第三章② 剣術ごっこ
翌朝。柔らかな日差しが庭を満たす中で、ラウルとアントワーヌは約束通り庭に立っていた。
ラウルは周囲を見渡すと、目についた太めの枝を二本拾い上げた。一本をアントワーヌに差し出し、目を輝かせながら言う。
「まず、剣の持ち方から覚えよう。こうやって握るんだ」
ラウルは自分の手に持った枝を軽く構え、手首と腕の角度を丁寧に示す。アントワーヌは少し戸惑いながらも、ラウルの動きを真似して枝を握った。
「力を入れすぎると動きが鈍くなる。力を抜いて、でもしっかり握るんだ。腕全体じゃなくて手首のスナップで振るのがコツ」
ラウルの声は真剣だがどこか楽しげで、アントワーヌはその情熱に引き込まれていく。
「最初は前後に振るだけでいい」
二人は庭の芝生の上でゆっくりと枝を振り、互いに打ち合う動作を繰り返す。ラウルはアントワーヌの手元を見ながら、時折アドバイスを加える。
「こうしてみて」
ラウルは自分の枝を軽く回転させ、正しい振り方を示す。アントワーヌは息をのむように見つめ、慎重にその動きを真似した。
「それとね、足の運びも大事なんだ」
ラウルは一本の枝を握ったまま、自分の足元を軽く見渡した。芝生に柔らかく足を置き、ゆっくりと前後にステップを踏む。
「剣を振るときは腕だけじゃなくて、体全体を使うんだ。前に出るときは前足から、後ろに下がるときは後ろ足を意識して」
ラウルは前後に軽く移動しながら、ステップのリズムを見せる。腕の振りと足の運びを合わせ、枝を振るたびに体の重心が自然に移動させる。
「ほら、こうやって。わかる?」
アントワーヌは枝を握りしめ、ラウルの動きをじっと見つめた。そして一歩一歩慎重に足を運び、前後に動きながら枝を振ってみる。
「うん、そうそう。そんな感じ」
ラウルは微笑みながら、自分の足さばきを再び示す。芝生を踏みしめる音と枝が空気を切る音が小さく響き、二人の動作が少しずつ呼吸を合わせていった。
「慣れたら、腕と足を同時に意識して」
アントワーヌはラウルの一挙手一投足を見逃さず、慎重に真似る。ラウルも時折手を止めてアントワーヌの動きをチェックし、必要に応じて軽く助言を加えた。アントワーヌの動きが徐々に滑らかになり、腕と足の連動が自然にできるようになったのを見て、ラウルはにっこりと笑う。
「よし、じゃあ次は防御」
ラウルは枝を軽く持ち直し、構えを取る。ゼフィランサスが自分に教えてくれた動きを思い出しながら、アントワーヌに説明を始める。
「防御はね、ただ剣を受け止めるだけじゃないんだ。力じゃなくて、流す」
ラウルは枝を前に振りかざしつつ、腕をスッと横に流す。枝の先がアントワーヌに触れそうになる瞬間に、わずかに角度を変えて力を受け流す動作だ。
「ほら、こうやるんだ」
アントワーヌは少し戸惑いながらも枝を握り直し、ラウルの動きを真似する。最初はぎこちなく、腕だけで受け止めようとしていたが、ラウルが再び示すたびに体の使い方を理解していく。
「うん、いい感じ」
ラウルは自分も枝を持ったまま防御の構えを取り、目の前のアントワーヌに再現する。手取り足取りというより、ゼフィランサスが自分に教えてくれた方法をなぞるように、自然に伝えていく。
アントワーヌの眉が少しだけひそみ、真剣な表情になった。ラウルは微笑みながら、心の中で「ゼフィール、こんな感じでいいかな」とそっと呟く。ラウルはにやりと笑みを浮かべ、枝を軽く振り上げながら言った。
「じゃあ、今度はボクが攻めるから、アントワーヌは防御しながら反撃してみて」
アントワーヌは少し息を呑んだが頷き、構えを取り直す。ラウルはステップワークを駆使して枝を前後に振り、斜めに切りかかる。
「こうやって、相手の力を受け流す!」
アントワーヌは最初ぎこちなく、腕だけで枝を受け止めようとする。しかしラウルの動きを思い出し、体全体で受け流すことを意識して少しずつスムーズに対応できるようになった。
「よし、今度は反撃!」
ラウルの枝が迫る瞬間、アントワーヌは受け流した勢いを利用して枝を横に払う。ラウルは一瞬驚いた顔を見せるが、すぐに笑みをこぼす。
「うん、その調子!」
二人は次第に動きが呼吸のように連動していく。ラウルが軽く仕掛け、アントワーヌが受け流して返す。一連の動作が徐々に自然に繋がっていった。
「面白いな、これ。君の先生もこんな感じで教えてくれたんだろうな」
アントワーヌが息を整えながらも、目を輝かせて頷く。
「おれ、もっとできるようになりたい!」
二人の笑い声と、枝が空気を切る軽やかな音だけが庭に響いていた。練習というより、遊びの延長、そんな空気だ。執務の合間に庭を歩いていたエリオットは、芝生の上の光景にふと足を止めた。枝を剣に見立て、向かい合う二人。
「……ラウルと、アントワーヌか」
最初は微笑ましく眺めていた。だが次の瞬間、風向きが変わった。エリオットの方へ、正面から風が吹きつける。裾が揺れ、髪が乱れた。なぜか、胸の奥がざわつく。ラウルの足運びが、妙に正確だ。受け流しからの返し。間合いの取り方。型に沿いながらも、どこか自由な動き。子どもの真似じゃない。エリオットの視線が鋭くなる。
「……ミレーユ、いつからラウルに剣を?」
低く漏れた声には、驚きと困惑が滲んでいた。一方、ひと息ついたアントワーヌが感心したように口を開いた。
「剣って、振り回すだけじゃないんだね」
ラウルは得意げに笑った。だがその胸の奥では、別の熱がくすぶっていた。
——もっと、うまく。ちゃんと、強いってところを。
視線がある。誰かに見られている感覚が背中に張りつく。
「でも、まだあるんだ。見てて!」
枝を握る手に力が入る。褒められたい。認められたい。見られるのは怖い。でも、今はそれが力になる。動きが変わった。突き、回転、受け流し。呼吸と動作が噛み合い、庭の空気が張り詰める。エリオットの心臓が強く打つ。そのステップ、その間。風を裂く動き。
——ゼフィランサス。
向かい風が、再びエリオットの頬を打った。懐かしさと理解してはいけない確信が同時に胸を刺す。
「……ラウル、お前……」
だがラウルは止まらない。
——見てる。まだ、見られてる。
胸の奥で、焦りと高揚が絡み合う。呼吸が浅くなることに気づかないまま、動きを重ねる。
「……っ」
突然、息が詰まった。枝が手から落ち、膝をつく。空気が吸えない。視線が重い。
「ハッ……ハッ……」
アントワーヌが息を呑んだ。
「ラウル!?」
エリオットは迷わず駆け寄った。少年の肩を掴み、身体を支える。
「ラウル!」
震える体。浅い呼吸。強くなろうとして、自分を追い込みすぎた。エリオットは膝をつき、ラウルを抱き寄せる。
「無茶をするな……!」
叱責の声に、隠しきれない動揺が混じる。エリオットの腕の中で、ラウルの呼吸が少しずつ戻ってきた。庭には風の音だけが残る。
「ラウル、よく耐えたな」
エリオットの言葉にラウルは照れくさそうに小さく笑みを浮かべる。
「二人とも、今日は十分だろう。少しお茶の時間にしようか」
エリオットは静かに声をかけ、ラウルとアントワーヌを庭から屋敷内へと導いた。二人は楽しそうに話しながら歩き、剣術ごっこの余韻を笑顔で共有している。だが、エリオットの胸中は落ち着かない。ラウルの剣の舞が目に焼き付いて離れず、動きの一つひとつが脳裏で反響していた。まるで嵐のように竜巻が胸の中で巻き起こり、理性と感情が同時に掻き混ぜられる感覚に、彼自身も少し息を呑んだ。今日見た剣の舞は、ただの遊びではない。父として、軍人として、そしてかつての戦友の面影を知る者として、エリオットに深い衝撃を残していた。
静かな食堂で、エリオットはティーポットとカップを並べながら、ラウルとアントワーヌに腰を下ろさせた。
「ふぅ……やっぱり疲れる」
ラウルが息を整えながら笑った。
「でも、楽しかった」
アントワーヌも小さく微笑む。手元のカップを握りながら、先ほどの剣術ごっこの興奮を思い返している。
「アントワーヌ、上手くなったね」
ラウルが言うと、アントワーヌは少し顔を赤らめ、照れくさそうに笑った。
「そ、そうかな。ラウルの方がずっと上手いよ。おれ、まだまだ真似するだけだし」
ラウルはカップを手に取り、少し誇らしげに笑う。
「でもさ、一緒に練習すると楽しい。剣術で動く時も頭使うから」
アントワーヌは感心した顔で頷く。
「確かに、計算や勉強とは違う頭の使い方だね。でも、それが面白いんだろうな」
「そう! 面白いんだよ。だからボク、もっと色々試したいんだ」
「……ラウル、君って本当に吸収力が高いんだな」
アントワーヌがしみじみ言う。ラウルは胸を張って「だって楽しいもん!」と答え、二人は再び笑い合った。一方、エリオットは二人のやり取りを静かに見守りながら、ラウルの剣の舞を思い返していた。楽しそうに笑い、自由に動く息子の姿に、胸の中で渦巻く竜巻はまだ収まらない。だが、この穏やかな時間の中で、二人の絆が少しずつ積み重なっていくのを、父はひそかに感じ取っていた。
お茶を終え、二人は今後の勉強の約束を交わしてから自室へ戻った。午後の柔らかな光が窓から差し込み、ラウルの机の上にテキストが並ぶ。
「さて……もう一度復習しようかな」
ラウルは呟き、ペンを手に取りカスティーリャ語の単語帳を開いた。目に飛び込む文字を声に出し、口に出して繰り返す。暗記のリズムに合わせて手を動かし、ラウルの吸収力は驚くほど早い。短時間で、昨日まで理解できなかった文法構造や時制の違いも、すんなりと頭に入り込む。
「うん、これなら明日アントワーヌに教えられるかも」
独り言を漏らすと、ラウルは満足げに微笑んだ。ペンを置き、ノートに視線を落としていたラウルの耳に、控えめなノックの音が響いた。
「……入ってもいいか?」
落ち着いた声に、ラウルは一瞬手を止めて顔を上げる。
「うん、いいよ」
扉が静かに開き、エリオットがゆっくりと部屋に入ってきた。ラウルは勉強の手を止めたまま、少し緊張した面持ちで父を見上げる。エリオットは部屋を見渡しながら柔らかく微笑んだ。
「少しは落ち着いたか?」
ラウルは小さく頷いた。
「うん、でも、まだ頭が回ってないかも」
「そうか。それなら、ちょっとだけ確認してみようか」
エリオットはそう言いながら、ラウルのノートを覗き込む。ページにはカスティーリャ語の単語や文章が整然と書かれていた。
「随分と進んでいるな。これだけ覚えられれば、会話もだいぶ滑らかになりそうだ」
ラウルは少し誇らしげに胸を張った。
「アントワーヌが教えてくれたおかげだよ!」
エリオットは微笑みを浮かべ、そっとラウルの頭を撫でる。
「それは良かったな。君は本当に吸収が早い。見ていて驚くよ」
ラウルは嬉しそうに笑いながらも目は真剣だ。
「もっと、上手くなりたいんだ」
「そうか。けれど、無理はするなよ」
ラウルは机から離れてベッドに腰を下ろすと、エリオットも隣に腰掛けた。
「父さん、今日も物語、聞かせてくれる?」
ラウルは少し期待を込めて見上げた。エリオットは静かに頷いた。
「もちろん。約束通り、今日は東洋の話をしよう」
ラウルは言葉にはせずとも、嬉しそうに小さく頷いた。




