第二章⑥ ラウルとエリオット
エリオットはなおも息子を抱いたまま落ち着いた声を響かせた。
「いいか、ラウル。今夜語った物語は、過去の人間たちが必死に生き抜いて紡いできた、揺るぎない真実の瞬間だ」
ラウルは父の胸の奥で息を呑んだ。
「人はそれを、歴史と呼ぶ」
父の言葉が体温と共にラウルの心に深く刻まれていく。エリオットの声音は静かだったが、不思議なほど力強く、少年の胸を震わせた。
「じゃあ……もう一つの物語はなんて呼ぶの?」
エリオットは腕の中の息子を見下ろし、ゆるやかに息を吐いた。
「ただの空想上の話だ。創作物ともいう。人々の想像や閃きから生まれ、語り継がれたり、書物として形を与えられるもの」
ラウルの瞳が興味に揺れるのを見て、エリオットは続けた。
「長い年月を経て人々の心に根付き、“文化”と呼ばれるほどの力を持つこともある。事実と空想、どちらもが人を生かし、人を導くことがあるんだ」
ラウルは小さく首をかしげた。
「歴史と文化……父さんは、どんな物語が好きなの?」
エリオットはわずかに目を細め、遠い記憶を掬い上げるように答えた。
「俺は、東洋の物語や思想に惹かれる。ヨーロッパにはない精神性があって、妙に自分の性に合う気がするんだ」
ラウルは目を瞬かせる。父の口から聞くには意外な答えだった。
「昔、親しい友人にそうした考えを教えられたことがある」
エリオットは少し視線を伏せ、ゆっくりと口を開いた。
「人の心を深く見つめ、自然と共に在ろうとする思想。ヨーロッパにはない、あの精神性を初めて知った時から、俺は虜になった。今でも敬意を抱いている」
エリオットの言葉の端に、かすかな震えが混じる。ラウルにはその理由はわからない。だがエリオットの胸には、かつて出会った「風のようなあいつ」の影がよぎっていた。自由で、掴もうとすれば指の間から抜け落ちてしまう存在。彼と共に過ごした日々は自分を変えた。だが同時に、深い悩みと苦しみを残し、いまも癒えぬ傷を心に刻んでいる。一瞬、エリオットの瞳は遠くを彷徨ったが、すぐに微笑を作ってラウルを見つめた。
「次は東洋の話を聞かせよう。あちらには面白い逸話が沢山ある。歴史も、文化も……両方な」
ラウルは胸の奥がじんわりと温まるのを覚えた。普段は決して見せない父の顔。その父が、自分のために物語を続けようとしている。それだけで嬉しくてたまらなかった。
「……なんか、今日は優しいよね。ずっと」
ラウルの一言に、エリオットの肩がわずかに揺れた。誤魔化すように笑うこともできた。だが、今夜はそれができなかった。息子の翡翠色の瞳が、まっすぐこちらを見ていたからだ。
「……そうだな」
エリオットは視線を逸らし、天井の暗がりを見つめながら、深く息を吐いた。
「俺は、お前の目を守りたかった」
ラウルが瞬きをする。
「緑の瞳を理由に、平然と人を値踏みする連中がいる。あの上流の連中はな……何も言わず、ただ“見る”だけで人を切り捨てる。だから俺は、お前が舐められないように、負けないように……早くから強くしようとした。けど……ヴール・レ・ロズに来てから、気づいたんだ。俺自身が、その“見る側”に回っていたことに」
エリオットの声はほんのわずかに掠れていた。
「耐えられるか、応えられるか。……そんな目で、お前を見ていた。守るつもりで、鍛えていたつもりで……
結果的に、お前が見られることを怖がる原因を俺が作っていた」
ラウルの胸がきゅっと締めつけられる。
「さっき、ミレーユに言われたよ。俺が与えてきたものが、重荷になっていると。お前が怯える理由は弱さじゃない、と」
エリオットはゆっくりとラウルに視線を戻した。
「今更だ。遅すぎる。だが、それでも言わせてくれ。——俺はお前を誇りに思っている。お前は誰かに決められた強さじゃなく、自分の意思で前に進もうとしている。だから、もう俺のやり方で縛ることはしない。好きなように歩け。怖いなら、怖いままでいい」
エリオットはほんのわずかに口元を緩める。
「自分で考え、前に進もうとする心だけは捨てるな。それは、お前自身の強さだ」
ラウルは思わず小さく頷き、心の奥底で父の信頼を受け止めた。
「じゃあ、父さんはボクの監視しなくていいってことだよね?」
エリオットはしばし困惑した表情を浮かべて答える。
「うーん、まあ、そうかもな……」
ラウルはエリオットの言葉に自然と肩の力が抜けた。
「じゃあ、父さんも好きに生きてよ」
エリオットはラウルの言葉に少し目を細め、苦笑混じりに静かに頷く。
「ありがとうな」
ラウルはその笑みに安心しつつ、自分の中の小さな解放感を噛みしめた。だが、彼は少し考え込むように目を伏せたあと、ゆっくりと言った。
「それに、父さんはボクよりちゃんと会わなきゃいけない人がいるんだよ」
エリオットはその言葉に少し眉を寄せ、胸の奥がざわつくのを感じた。ラウルは続けて、少し悲しげな笑みを浮かべながら言う。
「母さんがいつも寂しがってるんだ。よく、『月影之文』を口ずさんでる。この屋敷で一番、父さんがいなくて寂しがってるのは母さんだよ」
その瞬間、エリオットの表情が微かに歪んだ。言葉を返す前に胸の奥が苦悶に締めつけられ、しばし沈黙した。父として、そして夫として、今まで見過ごしてきた時間の重みが一気に押し寄せる。ラウルはそんな父の動揺に気づくも、遠慮なく正直な思いを伝えた。
「だから、ちゃんと母さんに会ってよ」
エリオットは唇をかすかに噛み、苦悶しつつも内心ではラウルの言葉の重さをしっかりと受け止めていた。やがて深く息を吐き、ゆっくりと頷く。
「分かった。ちゃんと向き合うよ」
しばらく、二人の間に静寂が落ちた。柔らかなランプの光の中、ラウルはその静けさに安心しつつも、どこか心地よい緊張を感じていた。やがて、エリオットが口を開く。
「今日はもう遅い。お前もそろそろ寝なくては」
ラウルは軽く頷き、にこりと笑って言った。
「うん。おやすみ、父さん」
そう言いながら、そっと父の部屋を出ようとする。だが、エリオットは慌てて手を上げた。
「あ、待て! 部屋まで送ろう」
ラウルは立ち止まらず、軽く首を振る。
「大丈夫だよ。自分の部屋ぐらい一人で行けるから」
幼いラウルには、父の真意が完全には読み取れない。送ると言ったのは単なる礼儀ではなく、見守る安心感や、そばにいてほしい気持ちも含まれているのだが、ラウルはそれを受け取れず、ただ素直に頷くだけだった。エリオットは少し肩を落とし、寂しげに呟く。
「分かったよ。……おやすみ、ラウル」
ラウルは後ろを振り返らず、柔らかく笑いながら答える。
「うん、また明日ね」
やがて扉が完全に音を立てて閉まり、エリオットは椅子にゆっくりと腰を下ろした。静かな部屋には書棚に並ぶ無数の書物の匂いと、ランプの柔らかな光だけが存在している。紙のざらりとした感触、古びた装丁の重み。どれも日々の忙しさの中で触れる時間を持てなかったものばかりだった。
ラウルの姿が消えた後の静寂は、どこか胸に穴を開けるような孤独とも違う空気だ。
普段は厳格な参謀官として振る舞う自分でも、今だけは父としての肩の力を抜き、息子を見守れた安堵と、同時に抱えきれなかった日々の後悔が静かに胸を締めつける。手元の書類に目を落としても文字は頭に入らず、ただランプの光に浮かぶ影を追い、しばし無言で時を過ごした。エリオットは深く息を吸い、目を閉じる。
「今日一日……少しは近づけただろうか」
椅子にもたれながら、彼は初めてラウルに見せた微笑の余韻を反芻する。心の奥には長年抱えてきた責任や孤独、そして「風のような友人」の記憶がちらつく。しかしその思いを追いやるように、エリオットは再び背筋を伸ばし、明日の予定や任務のことを思い浮かべた。
父として、そして軍人として。責任は途切れることなく、日常は静かに流れ続けている。ランプの光が部屋の隅に落ちる影を撫でる中、エリオットの瞳には、明日もまた息子と向き合う決意が静かに宿っていた。




