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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】1・2巻「誕生編」  作者: セキユズル
第二章「翡翠だ。翡翠色の目だよ。深くて、澄んでて……簡単に割れない色だ」
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第二章⑤ ラウルとエリオット

 昼食を終え、ジャンとアントワーヌは別れを告げ、屋敷を後にした。ラウルは窓から二人の姿を見送りながら、胸の奥で小さく喜びが弾けた。ヴール・レ・ロズにしばらく滞在するというのなら、またアントワーヌに会える。あの少年の陰に寄り添うような、少し硬質で、それでいて温かみのある存在に、再び触れられるかもしれない。その思いだけで、ラウルの心は軽く躍った。だが、同じ窓越しに視線を投げるエリオットの姿を思い浮かべると、途端に胸の奥が沈む。


 父がしばらく屋敷に滞在するという事実は、ラウルにとって希望の光を遮る厚い雲のように感じられた。もう外に逃げることも、自由に動くこともままならない。そう思うと、心の奥底から絶望が湧き上がる。ラウルは重い足取りで自室に戻ると、ベッドのそばに腰を下ろした。

 ふと視線をやると、机の上にゼフィランサスが置いていった模造剣があった。一見すると装飾の少ない、ごく普通の練習用の剣だ。刃は鈍く、危険なものではない。だが、鍔の根元にだけ、はっきりと刻まれた紋があった。

 鳥のような頭、交差する二本の剣。意味は分からない。ただ、妙に目を引く。見慣れないはずなのに、なぜか「ゼフィールらしい」と感じてしまう不思議な印だった。ラウルはそっと剣を手に取り、柄を握る。軽すぎず、重すぎない。頼りないはずの模造剣なのに、手の中には存在感があった。


「お守り代わりって……こういうことなのかな」


 胸の奥が少しだけ温かくなる。ラウルは剣を抱えたまま、ベッドの上で小さく呟いた。


「……ゼフィールが戻るまで、剣は振っちゃダメだよね」


 一瞬だけ考え込み、顔をしかめる。


「でも……これ、父さんに見つかったら大変だな」


 ため息をつき、ラウルは慎重に剣をベッドの下へ滑り込ませた。布に覆われた暗がりの中で、紋章だけがわずかに影を落とす。最後に手触りを確かめ、ラウルは小さく頷いた。


「……うん。ここなら、大丈夫」


 ラウルはベッドの下に模造剣を隠し終えると、ふと昼食のときアントワーヌが言っていた言葉を思い出した。


「空いてる時間に単語を覚えていけば、授業では文法だけ学べる……」


 その言葉に心を奮い立たせ、ラウルは小さく口を動かしてつぶやいた。


「よし、ゼフィールが戻るまでに単語覚えよう」


 机に向かい、開いたノートに目を落とす。ひとつひとつの単語を声に出して読み上げ、発音を確かめながら繰り返す。


「こんにちは《オラ》」


 指で単語をなぞり、目で確認し、口に出して発音。さらに頭の中で意味を思い浮かべる。


「ありがとう《グラシアス》」


 ラウルはもう一度声に出して確かめる。暗記は単なる反復ではなく、自分の声で覚えることで記憶に刻む作業だと、彼は小さな自覚を持ちながら単語を口に出し続けた。さらに、彼はすでに覚えた単語を並べて声に出すだけでなく、次の段階へ進んでいく。指で単語をなぞりながら、頭の中で意味をつなぎ、声に出して文にした。


「こんにちは、元気ですか?」


 声に出すたびに、口と耳と目で確認し、頭の中で意味を結びつける。次の文も試す。


「元気だよ、ありがとう」


 短い会話文を声に出して繰り返すことで、単語はただの文字から生きた言葉になっていく。ラウルは自分の声に耳を澄ませ、意味を理解しながら何度も繰り返す。単語一つ一つを声に出して確認する作業は、もはや彼にとって苦ではなかった。


「ゼフィールが戻るまでに、もっと話せるようになろう!」


 単語と文を口に出しながら、彼は着実に自分の言葉を身につけていく。


 やがて、窓の外に夕暮れの柔らかな光が差し込み始めた。ラウルは教室で机に向かい、鉛筆を握って今度は計算問題に取り組んでいく。数字の列を追い、頭の中で式を組み立てながら、紙の上に正確に答えを書き込む手つきは真剣そのものだった。部屋の片隅、少し離れた場所にはエリオットの姿があった。腕を組み、沈黙のまま息子の手元を見つめる。声はかけず、背筋を伸ばして立つその姿勢は無言の監督でもあり、静かに見守る保護者としての立ち位置でもあった。

 家庭教師の落ち着いた声が時折、正解や訂正を告げる。ラウルは少し眉を寄せ、考え込みながらも丁寧に計算式を書き直す。エリオットはかつて自分が同じように学んだ頃のことを思い返していた。口を開かずとも、息子の集中する姿を受け止め、そっと応援する。


 夕食の片付けが終わり、ラウルは自室に戻ってまたカスティーリャ語の勉強をしようとした時、背後から低く落ち着いた声が響く。


「ラウル、少し話がある」


 思わず肩が跳ね、ラウルの目は大きく見開かれた。心臓がバクバクと音を立てて振り返ると、エリオットは穏やかに腕を組み、視線を逸らさずラウルを見つめていた。その静かな圧に押され、ラウルは小さく息をつき、渋々ながらも頷く。


「わ、わかったよ」


 ラウルは足取りを小刻みにしながらも、父の後について食堂を出る。エリオットの部屋へ向かう道すがら、ラウルは何度も父の表情をうかがう。しかしエリオットは黙ったまま背筋をまっすぐに保ち、確かな足取りで進む。廊下の奥に見える扉に近づくと、ラウルは震える手で扉の取っ手に触れた。深呼吸を一つ。そして、そっと押す。


 扉が軋む音を立てて開くと、目の前に広がったのは、別荘地の一室とは思えないほどの厳かな空間だった。壁一面の本棚には、背表紙の色も質感もさまざまな書物が所狭しと並び、軍事戦略や航海術の書から、物語や学識に関する書籍まで、ジャンルは雑多に混ざっている。奥には大きな執務机が据えられ、その上には整然と積まれた書類や本が置かれていた。まるで父の知識と仕事が、この部屋のあらゆる隅に染み込んでいるかのようだ。

 ラウルは足を踏み入れるたびに心臓が早鐘を打つ。こんなにたくさんの本や書類に囲まれて、自分はほんの子どもに過ぎないと感じさせられる。目の前の世界の威圧感に、自然と肩がすくむと同時に、胸の奥でわずかな期待がくすぶる。父の話をどんな表情で聞けばいいのか。何を言われるのか。

 エリオットはラウルを追い越すと机の奥で静かに立ち、ラウルを振り返った。深い茶色の目が、子どもを試すかのようにじっとこちらを見つめる。ラウルは一歩、一歩、父との距離を詰めるたび、胸の奥が締め付けられた。扉が閉まる音とともに、二人だけの時間が静かに流れ始める。ラウルは小さく肩を震わせながら、父の視線を直視できずに床を見つめた。


「ラウル」


 ラウルの心臓が跳ね上がり、頭の中で警告が鳴り響く。一歩、また一歩、父の机に近づくたびにラウルの手は微かに震え、息が詰まった。エリオットは一言も発せず、机の前でじっと待っている。どんな言葉が飛んでくるのか、何を言われるのか、想像するだけで全身が緊張に包まれる。体中の血が頭にのぼり、心臓の鼓動が耳の奥で響いた。すると、エリオットはゆっくりと机の上の一冊の本を手に取り、柔らかい声で声をかけた。


「物語を聞かせよう」


 ラウルは一瞬、耳を疑った。心の中で拍子抜けの気持ちが胸を満たす。思わず顔を上げて、目の前の父の表情をじっと見つめた。父は椅子に腰かけ、慎重に本を開く。ラウルは少しだけ安心し、小さな笑みを浮かべた。


「……物語、か」


 思わず呟いたその言葉に、エリオットは微かに頷き、ラウルの前でページをめくる。


「来ないのか?」


 ラウルは心臓が高鳴るのを感じながら恐る恐る一歩、また一歩と父の側まで来ると、エリオットは自分の太腿に置いた手でそっとラウルを誘う。


「座りなさい」


 ラウルは一瞬、目を見張った。今まで父からこんな風に言われたことはなかった。どこか親しみを伴うこの指示に、心がざわつく。面食らいながらも、体が勝手に従い、父の太ももの上にそっと腰を下ろした。椅子に座るエリオットの膝の上は普段近づけない場所のはずだが、今は不思議と落ち着く感覚があった。父の視線が、自分を優しく見守っていることに気づく。ラウルは息を整え、肩を少し落としながら小さな声で呟いた。


「……座った」


 エリオットはラウルに視線を落とし、穏やかに言った。


「ラウル。言葉を学ぶのも大事だが、それと合わせて他国の文化も一緒に学ぶといい」


 エリオットの声には威圧も命令もなく、ただ知識を伝える父の温もりが宿っていた。


「文化を知ることで、言葉を話すだけでは分からない人々の考えや感情に触れられるんだ」


 ラウルは父の深い茶色の瞳に少し戸惑いながらも吸い込まれるように見入る。エリオットはゆったりとページをめくった後、低く落ち着いた声で語り始めた。


「物語には二種類ある。実際に起きた出来事を語る話と、誰かが創作した話だ。今日は実際に起きた出来事の方を語ろう」


 ラウルは頷き、エリオットの手元で開かれたページに身を乗り出した。


 エリオットが語ってくれた内容、それは東西交流の成り立ちについてだった。西の果てに大陸があって、海賊たちの楽園があるという。新大陸にまつわる不可解な出来事、バッカニアと呼ばれる勢力、列強国が大陸を手放した反動で東西間の文化交流が活性化したこと。

 しかし、ラウルの心に残ったのは物語ではなかった。自分の背後に感じる父の温もり、物語を語る父の穏やかな声音と時折振り返ればそこにある、父の柔らかい笑みだった。ラウルは息をついて振り返り、エリオットを見上げた。


「……父さんは、その海賊を倒す仕事をしてるんだよね」


 ラウルの問いに、エリオットは微かに目を細めた。笑みとも、影ともつかない表情でしばし黙し、穏やかに答える。


「国を守るためにな。もっと言えば……家族を守るためだ」


 ラウルの胸が一瞬、強く脈打つ。普段は決して弱みや本音を語らぬ父が、自分の前でだけは素直に心を開いたと感じられた。


「……そっか」


 ラウルの顔に自然と笑みが浮かんだ。まるで父の本心に初めて触れた喜びを噛みしめるように。エリオットはふと視線を落とし、ラウルのまだ小さな肩をじっと見つめた。そして、何の前触れもなく両腕を伸ばすと、ぐっと息子の身体を引き寄せる。


「——っ!」


 ラウルの全身がびくりと強張った。驚きに目を見開き、心臓が破裂しそうなほど跳ね上がる。父に抱きしめられるなど、今まで一度もなかったからだ。


「と、父さんっ……な、なに……っ」


 ラウルの声が裏返るほどに狼狽える。けれど、抗う力は不思議と湧かなかった。エリオットの腕は驚くほど温かく、力強く、それでいて優しく包み込んでいたから。


「お前がいてくれるから、俺は戦える」


 耳元に落ちる父の低い声。ラウルはまだ信じられない気持ちで固まっていたが、胸の奥にじんわりと広がる温もりに気づき、次第に頬が赤くなっていった。


 ——怖い。けれど……悪くない。


 心の奥で、そんな言葉にならない感情が芽生えていた。エリオットの胸に抱き寄せられたラウルは、最初こそ背中を反らせて逃げ場を探していたが、気づけば肩の力が抜けていた。


「……あ……」


 小さな吐息が零れた。自分が、父の腕に収まっている。ありえない状況に頭は混乱しているはずなのに、胸の鼓動は次第に落ち着いて、全身から硬直が解けていった。

 エリオットは息子の変化を感じ取ったのか、腕に少しだけ力を込めて抱きしめ直す。

 ラウルはぎこちなくも、そっと父の服を掴んだ。

 生まれて初めて、父の温もりに身を委ねる。そんな当たり前のようで、夢のような時間が流れていた。

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