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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】1・2巻「誕生編」  作者: セキユズル
第一章「もし街の人たちがあなたを"悪い"と言うなら、それは——私を否定するのと同じよ」
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第一章⑤ ラウルとミレーユ

 屋敷の廊下を歩きながら、ラウルはぼそりと呟く。

「計算ばっかして、何になるんだろう」

 家庭教師は少し立ち止まり、振り返ってラウルを見据えた。目は厳しく、声は落ち着いている。

「ラウル様、これはお父上の教育方針です。それに、基本的な計算ができなければ、まず生活もままなりませんからね」

 ラウルは腕を組み、ふんっと頬を膨らませる。

「生活のためって……ボク、他にやりたいことあるのに」


 二人はやがて玄関口のエントランスに出た。ラウルはちらりと壁に目を向ける。そこには父親の精悍な顔立ちを写した肖像画が飾られていた。


「……父さん、やっぱり厳しいなあ」

 家庭教師は静かに頷き、ラウルの手を引く。

「さあ、教室へ行きましょう。今日は少し長めに、計算の復習から始めますよ」


 ラウルは小さく唸りながら、庭での特訓の余韻を胸に抱えつつ日常の学びへと引き戻される。教室にしている屋敷の客間。ラウルは椅子に座り、ノートと筆記用具を机に置いた。視線は窓の外の庭に向かったまま動かない。先ほどまでゼフィランサスに教わった踏み込み方や斬り方が、頭の中で勝手に再生された。


 ——もしかしたら戦の才能があるかもな。


 あの言葉が耳に蘇る。胸の奥が熱くなって、小さな炎がじわじわと灯る。自分には、やりたいことがあるのだと昨日よりもはっきりとわかる。だが、今は教室の中。ラウルはノートに向かい、計算問題を解く振りをしながらも、頭の中は剣の動きやゼフィランサスの静かな眼差しでいっぱいだった。


「はあ。どのくらい、かかるんだろう」


 小さく息を漏らす。拳を握り、ノートの上で指先を微かに震わせる。ふと、家庭教師の視線を感じた。顔を覗き込むその眼差しは、厳しさと注意を含んでいる。


「ラウル様、集中してください」


 ラウルはぱっと顔を上げ、ノートに視線を戻す。計算の数字がわずかにぼやけて見えるのは、気のせいではない。授業がひととおり終わり、ラウルは鉛筆を片付けながら眉をひそめた。


「……計算ができないと生活もままならないって言うけど。じゃあ、授業を受けられない子どもたちは……生活できないってことになるんだよね」

 家庭教師は顔を少し強ばらせ、机の上の書類に目を落とし、慎重に言葉を選んだ。

「……ええ。基本的な教育は生きるための土台ですから」

 家庭教師の落ち着いた声の奥にどこか冷たさが混ざる。

「教育を受けられないということは社会で自立する力を持てない、ということです。あなたのお父上も、それを重視しておられます」

 ラウルは小さく唸る。

「……そうか。でも、それって、なんだかちょっと……不公平だね」

 彼は手元のペンをいじりながら独り言のように呟いていく。

「生まれた時から上下があるんだもん……」

 家庭教師は慎重に毅然と答える。

「だからこそ、基礎をしっかり身につけることが重要です。教育は、与えられた力で最大限に生きるための道具。それを学ぶことは、あなた自身の自由を守る手段でもあるのです」

 ラウルは少し黙り込み、視線を窓の外に投げた。

「だから勉強もやらなきゃ、か」


 ラウルはノートを閉じた。理屈はわかるが、勉強した分野や結果に意味がなければ、意欲にはつながらないのではないか。ラウルは少し不満げに顔を上げ、問いかけた。


「計算ができると、どう役に立つのか。ボクに教えてくれない?」


 家庭教師が少し驚いた。その時、ちょうど近くで見守っていたミレーユが柔らかく答えた。家庭教師が口を開こうとしたその声に割って入るように。


「計算ができるとね……まず、お金の価値がわかるの」

 ラウルの眉が少し上がる。

「お金の価値?」

「そう。価値がわかれば、受け取る報酬や対価のことも理解できるわ」

 ミレーユは手元の書類を指さしながら、微笑みを浮かべる。

「価値を理解していれば、働きに見合った報酬を他人に分け与えることもできる。公平に分けることができれば、信頼も生まれるでしょう?」

 ラウルは少し考え込み、口を開く。

「ふーん……つまり、計算ってお金のやり取りを正しくするために必要なんだね」

「ええ。あなたが大きくなったとき、何かの仕事を任されるなら、計算の力はきっと役立つわ」

 ミレーユの視線がラウルの顔に落ちる。

「特に、周りの人の努力や成果をきちんと見て、分け与える立場になるとき」

 ラウルは小さく頷き、目を細めた。

「……なるほど。ボク、いつかそういうこともできるようになるのかな」

 ミレーユは微笑み、優しく頭を撫でる。

「ええ。あなたには筋がある。だから、学びさえすればきっとできる」

 ラウルは少し間を置いた後、顔を上げて母を見つめた。

「母さん……ボク、将来、何になればいいの?」

 ミレーユは少し考え込み、やわらかく微笑む。

「そうね……それは、あなた自身が選ぶべきことよ」

 ラウルの眉がわずかに下がる。

「え……でも、ボクに向いてることってあるんじゃない?」

「もちろん、あるわよ」

 ミレーユはラウルの小さな手を握る。

「あなたは勇気があるし、観察力もある。人の動きや気持ちを見抜く力も持っているわ。だから、きっと人を導いたり、守ったりする役割が向いていると思う」

「守る……? 人を?」

「ええ。たとえば家族や仲間、信頼する人たちのために立ち向かうことよ」

 ミレーユは柔らかく微笑み、ラウルの額にそっと手を当てる。

「それに、あなたには計算の力や学ぶ力もあるから、困難な状況でも正しい判断ができるはず」

 ラウルは少し考え込んでから頷いた。

「……うん、わかった。じゃあボク、頑張ってみる」

 ミレーユはにっこりと笑い、ラウルの頭をもう一度軽く撫でた。

「ええ、無理せず少しずつね」

 ここでミレーユはラウルのノートの表紙を眺めながら目を細めて言った。

「家庭教師さん、ラウルに外国語も学ばせたらどうかしら?」

 家庭教師は軽く眉を上げ、興味深そうにラウルを見る。

「外国語……ですか?」

「ええ、隣国の言葉よ。カスティーリャ語。近頃の情勢を考えると、知っていて損はない」

 ミレーユは少し考え込み、手を顎に当てる。

「ラウルの物覚えの良さなら、きっとすぐに覚えられるでしょうし」

 ラウルは首を傾げながらも興味深そうに尋ねた。

「カスティーリャ語……ボク、話せるようになるの?」

 ミレーユはにっこりと笑う。

「もちろん。少しずつだけど、授業を続ければ大丈夫よ。あなたの将来、いろんな場面で役に立つはずだから」

 家庭教師も頷き、少しメモを取るように身をかがめた。

「承知しました。それならラウル様、次回からカスティーリャ語の基礎から始めましょう」

 ラウルは目を輝かせ、嬉しそうに頷いた。

「うん、やってみる!」

 勢いよく立ち上がった瞬間、ラウルの胸の奥がぎゅっと内側から締め付けられる。


 ——見られている。


 理由もなく、そんな感覚が背中を這い上がった。息が浅くなり、喉の奥が詰まる。肩が小刻みに震え、手足の感覚が遠のいていく。


「……あ、あれ……息が……っ」


 呼吸が一気に早まり、ラウルは慌てて椅子に腰を落とす。視界が霞み、光が滲む。胸が苦しい。頭の奥で、何かがざわざわと騒いでいる。


 ——ちゃんとしなきゃ。強くならなきゃ。見下されないように。


 誰の声ともつかない言葉が頭の中で重なった。ミレーユがすぐに気づき、そっと近づいてラウルの肩に手を置く。その温もりだけが、かろうじて現実を繋ぎ止めた。


「ラウル、深く息を吸って……ゆっくり吐いて」

 言われた通りにしようとするが、うまくいかない。咳き込み、息が乱れ、胸が上下する。

「……剣の特訓……急ぎすぎ、だったかな……」

 ラウルがかすれた声で呟くと、ミレーユは否定も肯定もせず、ただ背中を撫で続けた。

「大丈夫よ。無理をしなくていい。今は、休みましょう」

 少しずつ、呼吸が戻ってきて胸のざわめきが、ゆっくりと静まっていく。ミレーユはラウルの様子を確かめながら小さく息を吐き、視線を窓の外へ向けた。

「……ヴール・レ・ロズに来ても、完全には治まらないのね……」


 独り言のような声だった。


 ラウルは時折、こうして発作に襲われていた。身体が弱いわけではないが、常に向けられる視線、囁かれる言葉。そして、「舐められないように」と課された早すぎる期待。それらが知らず知らずのうちに胸の内に積もっていた。

 本来、この別荘地へ移り住んだのも静養のためだけではない。パリの社交界で向けられる、好奇と忌避の入り混じった視線——緑色の目を持つ子を育てる家として、レオパード家が晒され続けた無言の批判から距離を置くためだった。それでも、視線は完全には消えない。期待も偏見も、形を変えて今もラウルの内側に残り続けている。


 ラウルは額に手を当て、ゆっくりと意識を取り戻した。

「……だい、じょうぶ……かな?」

 ラウルのかすれた声にミレーユは微笑み、静かに頷いた。

「ええ。今はね。焦らなくていいわ」

 ミレーユの言葉に、ラウルは小さく息を吐いたが、胸の奥では別の思いがまだ消えていなかった。


 ——強くなりたい。守られる側で終わらないために。見られるだけの存在で終わらないために。


 授業を終えたラウルはミレーユに手を引かれ屋敷を出た。

「ラウル、今日は買い物に行きましょう」


 ミレーユの声には、優しさと少し楽しげな調子が混じっていた。屋敷の門をくぐると、石畳の道沿いを歩いて村へ向かう。通りでは小さな商店や工房が並び、昼市のような活気が漂っていた。通りすがる町民たちがミレーユとラウルを見て会釈する。


「こんにちは、奥様」

「おお、ラウル君、今日はどこへ行くんだい」


 ラウルは少し照れくさそうに返す。町での人々の目線に戸惑いもあったが、ミレーユがそばにいることで安心感も覚えていた。市場では野菜を選び、魚に触れ、鍛冶屋で小さな金槌を握った。ミレーユの指導のもと、挨拶の仕方、お金の渡し方、失敗したときの対処。ラウルは一つ一つ、町のルールを学んでいく。野菜をひっくり返したときも、イワシを落としたときも、ミレーユは責めなかった。


「大事なのは、次にどう行動するかよ。失敗から学ぶの」


 その言葉に支えられ、ラウルは少しずつ自信を持って町民とやり取りできるようになっていった。

夕方、町を一周し終えた頃にはラウルはすっかり疲れていたが、胸の奥には小さな達成感が灯っていた。街の人々の目を見て挨拶し、品物を受け渡し、些細な行き違いにも慌てずに対応できた。ほんの一日だが前よりも「できること」が増えた。

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