第一章⑥ ラウルとミレーユ
「よくやったわ、ラウル。今日学んだことは、きっと今後の力になるわよ」
ミレーユの言葉にラウルは照れたように笑って頷いたが、彼女が急ぎの用事を思い出し、「ここで待っていて」と言い残して広場を離れると空気はゆっくりと変わっていった。
一人になった途端、周囲の視線が刺さる。ラウルは無意識に前髪を落とし、目を伏せた。それでも遅れて気づく。
「……おい」
低い声が飛んできて、ラウルが振り向く前に囲まれていた。孤児院の子どもたちだ。年は同じくらいか、少し上だが、どの目もどこか硬く冷たい。
「緑のやつ、来たぞ」
誰かがそう言った瞬間、空気が張りつめた。
「ほんとだ」
「気味悪い目、隠しても分かるんだよな」
「邪悪なやつは、倒さなきゃいけないんだろ?」
彼らの言葉に、ラウルは息を詰める。
「ち、ちが……」
ラウルが言い終わる前に肩を強く突き飛ばされた。ラウルの視界が傾き、膝が石畳に叩きつけられると砂と小石が掌に刺さり、冷たい痛みが走った。
「ほらな、やっぱ弱い」
「毒みたいな目してるくせにさ」
棒が腹に当たる。鈍い衝撃で息が詰まり、胸の奥がひくりと縮む。
「や、やめて……!」
叫んだつもりだったが声は震え、広場の空気に溶けて消える。
「触るなよ、呪われるって言われてるだろ」
「でも、倒さなきゃダメなんだ」
誰も笑っていなかった。彼らは真剣だった。押さえつけられた腕に力が込められ、逃げようとした足に体重が乗る。膝が軋み、砂と泥が服に擦りつく。鼻腔に土の匂いが広がり、視界が滲んだ。胸の奥で、問いが浮かぶ。
——どうして、なにがいけなかったの?
答えは誰も教えてくれない。拳を握りしめる。砂にまみれた指先が赤く染まり、心臓が早鐘のように鳴る。
「……もう、やられっぱなしに……なりたくない……」
ラウルの声は掠れていた。悔しさと恐怖と痛みが混ざり合い、胸の奥で熱に変わる。蹴られ、押され、地面に叩きつけられるたびに身体は悲鳴を上げた。だが、そのたびに同じ思いが浮かぶ。
——強くならなきゃ。弱いから、こうなるんだ。
それが本当の理由だとラウルは思い込もうとした。砂に伏したまま震える息の合間に誓う。
「次は……絶対……負けない……」
やがて、子どもたちは満足したように去っていった。使命を果たした者のような、曖昧な達成感だけを残して。広場には、ラウルだけが残された。身体は泥と痛みで重く、膝や肘の擦り傷から血が滲んでいる。胸の奥が締めつけられ、呼吸が浅く、早くなった。
「……は、はぁ……」
息を整えようと胸を押さえるが、鼓動が耳に響く。手先が冷たく震え、視界の端が揺れた。
「だ……大丈夫……」
誰にともなく呟くが、胸の圧迫感は消えない。恐怖と痛みと理由の分からない拒絶。それらが絡まり合い、呼吸を奪っていく。ラウルは膝に手をつき、背を丸めた。必死に息を吸おうとするが、体が言うことを聞かない。
——弱いからだ。
そう思うしかなかったとき、背後から静かな声がした。
「ラウル」
振り向くより早く細い腕が彼の背を包む。ミレーユだった。彼女は何も言わず、ただ背中に手を当て、一定のリズムで撫で続ける。
「……は、はぁ……っ」
呼吸が乱れ、胸が詰まる。ミレーユは抱き寄せる力を強めず、逃げ場だけを塞ぐように、そばに居続けた。
「大丈夫。息を吸わなくていい。吐くだけでいいわ」
ミレーユの導きに従ううち、過呼吸の波は少しずつ引いていった。だが、体中に残る痛みと悔しさはまだ消えない。ミレーユに支えられ、ようやく落ち着いたラウルは、傷ついた膝や腕を庇いながら屋敷へ向かう。道中、冷たい風が頬を撫で、遠くで子どもたちの笑い声や犬の鳴き声が響く。村は賑やかだが、ラウルの胸に残った重さはまだ消えない。
「……ねえ、母さん」
ミレーユから返事はない。ただ、歩調が彼に合わせられる。
「……どうして、ボク……あんなふうに」
ラウルの言葉が途切れた。ミレーユは一度、足を止める。
「理由が知りたいのね」
ラウルは頷くとミレーユはしゃがみ、視線を合わせた。逃げない。誤魔化さない。
「あなたの目の色よ」
ラウルの喉が、ひくりと鳴る。
「……目?」
「ええ。緑色の目。この国では不吉だと信じられている色。毒、病、災い……そういうものと結びつけて考える人がいる」
ラウルの脳裏に先ほどの視線たちが蘇る。値踏みするような目。避けるような目。優しさの仮面の裏にある、薄気味悪さ。
「でもね。それは、あなたの罪じゃない」
ミレーユはきっぱりと続ける。
「色に意味を押しつけて、人を傷つける。その考え方が間違っているの」
ラウルの胸がざわめいた。ミレーユは言葉を切り、ラウルを見つめる。青い瞳だった。澄んでいて、逃げ場のない色。慰めだけでは終わらない、覚悟を宿した眼差し。
「もし街の人たちがあなたを"悪い"と言うなら、それは——私を否定するのと同じよ」
ミレーユの青さが真っ直ぐにラウルを射抜く。
「私はあなたを産んだ。あなたを愛している。だから、はっきり言うわ」
ミレーユは微笑まない。ただ青い瞳に優しさと覚悟を同時に宿したまま告げる。
「あなたは悪くない。私はあなたの味方よ」
しばらくラウルは何も言えなかった。納得したはずなのに胸の奥が冷たい。大人たちの視線。子どもたちの声。「緑だ」「気味が悪い」「邪悪だ」……消えない。言葉がついぽつりと零れる。
「……母さんが守ってくれても、外では……ボク、ずっと一人だ」
ミレーユは否定しなかった。
「ええ。だからこそ……強くなりたいと思うなら、それは悪いことじゃない」
ミレーユはそっと彼の手を包んだ途端、ラウルの胸の奥で何かが燃えるた。
——守られるだけじゃ足りない。自分で立ちたい。
「……強くなりたい」
ミレーユはようやく微かに微笑んだ。
「そう思えるならもう十分よ」
ラウルは血と泥にまみれた腕や膝を見下ろした。
「……強く……なる……」
小さな声ながらも決意が含まれていた。ミレーユは安心したように頷き、ラウルの腕を軽く支えながら歩みを進める。屋敷へ向かう道は長いが、ラウルの心にはこれまでになかった熱が灯り始めていた。痛みや悔しさはまだ消えない。それを力に変えようとする小さな光が胸に揺れている。やがて屋敷の扉が見えてきた
「ラウル。手当てをしてから夕食にしましょう」
ミレーユが微笑む。腕の痛みを庇いながらも、ラウルは小さく頷いた。屋敷の扉を開けると、ラウルは疲れた体を引きずって使用人たちから傷の手当てを受けた。処置が終わった後、食堂には柔らかな灯りが灯り、テーブルにはミレーユが用意した温かい料理が並ぶ。香ばしい香りが、ラウルの緊張を少しずつほぐしていった。ラウルは少し戸惑いながら席につくと、ミレーユは小さな微笑みを浮かべながら食器を整える。
「今日は町で少し歩き回ったでしょう? たくさん食べて、体力を戻しましょうね」
ラウルはフォークを握りながら、心の奥に渦巻く思いを押さえつける。
村での孤児院の子供たちからのいじめ、悔しさ。自分を守るため、そしてもう二度と無力感に押し潰されないために、強くならなければと心の中で決意を固めた。ミレーユは微笑みを崩さず、フォークを差し出す。
「さあ、まずは夕食を楽しみましょう。明日からまた新しい一日が始まるわ」
ラウルはナイフとフォークを握り直し口に食べ物を運ぶが、膝の痛みと胸の奥のざわつきが完全に消えることはなく、日常の穏やかさの中に小さな戦場の余韻を残していった。




