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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】1・2巻「誕生編」  作者: セキユズル
第二章「翡翠だ。翡翠色の目だよ。深くて、澄んでて……簡単に割れない色だ」
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第二章③ ラウルと父

 その後、ラウルは自室の机に模造剣を置いた瞬間、胸の奥で何かがひらめいた。


「あ……!」


 目の奥が真っ白になり、頭の中で時計の針が高速で回るような感覚が走る。

 今日は、ソフィーが都会へ出発する日だ。慌てた気持ちが体を突き動かし、ラウルはそのまま廊下へ飛び出した。屋敷の廊下は、ラウルにとって果てしなく長く感じられた。両脇に並ぶ扉、壁の飾り棚、遠くに見える階段。ひとつひとつが永遠のように思える。足音が木の床に響き渡り、心臓の鼓動がそれに呼応してバクバクと鳴った。


「ラウル、どうしたの!?」


 ミレーユの心配そうな声が、廊下の奥から追いかけてくる。ラウルは振り返る余裕もなく、首を小さく横に振るだけで再び走り出した。息が荒く、胸が締めつけられる。小さな体が全力で床を蹴っても、まるで廊下が無限に伸びていくかのように感じられて焦燥感を余計に増幅させた。それでもラウルの小さな足は止まらず、手は空中をかきながら、全力で屋敷の出口を目指す。長い階段を駆け降り、手すりをかろうじて握り、足元に集中し、やがて玄関口の広いエントランスにたどり着いた。


「やっと……!」


 両手を伸ばして扉に触れようとした瞬間——


 ガシャッ!


 扉が勢いよく開き、中から入ってきた人物と激しく衝突した。


「うわぁっ!」


 尻もちをつき、手や膝が痛い。冷たくざらついた床に体が沈み、頭が少しクラクラする。

「痛いなあ、誰だよ!」


 ラウルは勢いで顔を上げた。目の前に立っていたのは、巨大な影。ラウルはみるみるうちに顔面蒼白になった。


「……父さん……」


 ラウルの声が震え、喉に詰まった。胸の奥がぎゅっと締めつけられ、呼吸も一瞬止まった。心臓は跳ねるように鳴り、耳鳴りが混ざる。小さな手は床を握りしめ、膝は震え、背中の筋肉は硬直したまま動かない。


 エリオット・レオパード——父親。


 大人の精悍な顔立ち。鋭く切れ込むような濃い茶色の瞳は、床に沈むラウルをじっと見下ろしている。まるで一瞬たりとも逃さないかのような鋭さで、小さな心臓に直接突き刺さった。暗褐色の髪が陽の光に当たるたびに、ラウルの視界に緊張感を刻みつける。

 服装はフランス海軍参謀官の正式な制服。肩章や金の飾りが整然と輝き、体に沿った線と精巧な縫製が、父親の体躯に重厚さと威厳を与えていた。ラウルは尻もちをついたまま、固まっていた。

 父親の手が自分に伸びるのを感じ、ラウルは思わず身構え、ぎゅっと目を閉じる。次の瞬間、頭に重みが乗った。意外にも温かい。恐る恐る目を開けると、そこには屈んで頭を撫でる父エリオットの姿があった。


「危なかった、ぶつかったのが俺でよかったよ」


 ラウルは一瞬、言葉を失った。記憶の中の父親はいつも厳しく、冷たく、手を出すことすら恐ろしい存在だったはずなのに、今目の前にいる父親は穏やかに微笑み、どこか優しい雰囲気をまとっている。胸の奥で、恐怖と面食らった気持ちが同時にせめぎ合った。ラウルは少し戸惑いながら呟く。


「あの……おかえりなさい」


 エリオットは優しく微笑み、軽くうなずきながら応える。


「うん、ただいま。元気か?」


 ラウルは胸の奥でざわつく気持ちを押さえ、気まずそうに目をそらしながら答える。


「うん、何とか……」


 ラウルの声は小さくぎこちないけれど、どこかほっとした響きを帯びていた。エリオットはラウルの腰にそっと手を添え、力を入れすぎずに持ち上げる。


「さあ、立ちなさい」


 ラウルは少しふらつきながらも、父親の手に導かれてゆっくりと立ち上がる。膝やお尻の痛みがまだ残る。エリオットはラウルを見下ろし、優しく微笑んだ。


「よし、これで無事だな」


 ラウルは小さくうなずき、ほんの少し安堵を覚えた。その瞬間、ミレーユが慌てて廊下から駆け寄ってきた。


「エリオット、おかえりなさい!」


 ミレーユの声に弾むような喜びが溢れ、ミレーユはエリオットの肩に両手をかけて軽く飛びつくように抱きついた。エリオットも自然に腕を回し、軽く彼女を抱き返す。長い間離れていた二人の体温が、言葉以上に再会の喜びを伝えていた。ラウルは距離を置いたまま、母と父の笑顔を見つめる。


 ——ああ、やっぱり父さんが大事なんだな。


 自分だけが少し孤独な観察者のような気分になっていた。やがて、ミレーユはエリオットから身を離して口を開いた。


「予定よりずいぶん早い帰還ね」


 エリオットは肩をすくめ、苦笑を浮かべる。


「任務が思いの外早く片付いた。あと、上官から無理やり休暇を取らされた」

「そうですか」


 ミレーユが小さくうなずき、嬉しそうに父親の手を取った。ラウルの胸の奥で何かがざわつく。本来、喜ばしいはずなのに、呆れと失望が交錯する感情が静かに押し寄せた。ミレーユはにこやかに続ける。


「もうすぐ昼食の時間ですし、三人で食べましょう」


 ミレーユの言葉を聞いた瞬間、ラウルの胸が跳ねた。ソフィーと交わした約束が鮮明に脳裏をよぎる。心臓が早鐘を打ち、額にじっとりと汗がにじんだ。


「あ、ボクは……あとで大丈夫」


 ラウルは二人から視線を逸らしながら、慌てて言葉を継ぐ。


「父さんと母さん、二人で過ごしてよ」


 そのまま父の横をすり抜けようとした。庭に出て、外の空気を吸ってしまえば逃げられる。そう思った瞬間、エリオットが口を開いた。


「ラウル、待て」


 ラウルの背筋に冷たいものが走り、足が止まる。振り返ると、エリオットは腕を組んでいた。眉間に寄った皺は深くない。が、眼差しは逃げ場を与えない。ラウルの胸はきゅっと縮み、息を詰めたまま視線を受け止める。


「どこへ行くつもりだ?」

「……散歩だよ」


 ラウルは咄嗟に笑顔を作る。


「遠くへは行かない」

「嘘はつくな。正直に言いなさい」


 見逃してくれないエリオットに観念し、ラウルは肩を落とす。


「……友達のところ」


 一瞬の沈黙。エリオットは少しだけ目を細めて問いを重ねた。


「その友達は、ちゃんとお前の目を見て話してくれるのか」


 ラウルの胸がどくんと鳴った。


「見た目じゃなく、ちゃんとお前を見ているか。それとも、ただ何も言わないだけか」


 エリオットの言葉に、ラウルは思わず声を張り上げる。


「ソフィーは……! ボクの目を見ても、怖がらない! 逸らしたりしない!」


 必死だった。それがどれほど特別なことか、幼いなりに分かっていたから。エリオットは腕を組んだまま静かに言った。


「何も言わない優しさほど、当てにならないものはない。人はな、心の底で何を考えているか分からない。それが一番、厄介だ」


 エリオットの言葉は刃のようだった。ラウルの胸にグサリと突き刺さる。、胸の奥で悔しさが渦を巻くと同時に、消えかけていた小さな火がぱちりと音を立てた。負けたくない。誰にも、自分の信じるものを勝手に決めつけられたくない。ラウルは小さな体を震わせながら声を振り絞る。


「でも……ボク、約束したんだ。ソフィーと会うって」


 エリオットは静かに息を吐き、低い声で言った。


「約束の問題ではない。街に出れば、何を見られるか分からない。誰が、どういう目でお前を見るかもな」


 父の淡々とした言葉、その一つ一つがラウルの胸を締めつける。


「お前はまだ子どもだ。世の中は、お前が思っているほど優しくない」


 ラウルはぎゅっと拳を握り、必死に言葉を探す。


「でも、ソフィーは……ボクの大事な友達だよ」


 それ以上、上手く言えなかった。エリオットの視線がラウルを射抜く。


「大事だと思っているのは、お前だけかもしれない。人は何も言わずに、心の中で線を引くことがある」


 ラウルの胸の奥がずきりと痛んだ。言われたくなかった言葉。けれど、ずっと恐れていた言葉でもあった。


「それでも……」


 ラウルの声は震えていた。だが、目だけは逸らさなかった。


「だったら……ちゃんと聞いてくる」


 エリオットがわずかに眉をひそめる。


「何をだ」


 ラウルは、はっきりと言った。


「ソフィーが、ボクの目を見て何を思っているか」


 反抗ではなかった。逃げでもなかった。確かめたい。信じたいなら、ちゃんと自分で。


「ボクは自分で知りたい」


 その瞬間、何かが弾けた。恐怖も、迷いも、父の言葉も、全部を背中に押し流して、ラウルは踵を返して地を蹴った。


「ラウル!」


 母の声が聞こえた気がした。だが、振り返らなかった。石畳を全力で駆け抜け、門を押し開く。外の空気が一気に肺に流れ込み、心臓が暴れるように脈打つ。昼の光。街の匂い。足裏に伝わる固い感触。全部が、今の自分を試しているようだった。


「ソフィー……待ってて……!」


 小さな声が風に乗って、ラウルはためらわず足を前へ前へと運ぶ。広場の人々や馬車の影が目に入り、村の雑踏が迫る。しかしラウルの目は孤児院だけを見据えていた。蹴るたびに小さな靴が鳴り、遠くで犬が吠える声も露店の呼び声も、すべてが疾走する自分の心拍に重なる。長い通り、曲がり角、橋を渡るたびに視界が変わり、ラウルの小さな胸は期待と焦りでいっぱいになる。


「間に合え……!」


 息が切れ、胸が苦しい。それでもラウルは足を止めない。道の凸凹や人混みに躓きそうになっても、全力で体勢を立て直す。村の景色が次々と流れ去り、壁の影や木の葉の隙間をすり抜ける風が頬を打った。やがて、通りの向こうに孤児院の建物が見え始めた。ラウルの胸に再び希望の光が灯り、最後の力を振り絞って駆け抜ける。孤児院の門の前にたどり着くとラウルは息を荒げ、胸に手を当てた。全身が火照り、汗と埃でぐっしょりだ。


「ソフィー……遅くなってごめん!」


 小さな声が孤児院の静かな空気に響く。ラウルは孤児院の門前で膝に手をつき、肩を大きく上下させながら息を整える。汗が額を伝い落ちるのも構わず、ただ建物の扉を見つめていた。その時、重い扉がぎぃ、と音を立てて開き、年配の職員が姿を現す。見慣れぬ貴族の子の姿に、一瞬怪訝な目を向けながらも職員は足を止めた。ラウルは職員の視線に怯むことなく、必死の思いで口を開く。


「ソフィー、ソフィーいますか?!」


 職員は短くため息をつき、淡々と答える。


「ソフィーなら、もうここにはいません。引き取り相手が迎えに来て、先ほど孤児院を去りましたよ」


 その言葉が落ちた瞬間、ラウルの胸を激しい衝撃が貫いた。頭の奥で鐘が鳴るような耳鳴りが響き、目の前の景色が歪んで揺れる。足元の石畳が遠ざかるように感じられ、膝がわずかに震えた。職員の声はそこで途切れ、あとの言葉が届かない。まるで世界の音そのものが急に遠のいたかのようだった。


「……そんな……」


 かすれた声が喉から漏れ出す。さっきまで全力で走り抜けてきた道のりが、すべて無意味になった虚無感。胸の奥が空洞になり、心臓だけがやけに痛いほど跳ねている。


「……いない……?」


 小さく反芻する声が、誰にも届かずに消えていく。胸の奥に冷たい穴が空いたようで、呼吸をしているのに空気が肺に入っていかない。長い廊下を走り抜け、村を駆け抜け、ここまで辿り着いた。その全ての意味が崩れ落ちるように消えていく。足は地面に縫いつけられたように動かない。いや、動かす気力すら残っていなかった。頭では理解しようとするのに、心が追いつかない。

ソフィーがいない。もうここにはいない。その単純な事実が、どうしても現実として飲み込めない。孤児院の門前に、時だけが止まったようにラウルは立ち尽くしていた。その様子を遠くから見ていたエリオットは静かに息を整え、足音を忍ばせるようにして近づいていった。


「……ラウル」


 エリオットはラウルに触れることはせず、ただ傍らに立つ。


「寒くはないか? 上着を持たずに飛び出してきただろう」


 気遣いの言葉は叱責ではなく、ただ彼を心配してのものだった。ラウルが返事をしなくとも、エリオットは無理に振り返らせはしない。同じように孤児院の扉を見つめながら、静かにその沈黙を受け止めていた。


「……知りたいことも、確かめたいことも、山ほどあるのだろう。けど、一人で背負い込むにはあまりに重い。せめて、その半分を俺にも担わせてくれないか」


 ラウルは振り向かない。けれど、エリオットはそれでいいとでも言うように傍に立ち続けている。先に沈黙を破ったのはラウルの声だ。


「……ソフィー、もう出て行ったって」


 ラウルは地面を見つめたまま、指先をぎゅっと握りしめる。


「約束……守れなかった」


 エリオットは静かにまぶたを伏せた。


「……引き止めて、悪かった」


 ラウルはぶるりと首を振る。


「ううん、ボクが約束忘れてたから……ボクが悪いんだ」


 ラウルは小さな声で言い切ると、もう言葉を継げなかった。エリオットはすぐには返事をしなかった。慰めの言葉をかけようとすればするほど、彼の胸の奥でうずくものが強くなる。

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