第三章③ ラウルと両親の物語
「では、まず一つ──『紅い星の予言』のことだ」
エリオットの声は落ち着いていたが、どこか遠くを見つめるような色を帯びていた。
「その昔、東の王国群に星にまつわる言い伝えがあったんだ。星は誰か一人を指している。その一人がオーロッパにいるのでなないか、と」
ラウルは目を輝かせて、エリオットの話に耳を傾ける。
「それで何が起きたの?」
「各地の王が商人や旅人、学者らをヨーロッパへ急がせた」
エリオットは言葉を選ぶように少し間を置いた。
「けど、果てしないヨーロッパの地で、それらしい人物を見つけるのは難しかった」
「でも、諦めなかったんだね?」
ラウルが問いかける。
「そうだ。結局、予言そのものは外れたが、その努力が後に東西交流を活性化させたと言える」
エリオットの言葉にラウルは小さく息を呑む。
「なるほど。世界を動かしたんだ」
「そうだ」
ラウルは目を丸くし、エリオットの言葉の一つひとつを反芻した。
「父さん。その人たち、今もいるの?」
「いるとも。過去の奔走が、現在の形に変わっただけだ」
エリオットはラウルを見つめ、微笑みを浮かべる。
「世界は、人の意思と努力で動く。そして予言も、文化も、歴史も──すべてはその連鎖の中にある」
ラウルはベッドの縁に座り直し、声をひそめて尋ねた。
「ねえ、父さん……あの、うまく言葉にできないんだけど、語られない物語もあったりするの?」
エリオットはその問いに少し微笑みを浮かべ、静かに頷いた。
「そうだな……語られない物語は必ずある。人々が知ることのできなかった、あるいは忘れ去られた、でも確かにあった出来事たちだ」
ラウルは目を丸くして父を見つめた。
「忘れ去られた……?」
「そうだ。歴史の中で、語られることなく消えていった物語もあれば、口伝や書物として伝わらなかったものもある。けど、それらも世界の一部だ。形を変えて、影響を残していることもある」
ラウルは目を輝かせ、ベッドの上で少し身を乗り出した。
「じゃあ、父さんの物語も聞きたいな」
ラウルの言葉にエリオットは一瞬言葉を失い、眉をひそめて困惑した。
「……俺の物語?」
ラウルは頷いた。
「うん。父さんのこと全部、知りたい!」
エリオットは肩をすくめ、苦笑を浮かべる。
「そうだな。けど、全部は無理かもな」
ラウルはちょっと口を尖らせながらも、わくわくした様子で父を見つめる。
「いいよ、少しずつでいいから。ボク、ちゃんと聞くから」
エリオットはその純粋な瞳に観念したように息をつき、過去を思い返すように静かに語り始める。
「俺がまだ幼い頃のことだ。パリで、名家の跡取りとして孤独に生きていた俺にとって、あの出会いは衝撃的だった」
ラウルは自然と身を乗り出す。
「一人は異国の男子。そしてもう一人はミレーユだ。彼女は俺よりずっと肝が据わっていて、周囲の誰もが恐れるようなことにも動じなかった」
エリオットの口元に微かな笑みが浮かぶ。
「異国の男子は、色んな民族の人々と一緒に暮らしていてね。音楽や笑い、喧騒に包まれた世界の中で、俺たち三人は夜の街に繰り出しては冒険ごっこをしていたんだ。身分も性別も立場も関係なく、ただ『仲間』として同じ時間を共有していた」
ラウルは目を輝かせながら、父の語る世界を想像する。まるで自分もその夜の街の中で三人と駆け回っているかのような気持ちになり胸が高鳴った。
「ある日、異国の男子があそこに行きたいと指差した。それがノートルダム大聖堂だった」
エリオットの語りにラウルは息を飲む。あの大聖堂を思い浮かべるだけで、冒険の匂いが立ち上るかのようだ。
「けど、彼は異国人だったから聖域に入ることはできなかった。夢を叶えてやりたくて、俺とミレーユで工夫した。結果、三人で大聖堂に侵入することができたんだ」
エリオットは目を細め、当時の高揚感を思い出すように微かに笑う。
「長い階段を駆け上がって、ようやく屋上に辿り着いた。眼下に広がる景色は圧巻で、世界を見渡せるような気さえした。俺たちはその上で声を上げて騒ぎ、笑い転げた」
ラウルは目を輝かせる。まるで自分もその屋上に立っているかのような気分だ。
「そのうち聖職者に見つかって、こっぴどく叱られた。子供だったからまだ無事に帰されたけれど、今でもあの時のことを思い出すとヒヤッとする」
ラウルは小さく笑った。エリオットもまた昔の自分たちの勇気と無鉄砲さに、胸の奥が少し熱くなるのを感じる。ラウルは目を輝かせて言った。
「ボクも、そんな冒険をしてみたいな!」
エリオットは少し間を置いて、ラウルを見つめる。幼い瞳に映る無垢な好奇心と、どこか危うさを孕んだ輝きを前に父としての心配が胸をよぎる。
「できればな……お前には、穏やかに過ごしてもらいたいんだ」
ラウルは一瞬その言葉に引っかかる。冒険の自由を求める気持ちと、父の願いとの間で揺れる。しかし、エリオットの声には優しさが滲んでいて、反抗心ではなく信頼と守りたい思いが混ざっていることが感じ取れた。ラウルは小さく頷き、無言で父の言葉を胸に刻む。
「じゃあ、母さんとの物語も聞かせて」
エリオットはその言葉に一瞬面食らい、視線を逸らした。
「悪いが、それはダメだ」
ラウルは不満そうに眉をひそめたが、父の耳がやけに赤くて思わず言葉を飲み込んだ。エリオットは小さく溜息をついて立ち上がり、扉の取っ手に手をかけた。
「少し休め、ラウル」
エリオットが扉を閉めると、部屋には静寂が落ちた。ラウルはベッドの上に座ったまま、ぼんやりと扉を見つめていたが、胸の奥に渦巻く好奇心は収まるどころか、ますます強く膨らんでいく。
「母さんの物語……母さんに聞けばいいじゃないか」
思い立ったら止まらなかった。ラウルは勢いよくベッドから飛び降り、机の上に開きっぱなしの本も構わずに、廊下へ駆け出した。目指す先はただひとつ、ミレーユのいる部屋だった。廊下を駆け抜け、ラウルはやがて目的の扉の前にたどり着いた。勢いのままに取っ手へと手を伸ばすが、その寸前でふと父から口酸っぱく教えられた作法を思い出す。
「人の部屋に入るときは、まずノック……!」
伸ばしかけた指先が宙に迷い、少し戸惑ったのち、拳を握り込んで扉を軽く叩いた。
「——どうぞ」
母の穏やかな声が中から響く。安堵と共に取っ手を押し下げ、ラウルは扉を開け放った。中に広がるのは、父の執務室とは正反対の空気だった。壁を埋め尽くす書物もなければ、机に散らかる書類もない。家具は必要最小限で整然と置かれ、昼下がりの陽光が窓から柔らかく差し込んでいた。
そして、何よりも目を引くのは部屋の片隅に据えられた大きなチェンバロ。その存在感だけが、この簡素な空間に色を添えていた。ラウルは小さく息を呑みながら、母の部屋へと足を踏み入れる。チェンバロの横に腰かけていたミレーユが、扉を閉めたラウルに気づいて小さく微笑んだ。
「どうしたの、ラウル?」
ラウルは足元に視線を落とし、すぐには言葉を返さなかった。少しの沈黙のあと、意を決したように顔を上げる。
「ねえ、母さん。あの……父さんとのこと、何か……昔の話を聞かせてくれない?」
無邪気なせがみ方ではなく、探るような声音。どこか遠慮がちで、それでも好奇心を隠しきれない少年の真剣さがそこにあった。ミレーユは小さく瞬きをしてから、肩の力を抜くように軽く笑った。
「まあ。そんなこと?」
彼女は特に戸惑う様子も見せず、逆に首を傾げて問い返した。
「いいわよ。けれど、どんなことが聞きたいのかしら」
ラウルは逡巡ののち、ゆっくりと顔を上げた。
「父さんから聞いたんだ。母さんが昔、異国の男の子と一緒にいたことがあるって」
ミレーユは目を瞬かせ、意外そうに眉をわずかに上げる。だがすぐに、その顔には柔らかな笑みが戻った。
「まあ……エリオットがそんな話をしたのね」
彼女は机から椅子を引いて、ラウルに腰かけるよう促す。
「ええ、確かにいたわ。どうして気になったの?」
ラウルは椅子に腰を下ろしながら、少し視線を逸らす。
「母さんにとって、大切な人だったのかなって。どんな出会いだったのか……知りたくて」
ミレーユはしばし遠くを見るように視線を和らげた。
「そうね……もう随分と昔のことだけれど」
彼女の声には、記憶をそっと撫でるような温かさが宿っている。
「私たちが初めて顔を合わせたのは、祭りの日だったわ。港町全体が色とりどりの布で飾られて、音楽と笑い声が絶えなかった。あの日の喧騒は今でも耳に残っているの」
ラウルは身じろぎし、母の言葉を逃すまいと耳を澄ませる。
「異国から来た少年は、人混みの中でもすぐにわかるほど目を引いた。陽に焼けた肌と、不思議な輝きを宿した瞳……言葉はたどたどしかったけれど、屈託のない笑みでね。出逢いはほんの偶然だったけれど、その偶然が少し長く続いたの」
ミレーユは微笑みながらも、言葉の端々にどこか懐かしい影を漂わせた。ラウルはしばし黙って母の横顔を見ていたが、やがて小さな声で口を開いた。
「じゃあ、父さんとは?」
ミレーユはわずかに瞬きをして息をついた。
「父さん、ね」
小さく繰り返した声には、懐かしさと照れが半分ずつ混ざっている。
「彼とは……最初から言葉を交わしたわけじゃなかった。あの日の祭りで、群衆に押されてよろけた私を、後ろから支えてくれたのが最初だったの」
ミレーユの表情に、ほんのりと柔らかな笑みが浮かぶ。
「強引でも無遠慮でもなく、そこに居てくれた。気づけば私も、そのまま彼と歩いていたわ」
ラウルは瞬きをし、思わず聞き返す。
「それって、父さんらしい」
ミレーユは窓辺に目をやり、ゆるやかに瞼を細めた。
「でもね、当時は三人とも外で遊びたい盛りで、親の目を盗んではあちこち駆け回ったものだわ」
彼女の声には、懐かしさと微かな寂しさが入り混じっている。
「危なっかしいことばかりだったけれど」
ミレーユはふとラウルに視線を戻し、少しだけ探るように問いかけた。
「ラウル。お祖父様のこと、覚えている?」
ラウルは首を傾げ、それでも確かな記憶を掘り起こすように答える。
「えっと……音楽家だったよね?」
ミレーユは柔らかく微笑み、チェンバロの方へ視線を移した。
「そうよ。父も、祖父も、そのまた先も……ずっと音楽に携わってきた家系だった。歌を詠む人もいれば、楽器を奏でる人もいた。私も子供の頃から音楽に囲まれて育ったの」
彼女の言葉には、懐かしい旋律の余韻が滲んでいるようだった。
「だから、この部屋にチェンバロだけは置かずにいられなかったの。血の中に染みついたものだからね」
ラウルはふと、思いついたことを口にした。
「母さん、よく歌ってるよね」
ミレーユは驚いたように瞬きをし、それから小さく笑みを零した。
「そう、私は歌うのが好きなの」
彼女は少し遠い目をし、指先で無意識にチェンバロに置かれた譜面をなぞった。
「若い頃はね、オペラ歌手になるのが夢だった。舞台に立って、大勢の人たちの前で歌を届けたいって。本気で思っていた時期があったわ」
ラウルは目を輝かせ、母を見上げる。ミレーユの声は穏やかだったが、その奥に秘められた情熱は確かに感じられた。母の話に耳を澄ませ、少し考えてから慎重に尋ねた。
「でも、どうして諦めたの?」
ミレーユは少し視線を落とし、柔らかく息を吐いた。
「カストラートの歌声が強すぎたの。私は負けたわけじゃないけど、あの時代の世間の波には抗えなかったのよ」
彼女は少し微笑み、ラウルを見つめた。
「それに……エリオットが私に求婚してくれたの。彼のことを本気で愛していたから、その時から本格的に夢を追うことは諦めるしかなかった」
ラウルはしばし言葉を失い、母の瞳に浮かぶ淡い後悔と温かさを感じ取った。
「でも……母さん、今も歌うの好きなんだよね?」
ミレーユは静かに頷き、柔らかな笑みを零した。
「ええ。歌うことそのものが、好きなの。舞台に立たなくてもね」
そう言って、ミレーユはふとラウルの方へ視線を向ける。じっと、何かを確かめるように。ラウルは不思議そうに瞬きをした。
「……なに?」
ミレーユは答えず、ほんの一瞬だけ目を細めた。その表情は、母というより音楽家のそれだった。
——この子、澄んだ声。日常の会話の中に、雑音がない。まだ幼いのに、音がまっすぐで揺れが少ない。
「ねえ、ラウル」
ミレーユは優しく声をかける。
「あなた、自分の声、好き?」
「え? ……わかんない。普通じゃない?」
ラウルの言葉に、ミレーユは小さく笑った。
「そう。今は、それでいいわ」
そして、ミレーユはラウルの髪にそっと手を置いた。
——この声が、これからどう変わっていくのかしら。まだ輪郭の定まらない、未来の響き。低くなるのか、強くなるのか。それとも、人を惹きつける声になるのか。
ミレーユは何も言わず微笑んだ。その胸の内に、歌うことを愛した者だけが気づく、小さな予感を抱いたまま。その時、チェンバロの上に置かれた譜面が、窓から差し込む風にそっと揺れた。
ラウルは目を凝らしてタイトルを読み取る。「月影之文」。母がよく鼻歌混じりに歌っていたあの曲だ。
「母さん。楽譜、読んでもいい?」
ラウルの声に、ミレーユは微笑みながら頷く。
「もちろんよ」
そう言って、ミレーユは楽譜をそっとラウルに差し出した。ラウルは譜面を見つめ、静かに読み上げるように心の中で言葉を追う。
「……これ、寂しい歌詞だよね」
ミレーユは微笑を浮かべ、首を軽く傾げた。
「実は、そうじゃない」
ラウルが首をかしげると、ミレーユはチェンバロ用の椅子に腰掛け、鍵盤にそっと手を置き、譜面の一フレーズを弾いた。澄んだ響きが部屋に広がる。
「どう感じた?」
ミレーユが尋ねる。ラウルは少し考えてから答えた。
「……明るいね」
ミレーユは頷き、柔らかく語る。
「そう、明るいの。歌詞は寂しげだけど、音楽が加わることで裏の意味がわかるの。作曲家の手腕ね」
ラウルは小さな声で尋ねた。
「母さん、なんでこの歌を歌うの?」
ミレーユは静かに目を伏せ、指先でチェンバロの縁を撫でながら答える。
「元気になれるからよ。屋敷に閉じ込められても、この歌が私の支えになるの。私にとって大切なもの」
しばらく間を置き、彼女は優しく微笑んで付け加えた。
「でも、一番大切なものはあなたよ、ラウル」
ミレーユの言葉は、何の嘘も偽りも含まれていない。ラウルは心の中でそっとガッツポーズを作った。幼いながらも、父親に小さな勝利を収めた瞬間だった。それから、ラウルはミレーユの隣にちょこんと腰を下ろし、そっと肩を寄せた。
「月影之文、鼻歌じゃなくて母さんの声で聞きたい」
ミレーユは穏やかに頷き、柔らかな声で歌い始める。部屋には午後の光が差し込み、静寂が満ちる。
されど振り返らず
月の光、背を押す
影にひそめし志を抱き
しづかに明日へと歩まむ
ラウルは目を細め、肩をゆるめながらその歌声に耳を傾ける。部屋の静けさの中、歌声だけが淡く揺れながら響き、まるで時間ごとゆっくりと溶けていくようだ。やがてまぶたが重くなり、眠りが訪れても母親の歌声は変わらず、心の奥深くまで染み渡っていた。




