を小さく揺らす。
「大丈夫。お前ももう少し経験値を積めば、こういうのも普通になるって」
ラウルは小さく肩をすくめながらも、心のどこかで安心感を覚えた。
「……ありがとう、アントワーヌ」
ラウルはそっと声を漏らし、アントワーヌは軽く微笑み、肩を叩いた。
「いいんだよ。今はお前のそばにいる、それで十分だから」
二人は窓際で小さく頷き合い、まだ残る庭の風景を目にしながら、互いの存在を確かめ合った。ラウルは窓際に座ったまま、視線を床に落とし、声を震わせて言った。
「父さんが出ていった。……パリに戻るって」
アントワーヌはラウルをちらりと見やり、静かに頷いた。
「全部聞いてたよ。外から」
ラウルは息をつき、肩を小さく落として続ける。
「それに、剣を教えてくれた人とはもう会うなって。室内で過ごせとも言われた」
アントワーヌは静かに呟いた。
「そりゃあ……息が詰まるような思いだね」
ラウルは膝を抱え、力なく視線を落とした。
「ボク……この先、どうすればいいんだろ」
アントワーヌは少し笑みを浮かべ、落ち着いた声で答える。
「賢いお前なら大丈夫さ。そのうち、寂しいと思わなくなる」
ラウルは首を傾げ、疑問を浮かべる。
「それって……どういう意味?」
アントワーヌは視線を遠くに向け、ゆっくり言った。
「誰かと一緒に過ごす楽しさを知ってるからこそ、周りに誰もいない時に寂しいって思えるんだ。でも、その寂しさに慣れてしまえばいい。そのうち当たり前になって、何も思わなくなる」
ラウルはその言葉を反芻し、静かに頷いたが、それでも、ラウルの心はゼフィランサスとの最初の出逢いに引き戻される。
夜の庭、月光を浴びて一人佇むゼフィランサス。背を向けたままの彼に、思わず自分は近づいた。その瞬間、ゼフィランサスがゆっくり振り返る。暗闇の中でも光を放つ黄金の瞳。その視線が、今もラウルの胸に焼き付いて離れない。
あの日、なぜゼフィランサスは庭にいたのだろう。もしかすると、彼もまた自分と同じように寂しさを抱えていたのかもしれない。
その思いに、ラウルは胸の奥から居た堪れない感情が込み上げてくる。ラウルはしばらく沈黙したあと、ぽつりと呟いた。
「やっぱり、ゼフィールに会いたい」
アントワーヌの目が、ぱっと輝く。
「ゼフィール?」
「うん。ゼフィール。海賊とは思わなかったけど、ボクに優しくしてくれた」
ラウルの声はかすかに震えていたが、その眼差しには真剣さがあった。そして、少し俯きながらも勇気を振り絞るように続ける。
「だから……そのお礼を、ちゃんと伝えたいんだ」
アントワーヌはニヤリと笑みを浮かべ、目を輝かせた。
「じゃあ、二人で抜け出すか?」
ラウルは驚きと戸惑いで目を見開く。
「抜け出す? そんなこと、できるの」
「できるさ。だって、おれ脱走の名人だし」
アントワーヌは得意げに胸を張る。
「夜になって叔父さんが寝たら、宿を抜け出してラウルの元に行くよ」
ラウルの胸は高鳴り、手のひらが思わず汗ばんだ。心臓が跳ねる音が耳の奥で響く。
「ほんとうに、行けるの?」
ラウルの声は小さく震えていたが、目には期待と興奮が滲んだ。普段は怯えがちで、父やゼフィールの前では小さな存在でしかなかった自分が今、計画の中心にいる。そのことだけで、ラウルの胸はわくわくと緊張でいっぱいになった。アントワーヌの自信に満ちた笑顔を見て、ラウルは一瞬迷った。しかし、次の瞬間にはその胸の不安よりも、ゼフィールに会えるという想いが強く膨らんだ。小さな体を震わせながらも、ラウルは決意を固める。
「……うん、やろう! 絶対、会いに行くんだ!」
ラウルの心の奥で眠っていた冒険心が少しずつ目を覚ます。アントワーヌが低い声で囁いた。
「でも困ったことにさ……いくらおれでも暗闇の中、窓から侵入するのは難しいよ」
ラウルは眉をひそめ、少し考え込んだ。窓の高さや距離を思い浮かべ、次第に顔がほころぶ。
「そっか。じゃあアンリに頼んで、裏口の鍵を開けておくよ」
アントワーヌは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにくすりと笑う。
「なるほど、それなら完璧だな。さすがラウルだ」
二人は互いに小さくうなずき合い、夜の計画を静かに確認する。ラウルは机の引き出しにしまった模造剣をそっと取り出した。胸に抱きしめ、目を輝かせながら小さく呟く。
「よし、これも持っていこう。何かあった時のために。それに、ゼフィールにちゃんと返さなくちゃ」
アントワーヌが耳を澄ますと、遠くからジャンの声がかすかに聞こえてきた。
「しまった、そろそろ行かないと」
ラウルは一瞬、緊張で身体が固まるが、アントワーヌは力強く声をかけた。
「ラウル。この計画、必ず成功させような」
ラウルも力強く頷いた。
「うん、絶対にね」
二人の間に、夜の闇へと進む静かな決意と期待が満ちていった。屋敷の門前で、ラウルとアントワーヌはしばしの別れの挨拶を交わす。
「気をつけてね、アントワーヌ」
「ラウルも、無理するなよ」
ジャンに手を引かれ、アントワーヌは屋敷から去っていく。振り返ったアントワーヌが軽く頷いた。ラウルも頷き返す。ミレーユと共に二人を見送ったラウルは、彼女が先に室内に入ったところで、側に控えていたアンリを手招きした。
「アンリ、あのさ……今夜、裏口の鍵を開けててほしいんだ」
アンリは目を丸くして驚いた。
「ええ、そんな無茶ですよ!」
ラウルは必死に懇願する。
「お願い、アントワーヌと会う約束したんだ!」
ラウルの熱意に押され、幼いアンリはため息をつきながら頷いた。
「しょうがないですね……わかりました。みんなが寝静まったら鍵を開けておきます」
ラウルは嬉しさのあまり、思わずアンリに抱きついて感謝を伝えた。
「ありがとう、アンリ! 本当にありがとう!」
だが、この小さな判断がやがて屋敷を血に染め、恐怖と絶望で満たすことになるとは、子供たちは夢にも思わなかった。
夜の静寂に紛れた無邪気な計画の一歩。その裏で、運命はすでに歪み始めていた。
屋敷の影は異様に長く伸び、後の惨劇への道筋を示していた。風が窓をかすめるたび、どこかで血の匂いを予感させる冷たい気配が忍び寄り、階段の奥や長い廊下の暗がりに、赤い影がちらつくように映る。
子供たちの無垢な期待は知らず知らずのうちに、やがて屋敷を覆う恐怖の前触れに押し潰されることになった。




