第三章④ 中庭での再会
昼食を終え、ラウルは少し気分転換に庭を歩いていた。柔らかな陽射しの下、木々の香りが鼻をくすぐる。
「ふう……少し歩くと気分も変わるな」
呟いた次の瞬間、茂みの中からガサガサと音がした。思わず立ち止まり、眉をひそめる。
「今の音、なんだろう……?」
慎重に茂みに近づくと、突然影が飛び出してラウルは思わず後ずさった。
「うわぁっ!」
影の正体は、悪戯っぽく笑うゼフィランサスだった。葉の隙間から現れた彼は、ゆるやかに腕を組み、まるで庭の主でも見下ろすかのようにラウルを見下ろしている。
「おやおや、驚かせてしまったかな?」
ラウルは目を丸くし、肩をすくめて後退する。その表情は恐怖と困惑と、そしてなぜかわずかに胸が高鳴る感覚も混ざっていた。
「やめてよ! 心臓が止まるかと思ったじゃない!」
ゼフィランサスは影から身を乗り出して、くすっと笑った。
「おや、カスティーリャ語がずいぶん自然になってきたな」
ラウルは胸を張り、得意げに答える。
「だって剣が振れない分、勉強して覚えたんだもん」
ゼフィランサスは一瞬だけ目を見開き、それからゆるやかに微笑んだ。風に髪を揺らしながら、まるで我が子を見るような眼差しでラウルを見つめる。二人の会話はすっかりカスティーリャ語になっていた。ゼフィランサスはしばしラウルを観察し、感心の色を浮かべる。
「ふーん、剣術も勉強も、どっちもこなすのか。さすがだな」
ラウルは肩をすくめながらも誇らしげに言う。
「でも、全部わかるわけじゃないよ。分かる単語を耳で拾って、相手が何を言いたいか考えてるんだ。友達のおかげだよ。頭いいんだ、その子」
ゼフィランサスは微笑んでいた。
「なるほどな。賢いだけじゃなく、ちゃんと工夫もしてるのか」
ラウルは顔を輝かせながら尋ねた。
「ねえ。東洋人の話、どうなったの?」
ゼフィランサスは少し考え込むように肩をすくめ、にやりと笑った。
「ああ、今は場所探し中」
ラウルは目を輝かせた。
「そうなんだ! じゃあ早く場所が決まれば、もっと面白い話や訓練が聞けるんだね!」
「まあな、楽しみにしてな」
ゼフィランサスはくすくすと笑いながら返すが、内心では言葉にできない焦りと警戒心が渦巻いていた。ラウルとゼフィランサスは言葉を交わしながら、庭をゆっくりと歩いていく。二人の口元には笑みが絶えず、互いに身振りや表情でやり取りを続けた。枝に残る初秋の金木犀やコスモス、香り高いラベンダーの花々は、二人の歩みに合わせて軽く揺れ、葉擦れの音が心地よいリズムを奏でた。穏やかな海風を少し含んだ涼やかな風が吹き抜け、柔らかい日差しは庭全体を優しく包み込む。わずかに赤みを帯びたケヤキやイチョウの葉の影が、湿り気を帯びた地面に長く落ちていた。
庭の向こうには青灰色の海が静かに広がり、波の光が穏やかに反射している。遠くの水平線にはわずかに白い帆船が浮かび、潮の香りと風の音が庭の空気に混ざり込んだ。空は淡い青に、ところどころ薄い雲が流れ、昼下がりの陽光を柔らかく拡散させている。まるで庭全体が、二人のやり取りに呼応するかのように、より生き生きと輝き始めていた。
一方その頃、アントワーヌはラウルの姿を探して庭や廊下を行き来していた。ブレストからの出張を終え、帰宅したジャンがまず宿泊場所を探すというので、アントワーヌはラウルに別れを告げようとした。やがてアントワーヌは、ラウルの部屋の前に辿り着いた。扉はわずかに開いており、覗き込むと室内は静まり返っている。机の上には開かれた書物と筆記具が置かれていたが、肝心のラウルの姿はどこにもなかった。
「どこに行ったんだろう……」
「全くだな」
アントワーヌが呟くと、背後から低く落ち着いた声がした。思わず肩を跳ねる。普段、あまり口をきかない人物からの声に驚きが混じった反応をしてしまったのだ。
「ラウルと仲良くしてくれて、感謝してる」
エリオットはそう言いながら部屋に足を踏み入れ、机の上の書類や筆記具を整理していた。
「えっと、ラウルを見かけませんでしたか?」
アントワーヌが訊ねると、エリオットは首を振る。
「いいや。まったくあの子はどこへ行ったやら」
アントワーヌは深く一礼して立ち去った。彼の意識は庭へと向けられていた。最後の手がかりは、あそこしかない。そう確信して、アントワーヌは歩を速めた。
エリオットは机の上を片付け終えると重いため息をひとつ漏らし、部屋をぐるりと見渡した。彼の視線がベッドの下の暗がりに止まる。かすかに、何かが光を反射していた。その瞬間、身体が硬直する。
手を伸ばして引き出すと、そこにあったのは模造剣。鳥の頭、双剣の紋章。視覚が記憶と重なり合う。先日のラウルの剣の動き。ゼフィランサスの型を思わせる、あの自由で力強い捌きが脳裏をよぎる。偶然ではない。あれは確かに、ここにいる。
「——ゼフィール……!」
エリオットの声は喉の奥から震え、怒りと絶望が入り混じった吐息となって漏れた。拳を握りしめると、指先まで血の気が引くように力がこもる。エリオットは模造剣を手に視線を庭に向けた。太陽の光が葉を揺らし、微風が花を揺らす。あの穏やかな風景の中に、あの子がいる。そう思うだけで心臓が激しく打ち、血潮が逆流するような感覚に襲われる。
「……行くしかない」
握りしめた剣をしっかりと抱え直した。かつての戦場で見せた冷静さは影を潜め、今の感情はただ父としてラウルを守り、迎えに行く衝動に変わっていく。静かに扉を開け、足音を忍ばせながら廊下を進む。心の中では、雷鳴のようにラウルの姿が光を放っている。目の前に見えるのは、あの無邪気な少年だが、動きはあの子そのものではない。ラウルの剣の舞がゼフィランサスの系譜を受けて生きていることを、エリオットは胸の奥で震えながら確信した。庭に踏み出した瞬間、風が頬を撫で、葉と花が軽く揺れる。あの穏やかな自然の中に、かつての親友の影を抱えた息子の存在。胸の奥で竜巻のように巻き起こる感情を抱え、エリオットは決意を固めた。
午後の日差しが庭を照らし、緑が鮮やかに揺れる中、アントワーヌは足早に歩き回っていた。ラウルの姿を求めて茂みの間を覗き込み、片隅まで目を凝らす。だが、どこを探してもラウルの気配は見つからない。
「どこに行ったんだろう」
小さく呟き、額の汗を拭う。風が頬をかすめ、花の香りが鼻をくすぐる。やがて、遠くに小さな人影を見つける。ラウルだ。だが、その隣に見知らぬ男が立っている。
アントワーヌは思わず足を止めた。陽を浴びて焼けた褐色の肌、無駄のない筋肉、しなやかで研ぎ澄まされた肢体、砂漠を渡る戦士のような精悍さ。瞳は鋳を溶かした黄金のように光を放ち、長く流れる黒髪の奥に深い青がちらりと覗く。左耳のイヤリングが光を受け揺れるたび、彼の孤高さが際立つ。立ち姿を一目見ただけで、アントワーヌの胸に畏怖の念が湧き上がった。
その男——ゼフィランサスが軽くラウルの頭に手を置いた瞬間、アントワーヌの背筋をゾワッとした衝撃が走った。小さな仕草のはずなのに、心臓がぎゅうっと締め付けられるようで、体の芯から鳥肌が立った。二人のやり取りを眺めるだけで、これまで押し込めていた感情が洪水のように押し寄せる。
軍医家系に生まれ、重責と期待の中で必死に生きてきた自分。唯一の後継として課せられた務め、果てしないプレッシャー。けれど今、目の前のラウルは自由そうに笑い、あっという間に知識を吸収し、神童の如く輝いている。
本当は、甘えたい。誰かに認められ、支えられたいと心の奥で渇望していた。ラウルとゼフィランサスの間に流れる絆を目の当たりにし、その温度の違いに心がざわつく。羨望と嫉妬が胸の奥で渦巻き、歯が浮くような感覚すら覚える。
ラウル、努力して得た才能すらもあっという間に自分の上を行く。
まるで“選ばれた子供”のようで、眩しすぎる光を放っていた。自分は選ばれなかった。
いつも追いかける側で、努力しても報われない子供。努力の尊さを知るほど、心の闇は深くなる。
アントワーヌの胸の奥で、羨望と無力感、焦燥が絡み合い、抑えてきた感情が一気に押し寄せた。目の前の光景は美しいはずなのに、胸の奥に突き刺さる鋭利な棘のように全身を締めつける。
「こんなにも、……ずるい……」
呟きは出そうで喉に引っかかり、声にならない。口元に冷や汗がにじむ。風が庭を吹き抜け、花や葉を揺らすが、アントワーヌにはその音すら二人の輝きと自分の無力さを際立たせるだけに感じられた。その時、鋭い声が庭を切り裂く。
「おい、何をしている!」
空気が凍りつくように響き渡るその声に、ゼフィランサスもラウルも顔を向けた。ゼフィランサスの瞳は冷たく鋭く、ラウルはその隣でまだ理解しきれない胸の高鳴りを押さえつけている。アントワーヌは茂みの影に隠れ、息を殺して二人の様子をうかがった。
庭の中央、彼らの視線の先に立つのは、怒りに歪んだエリオットだった。瞳には燃えるような烈火が宿り、冷たくも熱い威圧が周囲の空気を押し広げる。ラウルの胸は高鳴りと戦慄で震え、足元から力が抜けそうになった。
ここにいるのは、パリでじわじわと自分を追い詰めたあの厳格な父の再来。もう穏やかで優しい笑顔の記憶は消え失せていた。ゼフィランサスは目を細め、唇をわずかに吊り上げて言う。
「久しいな、エリオット」
彼の声色には冷気が混ざり、これまでの柔らかな友人の面影はない。アントワーヌの視線は茂みの葉越しにラウルとゼフィランサス、そして怒りに震えるエリオット。三者の間に走る見えざる糸を追った。心臓の奥で、これまで感じたことのない熱と恐怖が混ざり合い、息を呑む。エリオットの瞳が鋭く光った。怒りと苦悩が混じり、冷徹さの中に切実な父の想いが垣間見える。ラウルはわずかに身をすくめ、思わず後退りしそうになるが、ゼフィランサスの静かな圧がそれを許さなかった。
「なぜ貴様がここにいるのか、説明してもらおうか」
エリオットの声の震えに、庭の葉が小さく揺れる。ラウルの目に映るエリオットの姿は、かつて教室や屋敷で叱責されたときの記憶を鮮烈に呼び起こす。だが今、そこにいるのは単なる父ではない。怒りに燃える戦士としての父だ。
ゼフィランサスはラウルに視線を送りながらも、微動だにせず立っている。一瞬の沈黙のあと、ラウルの耳に、ゼフィランサスの低く絞り出すような声が届く。
「ただの休息だ」
ラウルは小さく後ずさりながら、心の奥で何かが弾けるのを感じる。エリオットは一歩前に踏み出した。怒りで震える声が庭の静寂を切り裂く。
「息子を誑かして、どういう了見だ!」
エリオットの言葉は鋭く、冷たい風のようにゼフィランサスの頬を撫でる。ゼフィランサスの目に宿る光は冷徹そのものだ。
「この子の面倒を見ただけだ」
二人の男は剣を握らずとも対峙していた。ラウルはその間、二人の間で小さく立ちすくむ。胸の奥がざわつき、鼓動が早まる。息が詰まり、視界が霞み、体が震える。過呼吸——感情の嵐に心と体が耐えられなくなった瞬間だった。ゼフィランサスは咄嗟に手を伸ばし、ラウルを支えようとする。だが、その瞬間、鋭い声が庭に響いた。
「触るな!」
エリオットが瞬く間に割って入り、ゼフィランサスとラウルの間に立ちはだかる。ゼフィランサスは一瞬目を細めたが、ラウルに触れることはせず、静かに立ち止まった。ラウルの肩が小さく揺れ、声にならない呼吸が断続的に漏れる。エリオットはその小さな体を抱き寄せ、優しく支えた。温もりと安心が、混乱で張り詰めたラウルの胸にゆっくりと流れ込む。ゼフィランサスの影が近くにありつつも父に守られる感覚に、小さな安堵が芽生えた瞬間だった。ラウルの呼吸が徐々に整い始めた頃、エリオットはそっと額に手を添え、優しい声で囁いた。
「落ち着け、ラウル。もう大丈夫だ。俺がここにいる」
ラウルは微かに頷き、父の腕の中で震えが少しずつ和らぐ。胸の奥でまだ動悸が残るが、安心感が冷たい恐怖を押しのける。しかし、ゼフィランサスは動かず、冷たい視線を向けたまま低く吐き捨てるように言った。
「その子がパニックを起こすのは、全部お前のせいだよ」
ゼフィランサスの言葉は、柔らかさで包まれた空気に鋭利な刃を投げつけるようだった。
「……はぁ?」
エリオットの声は冷たく、熱も帯びていた。ゼフィランサスは一歩も引かず、なおエリオットの激情を試すかのように立っていた。金色の瞳で冷たく、まるで刃のように鋭くエリオットを見下ろす。その瞳には揺らぎがなく、氷のような静寂の中に圧倒的な力と自信が宿っていた。対するエリオットの茶色の瞳は怒りで燃え上がっていた。子を守る父の責任感と、ゼフィランサスへの苛烈な敵意が混ざり合い、その瞳には炎が宿る。二人の視線の応酬は言葉を超えて凍りつくような緊張を生み出した。
一方、ラウルは過呼吸に苦しみ、父の腕の中で小さく震え続けていた。呼吸を整えようと胸を押さえる手も、恐怖と混乱で止まりがちだ。ゼフィランサスは静謐で冷たい威圧感を保ったまま、エリオットに言葉を放つ。
「お前がこの子を傷つけているんだよ」
エリオットの全身の血が逆流するかのように怒りが噴き上がる。ラウルは目を閉じ、幼心に地獄のような時間が永遠に続くのではないかと錯覚していた。エリオットは深く息を吐き、怒りに揺れる瞳をわずかに鎮めると、再びラウルを抱え上げた。ラウルの呼吸が徐々に整い、顔色が戻り始めるとエリオットは断固として言った。
「部屋にいろ。俺はこいつと話がある」
ラウルは何か言いかけたが、エリオットは即座に制止する。
「いいから行け!」
エリオットの声にラウルは一瞬凍りつき、言葉を失う。震える足取りで、恐る恐る二人の大人のもとを離れ、庭を後にした。が、ラウルが茂みを通り抜けようとした時、アントワーヌの手が伸びてラウルの肩に触れて引き止める。
「落ち着け。……ここで二人を見届けよう。なんか、見てなきゃいけない気がする」
ラウルは驚きと緊張で目を丸くしたが、アントワーヌの声に従って茂みの陰に隠れた。彼は小さく胸を押さえながら、アントワーヌとともに目の前の緊迫した光景を静かに見つめる。大人二人はすでに互いに向き合っていた。ゼフィランサスは淡い笑みを浮かべ、わずかに首を傾げる。
「……ご立派な父上だこと」
皮肉交じりの彼の言葉に、エリオットの額にわずかな筋が走る。彼はゆっくりとゼフィランサスに冷たい瞳をじっと差し向けた。
「しばらく姿をくらましていたと思ったら、こんなところにいたとはな」
続けて、エリオットが鋭い声で問いかける。
「なんでこの場所がわかった?」
ゼフィランサスは肩をすくめ、落ち着いた口調で答えた。
「まあ、たまたまなんだ。部下から船じゃなくて別の場所で身を隠せとしつこく言われた。暗闇の中、ここに辿り着いたってわけ」
そしてゼフィランサスは視線を微かに横にずらし、窓辺を指さす。
「そこの窓辺からミレーユの姿を見たんだ。彼女は大人になっても変わんないな、すぐわかった」
彼の言葉に、エリオットの身体がぴりりと緊張する。
「お前、ラウルに剣術を教えたな?」
ゼフィランサスはわずかに眉を上げ、静かに返す。
「そういう言い方をするな」
エリオットの目には迷いはなかった。
「ラウルの動きが物語っている。お前の動きと重なった」
エリオットの言葉にゼフィランサスは一瞬目を丸くし、やれやれとでも言うように深い溜息をつく。エリオットは腰に差していた模造剣を手に取り、静かに言葉を重ねる。ラウルの部屋で見つけたもの、あの場で不自然に置かれてた異物である。
「これもな」
エリオットは剣を庭に放り投げた。金属が土を叩く音が、張り詰めた庭の静寂を切り裂く。茂みで身を潜めていたラウルは、その音に思わず顔を青ざめさせる。心臓が早鐘のように打ち、体が固まった。ゼフィランサスが御守りとして自分にくれたもの。
ゼフィランサスは微かに口角を上げ、静かに息を吐く。エリオットはゼフィランサスを睨みつけたまま、一歩一歩、草地を踏みしめて近づく。
「今まで、なぜ姿を消していた? この場で聞かせてもらおうか」
ゼフィランサスは微動だにせず、静かにその視線を受け止める。エリオットは間合いを詰め、目の前で吐き捨てるように言った。
「——大海賊ゼフィランサス」
その瞬間、ラウルとアントワーヌの顔色が変わる。ラウルの胸は、早鐘のように打ち鳴らされていた。
ゼフィランサス。いつも穏やかで時に微笑みをくれる友人が、海賊だったという事実が脳内で理解を超え渦巻く。
「え……え、父さんの……?」
言葉にならない声が喉から漏れる。心臓は早まり、掌には冷や汗がにじむ。目の前の男は、自分が今まで見てきた剣の動きを実際に体現し、そして父と相対してきた存在なのだ。その重みがラウルの体を硬直させる。
一方、アントワーヌの目は鋭く、庭の光と影の中でゼフィランサスの輪郭を追っていた。巷で聞いた「大海賊」の噂とはまるで異なる。荒々しく乱暴な暴君の姿を想像していたが、そこにいるのは冷静で理知的だった。
「この人が……大海賊……?」
声に出さなくとも、胸の奥で震えが走る。恐怖よりも、畏怖と尊敬が勝る。そして少年は無意識に自分の小ささ、無力さを痛感した。これまで必死に努力してきたことも、この人物の前ではまだまだ序章に過ぎないのだと。
ゼフィランサスはゆっくりと肩越しに笑みを漏らした。その笑みは親しげでありながら、どこか刃物のように冷たい。
「冷たいことを言ってくれるな、親友」
唇の端に苦い皮肉を光らせる。目の奥には、かつて交わした酒と笑いの残り香が見え隠れしたが、その表情はすぐに引き締まる。
「今は休戦しよう。来るべき時に備えるためにも」
だがエリオットの声は、刃のように真っ直ぐに返された。怒りと引き締まった理知が混じる声が庭に鳴る。
「来るべき時? 今がその時だ。貴様をこの場でひっ捕えて、裁きを受けてもらう」
ゼフィランサスの笑みが消え、金色の瞳が細く光った
「裁き、裁きね。誰が裁いてくれるんだ?」
エリオットは一瞬ためらいもなく、冷徹さを帯びた口調で切り返す。
「法と国家に決まってるだろ。ふざけるのもいい加減にしろ」
ゼフィランサスは冷たい風のような視線をエリオットに向け、声を絞り出す。
「では言わせてもらうがな、参謀官殿」
エリオットの胸の奥に、ずっと押し込めてきた痛みが鋭く刺さる。
「一番そばにいる奴と向き合えない、幸せにできない人間が、どうして法と秩序を守れる? 国への忠義を尽くすために家族を傷つけるなんざ、オレは許さん」
ゼフィランサスの言葉の刃が直撃し、エリオットは喉の奥で必死に言い返す。
「……お前に、何がわかる!」
ゼフィランサスは目を逸らさず、黄金の瞳で真っ直ぐに迫った。
「ラウルは寂しがってるんだ。オレを追いかけ回すより、あの子とちゃんと向き合え」
その瞬間、エリオットの胸の奥に刺さっていた痛みがぐっと締め付けられる。ラウルのことを思うほど、父としての自分の無力さが浮き彫りになるのを感じた。ゼフィランサスの目が冷たく光り、声に低い呪詛のような響きが混ざる。
「オレはな、親友だ。お前のことは全部わかってる」
その言葉はエリオットの胸を更にえぐった。これまで隠してきた後悔も怒りも、すべて見透かされるかのように痛烈に。ゼフィランサスは一歩前に出る。声の重みは風をも押し返した。
「ここに来て優しい父親を演じ、これまでのことを精算できると思ったか? 遅いな。もう取り返しはつかない。ラウルの”あれ”は、手遅れだ」
エリオットの瞳が揺れた。声には迷いと痛みが滲む。
「それなら、俺は……どうすれば…」
ゼフィランサスは唇を吊り上げ、せせら笑った。
「いや、どうすることもできんよ。だって全部お前のせいだもん」
ゼフィランサスの一言に、エリオットは瞬間的に異変を察した。眉をひそめ、鋭い声で問う。
「……お前、自分の家族のこと、まだ悔いてるのか?」
地雷を踏まれたゼフィランサスの表情が一変する。瞳が燃え上がり、声が庭中に響き渡った。
「当たり前だ! 守れなかったんだ、二人とも居なくなって……オレは、見つけるまで諦めない! 悔いてるだと? 後悔だらけだ!」
怒りに震えるゼフィランサスの影が、さほど長身ではないのに威圧的に見せる。だが、エリオットも黙ってはいなかった。怒りと正義感に駆られ、声を荒げる。
「だからと言って民を恐怖で陥れるのは間違いだ! ただ探せばいいものを、何故お前は陸と海ともに荒らすんだ!」
エリオットの声が絞り出されるように庭に響いた。怒りが火花となって言葉を切り裂く。
「お前の行いのせいで、尊い命がどれだけ失われたか、忘れるな。——俺はそれを絶対に赦さない」
ゼフィランサスの肩が小さく震えた。黄金の瞳が一瞬、炎を帯びるが、次の瞬間にはそれを押し殺すように深い溜息をついた。怒りと疲労が混ざった、その吐息は雷鳴の余韻のように重く落ちる。
「……どう足掻いても、オレたちは分かり合えないらしいな」
言葉に含まれたのは、諦めにも似た苦い認識だった。エリオットはその一言に面食らい、目の奥に幾分かの揺らぎが走る。やがて、覚悟を決めたように肩を落とし、ゼフィランサスをじっと見据える。
「ああ、そうみたいだな」
エリオットの声に、静かな決意が混じる。冷たくも確かな締めの言葉が続いた。
「ならば──今度こそ決裂だ。今日のところは帰してやる。だが、次に会う時は海の上だ」
二人の間にしばらく沈黙が落ちた。ゼフィランサスはふと視線を上げ、ラウルの部屋の窓を一瞬だけ見た。それから、何かを諦めたように小さく息を吐き、エリオットへと向き直る。
「なあ……最後に一つだけ、親友として言わせてくれ」
ゼフィランサスの声は低く抑えられている。その静けさが、かえって不吉だった。
「……あの子の瞳だ」
エリオットの眉がわずかに動く。
「翡翠色の目は、この地じゃ“呪い”だ。不吉だの、邪悪だの、毒だの。理由なんて後付けでいい」
ゼフィランサスは淡々と続ける。
「だが事実として、あの子は“見られる”。そして見られる限り、迫害される。ラウルは……ヨーロッパにいる限り、安住できない。あの目がある限り、ここは安全な場所じゃない」
エリオットの喉が鳴る。反論しようとして、言葉が出ない。ゼフィランサスは一歩近づき、声をさらに落とす。
「オレなら守れる。連れて行くこともできる。海へ、この地の“外”へな」
ゼフィランサスの言葉は、エリオットにとって火種だった。
「……ふざけるな。誘拐まがいのことを、親の前で——」
「違うな」
ゼフィランサスは即座に遮る。
「これは“選択肢”だ。ここに置くか、連れ出すか。どっちがあの子にとって生き延びられるか、って話だ」
その瞬間、拳が振るわれた。乾いた音が庭に響き、ゼフィランサスの顔がわずかに横を向く。だが彼は倒れない。ただ、静かに息を吐いた。
「……だから殴ると思った」
ゼフィランサスは頬を拭いながら苦笑する。
「けど覚えておけ、エリオット。世界は、お前の肩書きより残酷だ」
彼の金色の瞳が、一瞬だけ鋭く光る。
「守る覚悟がないなら、守れる場所に行かせるのも……“父親”の選択だ」
それだけ言うと、ゼフィランサスは踵を返した。
「じゃあな。最後は……海賊と海軍らしく、だ」
風が庭を抜け、ゼフィランサスの背中は静かに遠ざかった。
残されたエリオットはその場に立ち尽くしたが、やがて踵を返して庭を去る。
初めて“世界が息子を敵に回している”という現実と向き合わされていた。
親友の言葉が、まだ背中に重くのしかかっている。




