第二章① ラウルとゼフィランサス
朝の柔らかな光が机の上に落ちた。
ラウルは眠そうな目をこすりながら、家庭教師の前に座る。
カスティーリャ語の授業が始まり、基本の挨拶、簡単な会話を学んでいく。六歳の小さな手がペンを握り、ノートに文字を綴られていった。
ホーラ、アディオス、コーモ・エスタス。
家庭教師が優しく発音を正し、ラウルは繰り返す。最初はたどたどしかった声も、一つ一つの音を丁寧に繋げるうちに、次第に形になっていった。
「私の名前はラウルです《メ・ジャモ・ラウル》」
自分の名前を、異国の言葉で口にする。小さな達成が、胸の奥で温かく広がった。授業の終わりに、家庭教師は小さなノートを差し出す。
「今日の復習として、カスティーリャ語で日記を書いてみましょう」
ラウルは目を輝かせ、鉛筆を握った。
「今日は市場へ行った《オイ・フイ・アル・メルカード》。野菜と魚を買った《コンプレ・ベルドゥーラス・イ・ぺスカード》。疲れたけど、嬉しい《エストイ・カンサド、ペロ・フェリス》」
短い文章を丁寧に綴りながら、ラウルは満足そうに微笑む。
「外国語って、面白いね! ボク、今日からずっとこれだけ勉強したいな」
家庭教師は穏やかに首を振った。
「外国語は楽しいですが、計算も大切ですよ。どちらも無視してはいけません」
ラウルは少し不満そうに唸ったが、やがて小さく頷いた。
「……わかった。じゃあ、計算もやる。でも、外国語も続けたい!」
「その通りです。少しずつ、無理なく進めましょうね」
外国語と計算、両方の学びを胸に刻んで。ラウルはノートを閉じ、目に小さな輝きを宿して立ち上がると、庭のほうへ駆け出した。まだ昼前の柔らかな陽光が屋敷の庭を包み、露を含んだ芝生や花々がきらきらと輝いている。鳥のさえずりが風に乗り、遠くで水車の音が穏やかに響いた。ラウルの足音が小道に跳ね、風に揺れる葉のざわめきが追いかけるように重なる。空は淡い水色に澄み、雲はゆっくりと流れていった。
「ゼフィール……会いに行こう」
柔らかい土の感触と草の匂いが鼻をくすぐり、軽やかな風が頬を撫でる。小径を抜けると、ラウルの視界にゼフィランサスの背中が現れた。彼の影が芝生の上に長く伸びている。ラウルは一歩一歩、心臓の鼓動を感じながら近づいた。
「ゼフィール」
小さな声で名前を呼ぶ。振り向いたゼフィランサスはラウルの姿に気づき、少し微笑んだ。
「おや、ラウルか。こんなところでどうした?」
ラウルは少し照れくさそうに立ち止まり、でも胸の奥のわくわくを抑えきれずに口を開いた。
「えっと……! おはよう《ブエノス・ディアス》!」
ゼフィランサスは一瞬、目を丸くした。フランス語と違う響きの言葉が、まさかラウルの口から飛び出すとは思っていなかったのだ。
「……おお、それはカスティーリャ語じゃないか。お前、話せるのか?」
ラウルは自慢げに小さくうなずき、胸を張る。
「うん、家庭教師に教わった! 文字も少しだけ書けるようになったんだ!」
ゼフィランサスは笑みを深め、目を細めた。
「ふむ……なるほど、なかなかやるな、ラウル。これは驚かされたぞ」
ラウルはニコニコと笑った。庭に漂う柔らかな風が髪を揺らし、太陽の光が彼の笑顔を照らす。
「でも、もっと覚えたい!」
ゼフィランサスは目に優しさを湛えて頷いた。
「しっかり勉強して、次はもっと長く話してみろ」
ラウルの目は輝き、習ったばかりのカスティーリャ語を繰り返すとゼフィランサスは眉をひそめ、口元に微かな笑みを浮かべた。
「……なんだろ、ちょっとむず痒い」
ラウルはきょとんとした顔で見上げた。
「むず痒い……って、どういうこと?」
ゼフィランサスは膝を少し曲げ、ラウルと目線を合わせるようにしゃがんだ。
「ラウル。お前の発音はすごく上手なんだ。ただ、少し上品すぎるというか……やや硬い感じがする」
ラウルは首をかしげ、顔に不思議そうな表情を浮かべた。
「言葉ってのは厄介だ。同じ言語でも、人が生まれた地域や育った環境で少しずつ違う。これを『訛り』っていうんだよ」
ゼフィランサスの言葉に、ラウルの目が大きく見開かれる。
「訛り……?」
「そう。たとえば町の人や家族の話し方、市場で聞く言葉、それぞれ少しずつ違う。だから、同じ言葉でも場所や人によって音や響きが変わるんだよ」
ラウルは少し考え込み、額に手を当てながら小さく頷く。
「ふーん……だから、ボクの言い方はちょっと変に聞こえちゃうのか」
「そういうことだ。でも心配はいらない。発音は練習で少しずつ自然になるし、何よりお前が話す気持ちが一番大事だ」
ラウルは目を輝かせ、力強く頷いた。
「うん。ボク、もっと練習する!」
ゼフィランサスは微笑みながらラウルの肩に手を置く。
「その意気だ。言葉も剣も、焦らず少しずつ覚えていこうな」
ラウルはゼフィランサスをじっと見上げ、好奇心たっぷりに尋ねた。
「ゼフィールって物知りだね。カスティーリャ語も知ってるみたい、それに変わった服も着てる。フランス人じゃないよね?」
ゼフィランサスは少し肩をすくめ、柔らかく笑った。
「そうだな。オレは普段から色んな国の奴らと接してる。だから、最低限のコミュニケーションは取れるようにしてるんだ。挨拶とか、ちょっとした日常会話とかね」
ラウルは目を輝かせながら聞き入る。
「いろんな国の人と? へぇ……」
ゼフィランサスは少し真剣な表情になり、庭の草に目をやりながら続けた。
「ただな、オレが全く知らない言葉もあるんだ。そういう時は相手をよく見て、何を伝えたいのか、何を考えてるのかを観察する。自分も身振り手振りで相手に伝えて、とにかく想いを届けるんだ」
ラウルはそれを聞き、口を少し開けて感心した顔をする。
「言葉がわからなくても、気持ちは伝えられるんだ」
ゼフィランサスはにっこりと微笑み、ラウルの頭を軽く撫でた。
「そうだ。お互いの言葉は分からなくても、人に宿る感情と想いは同じだから。諦めないことだ」
ラウルは少し首をかしげ、好奇心に満ちた瞳で尋ねた。
「ゼフィールの友達って、どんな人たちなの?」
ゼフィランサスは肩をすくめ、遠くを見つめるようにして答えた。
「色んな奴がいる。フランスはもちろん、ヨーロッパ各地、砂漠の国、北欧、それに東洋から来たやつもいるんだ。まあ、オレも砂漠生まれだし」
ラウルは目を大きくして聞き入る。
「えっ、そんなに……!」
ゼフィランサスは少し笑みを含んでラウルに視線を移した。
「友達というより、家族だな。一緒に暮らしてるんだよ」
ラウルは目を輝かせたまま尋ねた。
「ゼフィール。ボクもいつか、いろんな国の人と友達になれるかな?」
ゼフィランサスは優しく微笑み、ラウルの頭を軽く撫でた。
「もちろん。お前が人の気持ちを大切にする子なら、必ずできる。言葉や文化が違っても、心が通じ合えば友達になれるんだ」
「それ、本当……?」
ラウルは少し間を置き、胸の内に抱えていた思いを静かに打ち明けた。
「ゼフィール……ボク、どっちが上とか、誰が勝ったとか、そんなこと考えたくないんだ。だって、そんなのがあるから、みんな喧嘩するでしょ? 喧嘩しなければいいのに……」
ゼフィランサスは一瞬、言葉に面食らったように目を見開く。彼の顔には苦しげな陰がちらりと差し込み、ゆっくりと息をついた。
「……そうだな……オレも、本当は喧嘩なんてしたくない」
彼の声にはどこか重い響きが含まれていた。ラウルの言葉は、まるで小さな光のようにゼフィランサスの胸の奥をくすぐり、かつての自分の葛藤や、賊として暴れまわる日々の意味を思い起こさせた。
「でも……事情があって、オレはこうするしかない。暴れ回るのも、誰かのために守るために……だから、強さを持つってのは、時にやりたくないことをする覚悟でもあるんだ」
ゼフィランサスは視線を遠くに向け、少し寂しげに空を見上げる。ラウルはその表情をじっと見つめながら、言葉の重さを理解しようとする。
「……そっか……」
ラウルの小さな声には、納得と少しの戸惑いが混ざっていた。ゼフィランサスは、深いため息をつき、ふっと肩の力を抜いた。そして、いつもの明るさを少し取り戻した声で言った。
「よし……じゃあ、今日も訓練するか!」
ラウルは途端に目を輝かせ、自然と背筋を伸ばした。ゼフィランサスは一度茂みの中に消え、再び戻ってくるとラウルに木剣を渡し、構えを示した。ラウルは少し緊張しながらも、ゼフィランサスの動きを目で追った。
「まずは昨日の復習だ。剣を握る手の角度、足の位置……そのまま真似してみろ」
ゼフィランサスの声は優しいが、指示は的確で厳しい。ラウルは小さな手で剣を握り、足を揃え、何度も構えを繰り返す。
「いいぞ、ラウル。その調子だ。焦らなくていい、少しずつな」
ゼフィランサスの言葉に励まされ、ラウルは少しずつ自信を持ちながら剣を振る。
「今日は、基本の一連の動きを覚えよう。まずは剣を握る姿勢からだ」
ラウルは剣を握り、足を肩幅に開き、膝を少し曲げる。ゼフィランサスはゆっくりと動きを見せる。剣を前へ突き出す、ストレート・スラスト。右から左への斬り下ろし、オーバースラッシュだ。
「相手の胸元を狙うイメージでな。下ろす時は肩の力を抜いて、腕の振りに体重を乗せるんだ」
ラウルは真似て、剣を前にまっすぐ突き出す。初めはぎこちないが、ゼフィランサスの声に合わせて何度も繰り返し、時折ゼフィランサスが受けるふりをしてラウルに打たせる。
「そうそう、その調子だ。無理に早く振ろうとせず、剣の重さを感じろ」
続けて、ゼフィランサスは下から上へのアンダースラッシュ、次に横への連続斬りのカットコンビネーションと、三・四種類の動きを順番に示した。ラウルは小さな体で必死に動きを追い、息が少し上がるが目は輝いている。
「そして、最後は防御だ。相手の剣を受け流す『パリー』。腕だけじゃなく、体も使う。忘れずに体重を後ろにかけてな」
ラウルは剣を交わす真似をしながら、手や腕の動きに体を合わせる。ゼフィランサスは軽く頷く。
「よし、じゃあ今やった動きを順番に繋げてみよう。これが一連の動きになる」
ラウルは深呼吸し、突き・斬り下ろし・アンダースラッシュ・横斬り・パリー、と一連の流れをゆっくりと繰り返す。何度も練習するうちに体が自然に動き、剣の軌道が安定してきた。ゼフィランサスは微笑み、優しく声をかける。
「ラウル、お前いくつだっけ」
「六歳!」
「なるほど、その歳にしては素晴らしい動きだ。続ければ、必ず体に馴染む」
ラウルは剣を握り直し、少し息を整えてから目を輝かせた。
「ゼフィール。ボク、もっと早く動けるようになりたい!」
ゼフィランサスは微笑み、ラウルの小さな肩に手を置く。
「そうか、なら次はちょっと工夫したコンビネーションをやってみよう。順番を覚えるだけじゃなく、タイミングも意識するんだ」
まずゼフィランサスが動きを見せる。
「ストレート・スラストからオーバースラッシュへ、そのままパリーで防御、最後にカットコンビネーションで返す。流れを止めずに繋げるんだ」
ラウルは目を大きく見開き、体を少し緊張させながら動きを真似る。初めは突きと斬り下ろしのタイミングが合わず、剣がわずかにぶつかった。ゼフィランサスは苦く笑ってから口を開いた。
「いいぞ、少しゆっくりでいい。手だけで動かそうとせず、体全体を使うんだ」
ラウルは息を吸い直し、膝と腰を少し沈めて体重を乗せる。突き、斬り下ろし、防御、横斬り、少しずつ流れが滑らかになり、ゼフィランサスが「その調子、その調子」と声をかけるたびに、ラウルの顔に笑みが広がる。
「わあ、なんだか剣が体と一緒に動くみたい!」
「そう、その感覚が大事だ。剣と体が一体になれば、相手の動きも自然に見えてくる」
ゼフィランサスはさらに一歩踏み込む。
「じゃあ次は少しだけスピードを上げてみるか。焦らず、リズムを保ちながら動け」
ラウルは小さな手で剣を握り、ゆっくりと一連の動きを繰り返した。この時点で突きと斬り下ろし、防御から横斬りまでの流れが滑らかに繋がっている。ゼフィランサスは微笑みながら言った。
「よし、今日の訓練はここまでだ。初めてでこれだけできるとは、なかなかやる」




