第三章① ラウルとアントワーヌ
ジャンはその後、ブレストへの出張でヴール・レ・ロズを離れたので、アントワーヌはこの期間、レオパード家で過ごすことになった。
休暇中のはずのエリオットは日中、執務作業のため自室に籠りきり。ラウルは一人で過ごす時間が増えるかと思われたが、幸いにもアントワーヌが隣にいることで、彼の時間は退屈とは無縁だった。
二人はカスティーリャ語を通して会話を交わし、お互いに言葉の理解を深め、学び合う日々を送っていた。ラウルにとって、アントワーヌの存在は単なる学習仲間ではなく、心の支えとなる友人のような存在になりつつある。
朝日が柔らかく差し込む書斎で、ラウルは机に向かって辞書を開き、アントワーヌと並んでカスティーリャ語の単語を声に出して覚えていた。
「これは窓、だよね」
「そうだ。じゃあこっちは?」
「えっと、扉か!」
互いに小さな発見を確かめ合うたび、二人の間に微かな笑いが生まれる。アントワーヌは年齢の割に落ち着いており、言葉の使い方も正確だ。ラウルはそれを目の当たりにして、焦りにも似た闘志を胸に燃やした。
「ラウル、今度はこの文章を訳してみようか」
アントワーヌが差し出した短い文にラウルは集中する。
「海に生きる者は西へ航海する《エル・マリネロ・ナベガ・シア・エル・オエステ》……だよね」
「そうそう。ここはこう訳すと自然だ」
「なるほど……あ、じゃあこの表現は?」
窓の外では庭の木々が風に揺れ、鳥たちが囀る。部屋の中は静かだが、ラウルとアントワーヌの声と笑い声がほどよく響き、学習の時間は軽やかに流れていった。机に向かい続けるうち、ラウルは思った。
「やっぱり、誰かと一緒に学ぶって楽しい」
最初はぎこちなかった二人のやり取りも今では自然な刺激となり、励まし合うリズムに変わっていった。アントワーヌが言葉を選ぶたび、ただの知識ではなく、物事を順序立てて考える姿勢が見える。ラウルは焦りよりも興奮に近い感覚を覚え、自分も負けないように声に出して反復し、文を頭に刻みつける。
一方、アントワーヌはラウルの真剣な眼差しに気づいていた。普段は怯えているような少年が学ぶ喜びに目を輝かせる瞬間、その吸収力の速さに内心でドン引きしていた。
「え……もう覚えちゃったのか?」
「ふふん、だって、面白いもん!」
ラウルは笑顔を浮かべ、さらなる文章を声に出して暗記していく。アントワーヌは静かに舌打ちをした。自分も努力しているのに、到底追いつけそうにない。その現実に少し苛立ちも感じつつ、同時に刺激も受けていた。やがて夕方になり、ラウルが一区切りつけるとアントワーヌは思わず息を吐いた。
「君、ちょっとやりすぎだろ。こっちが置いてきぼりになるじゃないか」
「だって、つい夢中になっちゃって」
アントワーヌは苦笑を浮かべつつも、内心では少し楽しいと感じていた。学習の楽しさが競争心を上回る、稀有な瞬間だった。そのとき、遠くからエリオットの足音が聞こえてくる。執務を終えた父の姿が廊下に現れると、ラウルはぱっと顔を上げた。
「父さん《パードレ》、今日はたくさんの新しい単語を覚えたんだ《オイ・エ・アプレンディード・ムーチャス・パラブラス・ヌエバス》。間違えずにもっと長い文章を作れるようになったよ《イ・プエド・コンストルイール・フラーセス・マス・ラルガス・シ》!」
エリオットは一瞬、足を止めて目を丸くした。
「な、なんだって……?! ラウル、急に何語でしゃべってるんだ?」
ラウルは平然と続ける。息子の口から流暢なカスティーリャ語が次々と口から溢れ出してエリオットは思わずドン引きしたが、すぐに機転を利かせ、微笑みを浮かべながらカスティーリャ語で返した。
「素晴らしい《エクセレンテ》、我が子よ《イホ・ミーオ》。お前の才能には深く感銘を受ける《トゥ・アビリダード・パラ・アプレメール・メ・インプレショナ・プロフンダメンテ》」
ラウルは少し誇らしげに笑い、嬉しさを隠せなかった。アントワーヌもつい顔を上げ、ラウルの口から次々と溢れる流暢な言葉に目を見張る。
「すごい、本当に神童だ……」
エリオットはラウルの頭をそっと撫でた。ラウルはカスティーリャ語での達成感を噛み締めたあと母語に戻した。
「でもね、アントワーヌが教えてくれたおかげだよ!」
アントワーヌは一瞬照れたように目を伏せるが、その目には確かな誇りと喜びが滲んでいた。エリオットはそんな二人を静かに見守り、微笑みを浮かべたまま頷く。
「なるほど、やはり指導者の影響は大きいな」
ラウルは嬉しそうに机に肘をつき、アントワーヌと目を合わせて小さく笑った。
今日もまた言葉と友情が小さな輪を広げていく。
夕食を終え、ラウルは自室に戻った。暖かい燭光に照らされた部屋の中、机の上にはカスティーリャ語のテキストとノートが広げられている。アントワーヌは少し離れた椅子に腰かけ、静かにラウルの様子を見守っていた。
「今日もいっぱい覚えたね」
アントワーヌが言うと、ラウルは嬉しそうに頷く。
「うん! でも、まだ覚えることがたくさんあるんだ。明日もいっぱい勉強したい」
アントワーヌは軽く微笑んで、机の上に置かれたノートを指さす。
「じゃあ、明日はこのページの単語を完璧に覚えてから、新しい文法に進もう。順序よくやれば、もっと効率が上がる」
ラウルは身を乗り出して熱心に聞き、すぐに母語で答える。
「わかった。でも、ちょっとだけ休憩してもいいかな?」
アントワーヌは肩をすくめ、微笑みながら頷く。
「もちろん、休むことも大事だからね」
ラウルはベッドに身を投げ出し、ゴロゴロしながら天井を眺めた。アントワーヌをチラリと見ると、アントワーヌは机に向かって黙々とテキストを開き、ノートに鉛筆を走らせていた。
「アントワーヌも休みなよ」
ラウルが呟くとアントワーヌは一瞬顔を上げ、薄く微笑む。
「休むわけにいかない。叔父さんのためにも、しっかり勉強しておかなくちゃ」
ラウルはその言葉を聞き、胸の奥で小さな感動を覚えた。
「そっか。アントワーヌは頑張ってるんだもんね」
ラウルは目の前で黙々と学ぶアントワーヌの姿を見て、自然と学ぶ気持ちが刺激されるのを感じたのだ。だが、彼の横顔がひどく陰っていることに気づくと、ラウルはベッドに身を預けたまま考え込むように呟いた。
「アントワーヌって、ジャンさんのことあんまり好きじゃないよね」
アントワーヌの手が、ピタリと止まった。一瞬、部屋には静寂が広がる。ラウルは息を潜めて、アントワーヌの表情をじっと見つめる。鉛筆を持つ彼の指先は微かに震えているのを、ラウルははっきりと感じ取った。
ラウルの直感は正しかった。アントワーヌの心の奥に、ジャンに対する複雑な感情が確かにある。羨望なのか、反発なのか、あるいは両方が絡み合った微妙な陰影だ。アントワーヌは鉛筆をそっと机の上に置き、視線を少し伏せたまま小さく呟く。
「……そうだよ」
ラウルは何も言わず、ただじっと聞いている。アントワーヌは少し息を吐き、続けた。
「叔父さんのこと、嫌いなんだ。いつも勉強させられて、なんか息苦しくて窮屈だった」
ラウルは言葉を挟まず、彼の胸の内にある思いを受け止めるように耳を傾けていた。しばらくの沈黙のあと、アントワーヌは小さく肩をすくめ、さらに続ける。
「おれさ、親いないんだ。半分だけ貴族の血が流れてて、でもルノアール家の後継はおれだけなんだ」
その声には、淡い諦念と重みが混じっていた。アントワーヌは視線をテキストからそっと顔を上げ、静かに言った。
「必死に勉強してるのは家のため。それでも、全部嫌になって放り出したくなる時がある」
ラウルは少し考え込み、やわらかく口を開いた。
「だから、たまに家を抜け出すんだ」
アントワーヌは一瞬だけ目を伏せ、ラウルの言葉を静かに受け止めた。そしてゆっくりと息を吐き、納得するように小さく頷いた。ラウルは目を輝かせ、少し楽しそうに言った。
「いいな、ちょっとした冒険みたいで」
アントワーヌは驚きの表情を浮かべ、ラウルを見返した。
「……え?」
ラウルは続けて小さな声で、でも真剣なまなざしで言った。
「ボクもさ、本当は海の上で生きたいんだ。自由になりたい」
アントワーヌはしばらく言葉を失ったが、やがて穏やかに微笑んでゆっくりと答える。
「海の上か。自由に生きるって、悪くないな」
ラウルはうなずき、さらに声を弾ませる。
「ねえ。アントワーヌは自由について、どう思う? 家のこととか全部置いといて、ただ自分の好きなことだけできたら」
アントワーヌは少し考え、目の奥に光を宿しながら言った。
「置いとければな。でも、そう簡単にはいかないんだよ」
ラウルは腕を組み、うんうんとうなずきながら楽しそうに言った。
「うん。それでもさ、考えるだけでも楽しいよね。冒険の計画みたいで」
こうして、ベッドの上でゴロゴロしながらも二人は現実の制約を忘れ、海や自由を思い描きながら、ひそやかな“自由談義”に没頭していった。やがて、ラウルはふと顔を輝かせ、思いついたように言った。
「あ、じゃあさ。明日は勉強やめて運動しようよ」
アントワーヌは怪訝そうに眉をひそめ、ラウルを見つめた。
「運動?」
ラウルはベッドの下に手を伸ばし、ひそひそ声で囁くように言った。
「これは秘密なんだけど……」
そう言うと、彼はベッドの下から模造剣を取り出し、アントワーヌにそっと差し出した。ラウルは目を輝かせながら問いかける。
「アントワーヌって剣術の勉強はするの?」
アントワーヌは肩をすくめ、淡々と答えた。
「いいや」
ラウルはにっこり笑い、剣を軽く振って見せながら言った。
「ボク、剣術も勉強してるんだ。簡単な動きだったら教えられるよ。明日、庭でやろうよ」
アントワーヌは一瞬目を丸くしたが、ラウルの楽しそうな表情を見て、少し微笑んだ。
「わかった、じゃあ付き合ってみるか」
こうして、二人の“自由談義”は翌日の剣術の約束へと自然に繋がっていった。




