第二章② ラウルとゼフィランサス
ラウルは胸を張り、額にうっすら汗をにじませながらも満足そうに笑った。小さな剣士の目には、まだ知らない技術と成長の世界が広がっていた。ラウルは頬を赤らめながら剣を構え直した。
「もっといける気がする、さっきより速くしよう!」
ゼフィランサスが声をかけるより早く、ラウルは突きから斬り下ろしへと流れを急ぎ、次の動きへと飛び込む。
「ひっ、はっ、ふっ!」
息を切りながらも、必死にスピードを上げていく小さな姿に、ゼフィランサスは目を細め、すぐに異変に気づいた。ラウルの呼吸が乱れ、浅く速く、胸が上下しすぎている。
「ラウル、待て!」
ゼフィランサスが声をかけた瞬間、ラウルの剣先がふらつき、足元も覚束なくなる。
「……はぁっ、はぁっ、はっ……!」
ラウルの顔は真っ赤に染まり、目が潤んで焦点を結ばない。ゼフィランサスは咄嗟に剣を払い落とし、膝をついてラウルの体を抱き止めた。
「ラウル! 落ち着け、深呼吸だ!」
ゼフィランサスの手がラウルの背中を支え、もう一方の手で小さな胸を軽く押さえた。
「いいか、オレと一緒に吸って、吐くんだ……ゆっくりだ、ゆっくり!」
ラウルは必死に息をしようとするが、うまく吸えず涙が滲む。
「ゼ、ゼフィール……く、くるしい……」
「大丈夫だ、怖がるな! オレがいる!」
ゼフィランサスはラウルの視線を捉え、穏やかで強い声を重ねた。
「ほら、オレを見ろ。吸って……吐いて……そうだ、ゆっくりでいい……」
庭を渡る風が木々を揺らし、二人の荒い呼吸の音が響く。やがて、ラウルの胸の上下が少しずつ落ち着きを取り戻し、過呼吸の波が収まっていく。ゼフィランサスは強く抱きしめるようにラウルを支え、安堵の息をついた。
「無茶するな……お前はまだ子どもだ。焦らなくていい」
ラウルは涙のにじむ目で彼を見上げ、かすかに頷いた。ゼフィランサスは小さな頭を撫でながら、胸の奥で「もう二度と失わせはしない」と深く誓った。やがて、ラウルの呼吸がようやく安定してきた。小さな胸が上下するリズムはまだ速いが、先ほどのような荒さは消えている。ゼフィランサスは腕の中でぐったりする少年を見下ろし、深く息を吐いた。
「……落ち着いた?」
ラウルは涙のにじむ目で小さく頷くが唇は震え、声を絞り出すように言った。
「……でも……ボク、強くなりたいんだ。昨日みたいに、いじめられて……悔しかったから……」
その言葉に、ゼフィランサスの胸が締めつけられる。力なき者の痛み、幼い少年が必死に抗おうとしている。ゼフィランサスはしばし目を伏せ、それからゆっくりと顔を上げた。
「……ラウル。強さってのは焦って掴むもんじゃない。剣を早く振れば強くなるわけでもない。時間をかけて、少しずつ積み重ねていくもんだ」
「でも……」
「子どもの体は大人みたいに急に強くはならない。無茶すりゃ、さっきみたいに苦しくなるだけだ」
ラウルは唇を噛んだ。悔しさと無力感が胸に広がるが、頭に置かれたゼフィランサスの手の温もりが不思議と心を落ち着けていった。ゼフィランサスは少年の目をまっすぐ見つめる。
「強くなりたい気持ちがあるなら、それを捨てるな。けど急ぐな。……本当に強い奴ってのは、どんなに時間がかかっても諦めずに歩き続ける奴のことだ」
ラウルは目を潤ませたままこくりと頷いた。ゼフィランサスはその姿に微笑み、そっと額に触れて髪をかきあげる。
「よし。今日はここまでだ。お前の体はまだ小さいが……心は、もう十分大きい」
ラウルはその風の中で、ゼフィランサスの言葉を胸に刻む。
——焦らず、諦めず。ゆっくりでも、強くなる。
まだ浅い呼吸を繰り返しながら、ぽつりと呟いた。
「ボク、いつになったら強くなれるかな」
ゼフィランサスは黙ってその横顔を見つめ、しばらく考えるように目を細めた。やがて、彼は立ち上がってラウルを見下ろす。
「……ラウル。その発作、いつからだ?」
不意に投げかけられた問いに、ラウルは一瞬だけ言葉を失った。考え込むように視線を落とし、しばらくしてからゆっくりと首を振る。
「……わからない。いつから、とか……たぶん、ないんだと思う。気づいたら、ずっとこうだった」
ゼフィランサスは口を挟まない。ただ、急かさず待つ。ラウルは小さく息を吸い、指先をきゅっと握りしめた。
「……パリにいた頃から、かも。でも……」
ラウルは言い淀み、胸のあたりを押さえた。
「見られるのが、怖いんだ」
ゼフィランサスの眉がわずかに動いた。
「……見られる?」
ラウルはゆっくりと頷いた。
「どこに行っても……大人も子どもも……ボクを見ると、ちょっとだけ目が変わる」
ラウルは言葉を探すように唇を噛んだ。
「嫌ってる人もいるし……気味悪そうにする人もいるし……珍しいものみたいに、じっと見る人もいる。何もしてないのに……ただ、見られるだけで……息が、苦しくなる」
ラウルは顔を伏せたまま続ける。
「……街に出るのも、すごく怖い……目を合わせるのも……声を出すのも……」
喉が詰まったように、一度言葉が途切れる。
「でも……弱いままなのは、もっと嫌だ」
ゼフィランサスの胸にずしりと重いものが落ちた。
——そうか。この子は世界に見られ続けて、削られてきたんだ。
ラウルはようやく顔を上げた。翡翠の瞳が、わずかに揺れている。
「だから……強くなりたい。怖くなくなりたい。見られても……立っていられるくらいに」
しばらく沈黙が落ちた。ゼフィランサスは唇を引き結び、ゆっくりと息を吐く。胸の奥で静かな怒りが燃え上がっていた。
——なあ。こんな時に……どうして、お前はいないんだよ。
責める言葉は出てこないが親友の顔が浮かび、どうしようもなく歯噛みする。
——守るために、強くさせたんじゃないのか。だったら、この子が一番苦しい時に……側にいろよ。
ゼフィランサスは何も言わず、ラウルの背中にそっと掌を添えた。少年の身体がわずかに強張るが、それでも逃げず、ゼフィランサスの温もりに身を預けた。
「……大丈夫だ。今はまだ強くなくていい。立てなくてもいい」
ゼフィランサスは手のひらに伝わる、か細い鼓動を受け止めていた。
「オレは、ここにいる。少なくとも……お前が話す間は、見張り役くらいはできる」
ラウルの肩がほんの少しだけ下がった。庭を渡る風が草を揺らし、遠くで鳥が鳴く。ゼフィランサスの胸の奥で、言葉にならない決意が形を持ち始めていた。
——この子が“強くなりたい理由”を、オレはもう見誤らない。
ゼフィランサスは、しばらく黙ったままラウルを見つめていた。少年の肩はまだ強張り、視線は落ちたまま。沈み込んだ心が、そのまま底へ向かってしまいそうな気配がある。
——このままにしとくのは、よくねえな。
ふっと空気を変えるように、ゼフィランサスは口を開いた。
「なあ、ラウル。ひとつ聞くけどよ」
ゼフィランサスの唐突な声音に、ラウルはびくりと肩を揺らして顔を上げた。
「自分の目の色について……何か、聞いたことあるか?」
「……え……?」
ゼフィランサスの問いの意味が分からず、ラウルは瞬きを繰り返す。ゼフィランサスは構わず続けた。
「緑の目はな。こっちじゃ、妙な言われ方されがちだ。毒だの、不吉だの……まあ、ろくなもんじゃねえ」
ラウルの指先が無意識にぎゅっと握られる。が、次の言葉は予想していたものとは違った。
「けどな。東のほうじゃ、話がまるで逆だ」
ゼフィランサスは少しだけ口の端を上げる。
「東に棲む連中。海の向こうの国じゃ、緑の目は“守りの色”だ。災いを遠ざける、縁起のいい色だって言われてる」
ラウルはぽかんとした顔でゼフィランサスを見つめた。
「……守り……?」
「そうだ。特に、君の目はただの緑じゃない」
ゼフィランサスはラウルの瞳をまっすぐ見据える、はっきりと言った。
「翡翠だ。翡翠色の目だよ。深くて、澄んでて……簡単に割れない色だ」
ラウルは息をするのも忘れたように固まっている。
「翡翠ってのは、東じゃ御守りにもなる石だ。身につけると、悪いもんから守ってくれるって言われてる。命をつなぐ色だ」
しばらく語ったあと、ゼフィランサスは肩をすくめた。彼の声音は先ほどまでよりずっと柔らかい。
「……要するにだ。君の目は毒でも不吉でも、邪悪なもんでもない」
ラウルの喉が小さく鳴った。
「人が勝手に怖がってるだけだ。色に意味を押しつけて安心したいだけ」
ゼフィランサスは視線を逸らさず、静かに言い切る。
「少なくともオレは、そう思わねえ」
沈黙が落ちる。ラウルはしばらく動かなかったが、やがて恐る恐る自分の胸元に手を当てた。
「……翡翠……」
呟きはまだ信じきれない響きを含んでいたが、胸の奥で何かがキラリと光った。ゼフィランサスはラウルの翡翠色の瞳から視線を外すようにふっと遠くを見る。
「……ま、別に珍しい話じゃない。色に意味を押しつけられて、居場所を失うなんてのはな。オレの周りにも、いくらでもいた」
ラウルは息をひそめて、その言葉を待った。ゼフィランサスは肩をすくめる。
「オレの家族にもいるよ。君と同じだ。フランス生まれで、言葉も文化も何一つ違わねぇのに……目の色が“紫”だってだけで、気味が悪いって言われてな」
ラウルの指先がわずかに震えた。
「縁起が悪いだの、呪われてるだの。そんな理由で、親に捨てられたガキだ」
ゼフィランサスの声には怒りも憐れみもない。ただ、事実を並べているだけだった。
「生きるために逃げて、隠れて、名前を変えて……それでも生き延びた。強い奴だよ」
ラウルは小さく息を呑む。ゼフィランサスは、今度は少しだけ口角を上げた。
「それと、オレの相棒は左右で目の色が違う」
ラウルは思わず顔を上げる。
「え……?」
「片方は明るい色で、もう片方は……まあ、見たら忘れねぇ色だ」
ゼフィランサスはどこか可笑しそうに、誇るように続けた。
「最初はな、ガキの頃から化け物扱いだ。怖がられて、殴られて、石投げられて……君とそう変わらねぇ。でも、そいつは言ったよ。『違うってだけで、劣ってるわけじゃない』ってな」
風が庭を渡った。草が揺れ、葉が擦れる音がする。ゼフィランサスはラウルの目線までかがみ込み、静かに言った。
「……だから君の目が翡翠だろうが、紫だろうが、左右で違おうが……それは“排除される理由”じゃない。生き延びる理由だ」
ラウルの胸の奥で何かが小さく鳴った。ゼフィランサスは続ける。
「……オレの周りの連中はな。色を理由に、世界から追い出された。だからこそ、“どこにも属さない場所”を自分で作ったんだ。……君も、そうなれる」
ラウルはすぐには頷けなかった。けれど、伏せていた視線がほんの少しだけ上がる。ゼフィランサスはしばらく沈黙を保ったあと、低い声で切り出した。
「ラウル。しばらく剣術は控えた方がいいかもしれない。なにより君の身の安全のためだ」
ラウルは驚いたように顔を上げる。
「え……でも、ボク……!」
抗議の言葉は喉でつかえ、次の呼吸と一緒に震えとなって漏れた。ゼフィランサスはその小さな肩をそっと支え、真剣な眼差しで見つめる。
「安心しろ。剣をやめろと言ってるわけじゃない。まずはその発作をどうにかしよう」
ラウルは戸惑いながらも目を瞬かせる。
「どうにか……できるの……?」
「病気じゃない。だから完全に治るものではないだろうけど、少しでも楽に呼吸できるようにする方法はあるはずだ」
ゼフィランサスは言葉を区切り、ふと遠い記憶を思い返すように目を細めた。
「さっき話した家族の中に、東洋から来た者がいる。彼らは強さを語る時、必ず“呼吸”を大事にするんだ。力を出すにも心を鎮めるにも、呼吸がすべての基盤になると。……そこにヒントがあるかもしれない」
ラウルの瞳がわずかに見開かれる。
「呼吸が……強さの秘訣……」
ゼフィランサスは力強く頷く。
「そうだ。剣を振るうのも、勉強するのも、生きていくのも……呼吸から始まる。だから、まずは一緒に学んでみよう。お前ならきっとできる」
ラウルは唇を噛みしめ、胸の奥で新しい希望を灯した。
——強くなるための道は一つじゃない。
ゼフィランサスの言葉が、彼の小さな胸に温もりを刻んでいく。
「オレは呼吸の使い手じゃない。だから今度、その東洋人に見てもらおうと思う。それには、しばらくここから離れなきゃいけない」
唐突に告げられた別れに、ラウルははっと顔を上げた。
「え……いつになったら帰ってくるの?」
ゼフィランサスは苦笑を浮かべる。
「分からない。なんせ、その東洋人も気難しいやつだからな」
ゼフィランサスが軽口を叩いたのも束の間、彼の眼差しはすぐに真剣に引き締まった。
「けど、必ず戻る。その間、無理に剣を振ろうと思うなよ」
ゼフィランサスは踵を返しかけて、ふと思い出したようにラウルを振り返った。
「ああ、そうそう。これはお守り代わりにでもしとけ」
そう言ったゼフィランサスは茂みの奥に手を突っ込むと、一本の模造剣をラウルの膝にそっと置いた。彼はそのままラウルに背を向け、駆け出す直前にもう一度だけ振り返る。
「カスティーリャ語、長く喋れるようになれよ」
突風のように駆け去ったゼフィランサスの背中は、もうどこにも見えなかった。静まり返った庭にひとり残され、ラウルは模造剣を抱きかかえるようにして立ち上がった。
「……なんだよ」
小さく鼻をすするようにして呟いた。胸の奥が締め付けられるように寂しいのに、なぜかほんの少し誇らしくもある。
「ゼフィールの方が、父さんよりよっぽど父親っぽいじゃん」
吐き捨てるように言ったくせに、胸の内ではそれが事実だと認めている自分がいて、余計にむず痒くなる。父の顔を思い浮かべれば息苦しくなるのに、ゼフィランサスの笑顔を思い返せば不思議と心が軽くなる。その矛盾が、幼い胸の奥に小さな棘のように残った。ラウルは唇を噛みしめ、模造剣をぐっと強く握りしめる。
「……父さんより、強くなるんだ」
子供らしい拗ねと皮肉、それに負けず嫌いの決意がラウルの声に宿っていた。




