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報復の航路【第二作 ルー・ブレス】1・2巻「誕生編」  作者: セキユズル
第十章「俺は、これからも海と共に過ごすんだろうな」
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第十章② 海賊と海軍

 月の光が水面を細く裂き、フランソワ海賊団の四隻の影は入江に滑り込んだ。フランソワは船首に立ち、甲板に身を伏せた仲間たちの気配を確かめると、油断なく笑みを引き攣らせた。


「ここだ。港の目が届かない小さな穴、係留はこれで完璧」


 ルキフェルは頷き、暗闇に沈む街の輪郭を睨んだ。胸の奥に、かつてベルナルドが示した地図の折れ目がまたじんわりと蘇る。あいつの残したものが今、仲間たちを助けている。


 夜の港に船を隠し終えると、フランソワは甲板から身を翻し、五人の精鋭——ルキフェル、ジャスパー、マテオ、ニールと小僧のコリンを率いて、街の方へ足を運んだ。目指すは駐在する海軍士官の家。玄関扉を一度だけ静かに叩くと、中から出てきたのは若い士官と部下数名。彼らの制服は紺色の輝きを失い、夜勤の疲れが滲んでいる。駐在を任されている士官は最初こそ警戒心を露わにしたが、名を聞かれる前にフランソワが一歩前に出て目を眇めた。


「お前が、ここを守っている者か」


 士官はぎくりと肩を震わせ、返答に詰まった。フランソワは小さな袋を取り出し、軽く振って金貨の音をさせる。賄賂の匂いを漂わせる音だった。


「お宅の裏取引と秘密をばらされたくなければ……この街の外れ、あの入江を俺たちに明け渡せ。海軍にも民にも、誰にも俺たちのことを明かすな。明かせば、命はない」


 士官の目が泳ぐ。彼の思考は一瞬で過去数日の賄賂と裏取引の記憶へと遡り、海軍本部に知られれば自身の首が飛ぶ可能性を計算した。


「お前たち、本当にそんなことをするのか?」


 若い士官が掠れた声で言った。彼はすでに取引の重みと、自分の立場の脆さを理解している。フランソワは袋から一枚を皿の上に滑らせる。金貨が音を立てて落ちると、士官の表情が白くなった。金か、命か。選択は即座に降りた。士官は目を伏せ、手の震えを堪えて呟く。


「わかった。誰にも話さない。だが、こちらも条件がある」


 士官の顔にはまだ羞恥が残る。フランソワは首を傾げると、士官は早口で続けた。


「入江の鍵、停泊の許可証、物資の管理記録、口座の帳簿のありかを教える。その代わり、貴様らの事実関係が明らかになれば、我々の隠し金の流れが露見する。了承してくれるのか?」


 フランソワは一瞬考えた。これ以上追い詰めるのは得策ではない。士官が折れた今、町に無用な大混乱が起きればこちらも動きにくくなる。代替条件は交渉に値する。彼はゆっくりと笑った。


「お前が合理的だ。帳簿は今晩預かる。だが——」


 フランソワはそっと近づき、士官の耳元で低く囁く。


「お前の命は今日から俺たちのものだ。裏切れば、お前の命は帳簿の代価にもならんぞ」


 士官は俯き、どこか達観した様子で頷いた。数分後、鍵束と幾つかの封筒、そして薄い帳面がフランソワの手の中に収まる。

 ルキフェルがそれらを受け取り、ジャスパーは夜通しの見張りと士官の手引きで港の出入りを監視する。マテオは街の裏通りで情報と物資の補給ラインを確保。ニールは帳簿を解析し、港の流れを把握する。コリンは小さな仕事——入江の鉄扉の錠を一度壊し、入江側から鍵をかけられるよう細工する——に奔走する。一帯の倉庫にいくつかの箱が運ばれ、ロープがしっかりと結ばれていく。

 例の入り江は、いつの間にか海賊たちの影で占められていった。士官は去り際に一言呟く。


「どうか、この町を壊さないでくれ」


 フランソワはかすかな笑みで答えた。


「壊す? いいや。俺たちはここを奪うのではない。俺たちの拠点にするだけだ。民衆には手を出さないが、海軍には容赦しない」


 仲間たちの瞳が鋭く光る。彼らは今、サン・マロの一角を手に入れたのだ。だが、その獲得は大きな波紋の始まりでもあった。ルキフェルが入江に戻った時、海面の向こうでは入江に停められた帆影が揺れていた。サン・マロの街灯が遠く淡く光る。港を奪い、居座る。最初の一手は成功だ。



 トゥーロン司令部。資料準備室は夜の静けさに包まれ、机の上には開いた書類とインク壺、数枚の地図が散らばっていた。窓の外には月明かりが淡く差し込み、壁に掛かった大時計の針が午前零時を指す。


「フランソワ・ノワール」


 ソフィー・ルノアールは亜麻色の髪を束ね、紙面に走らせていたペン先を握る指にわずかに力を込めた。目元に影を落とし、静かな声で言葉を重ねる姿は、教官補佐としての冷静さを纏っていた。


「そうそう、海軍だけを狙う海賊団。噂でしか聞いたことなかったけど、やっと正式な報告書が回ってきたんだよ」


 ジョルジュ・アルダーソンが笑みを浮かべながら資料の山に目を通す。真夜中にもかかわらず、彼の口調はいつもの軽妙さを失わない。ソフィーはジョルジュの言葉を受けて、再び慎重にペン先を紙に走らせた。報告書には、フランソワが率いる海賊団の行動範囲、襲撃の手口、旗のデザイン、そして海軍への影響など既知の情報が淡々とまとめられていく。


「第四に回す前に、きちんと整理しておかないとね」


 ソフィーは淡々と目次を確認した。表情からは興奮や驚きよりも、任務としての緊張感が漂う。新人候補生に伝えるべき情報の精度を、彼女は第一に考えていた。


「でも奴ら、ただの海賊じゃないな」


 ジョルジュは地図の上に指を滑らせ、襲撃の軌跡をなぞる。


「夜襲だけでなく、昼間にまで攻撃を仕掛けている。戦略の組み方が巧妙すぎるよ」

「候補生たちにはきちんと事例として教えたいわね」


 ソフィーは軍医見習いとしての立場だけでなく、教育者としての責任感が滲んでいる。若い士官たちに、この海賊団の恐ろしさと警戒すべき要点を伝えなければならない。二人の影は資料の束をまとめながら夜更けまで作業を続いた。


「さて……明日には候補生たちに配布できるかな」


 ソフィーは束ねた資料を整理棚に置くと深呼吸し、ジョルジュは彼女の傍らで地図を巻き上げ、微かに肩をすくめた。二人にはこれからの教育任務と、フランソワとの対峙を想像させる緊張感が胸に満ちている。 

 この夜。トゥーロン司令部では未知の海賊の脅威が公式に記録され、若き士官たちの学びの種として息を潜めていた。



 ブレスト司令部。灯がまだ消えきらない夜、キール通りの宿舎には緊張感が漂っていた。外の潮風が窓を揺らし、遠く港から漂う船の匂いがかすかに室内に入り込む。


「不気味ですね」


 リラは報告書を前に緊張を含んだ声で呟いた。文字に並ぶ情報は新たな海賊団の活動を示しており、その脅威の大きさを理解していた。シャルルは片眼鏡のレンズを拭きながら穏やかに応じる。


「まあ、いずれ対峙する相手です。我々もいつでも準備を整えましょうか」

「けど、船の下から大漁網を張ろうなんて提案はやめてくださいね」


 ダヴィットは苦笑する。皮肉混じりの言葉で場の緊張を和らげるつもりだったが、彼の背後で窓の外を見つめる者がいた。


「くだらん」


 グウェナエルは冷たい声で呟き、一切の表情を崩さずに夜の海を見据えた。剣のように鋭い瞳は、遠くに潜む敵の姿を捉えようとするかのように光っている。彼の意識はすでにブレスト港から遠く離れた場所で次の一手を準備する敵に向けられていた。

 マクシムは視線を落とし、少し間を置いてから口を開く。


「正直言うと、かつての仲間がこうして刃を向けてくるのは、いささか心苦しいところはあります」


 マクシムの脳裏には、幼い頃に笑いかけた、若造のフランソワがチラついている。彼の背後のテーブルに座っていたマルセロ・ロペスは振り返り、落ち着いた声で応じた。


「如何なる過去があろうと、国に対して刃を向けた時点で敵ですよ」


 マクシムは振り返り、無表情のまま頷く。


「そうでしたね。君の言うとおりです」


 その瞬間、食堂の灯りがマクシムの髪の間に差し込み、左耳を飾るイヤリングが一際光る。マルセロは自然と目を凝らした。黒ずんだ小さな石が、鋭く光を反射している。マルセロの目に驚きが一瞬だけ浮かんだ。

 真面目で冷静なマクシムにも、かつて戦火をくぐり抜けた者だけが持つ遊び心や個性が垣間見える瞬間だった。黒ずんだイヤリングはトルコ石とチェコガラスを組み合わせたもので、フランスでは流通が極めて稀な代物。その上、煤けた色合いから判断するに戦火で晒され続けた痕跡だろう。


 食堂のテーブル上には次々と報告書が回されていく。外から見れば几帳面に並べられた紙の束を、数人が真剣な顔で読み耽る様子はどこかシュールな光景であったが、文面に目を通すや否や報告書が伝える脅威は、読む者の顔色を瞬時に変えさせる。ペネロペはじっくりと目を走らせ、唇を震わせながら呟いた。


「よ、四隻? 推定人数、五百人……」


 かつて海賊として荒波を駆けた彼女の顔にも、次第に困惑の色が浮かぶ。普段の元気な表情は影を潜め、目の前の現実の重さに圧倒されていた。一方、サミュエルとロザリーはフランソワの手配書の仮案を手に取り、遊び感覚で顔を近づける。


「なかなかの男前だな」

「この三角帽、よく似合う!」


 二人は報告書の内容の重さを無視して、つい笑みを零してしまう。だが、脅威を理解していないわけではなかった。


 最後に報告書はアニータの手に渡った。彼女の隣でスザンヌも身を寄せ、ページをめくる。アニータの瞳には、かつてベルナルドを失った悲しみと彼の命を奪った海賊たちへの怒りが入り混じり、表情は硬く引き締まっていた。報告書に目を落とす姿は、誰もが息を呑むほど真剣そのもの。

 スザンヌの瞳は揺れていた。ノワール。その名は、彼女がかつて愛おしい人に与えた名である。その文字を目にした瞬間、スザンヌはテーブルに散らばった手配書の仮案の数々へと視線を巡らせた。


 どの手配書にも、共通して記されている特徴がある。茶色の髪。数年前、彼女の目に焼き付いた青年の姿が否応なく脳裏に蘇った。フードの奥から僅かに覗いていた暗褐色の髪。狼の仮面の影に沈みながら、ふとした拍子に光った翡翠色の瞳。あの視線を、彼女は忘れていなかった。

 手配書に描かれた海賊の姿は、どの記憶と重ならない。自分の知る青年とはどこか決定的に違っている。スザンヌは違いを確かめるようにもう一度だけ紙面に目を落とし、心の奥でそっと息をついた。同一人物ではない。そう言い聞かせるように。だが、不安が完全に消え去ったわけではなかった。


 ——あの時、彼は“海にいる”と言った。


 もしも、あの青年が海賊だったとしたら。なぜ今まで、その可能性を考えもしなかったのか。

 かつて海軍員を志した自分の純粋さが、今になって不思議でならなかった。


 スザンヌは知らず知らずのうちに、指先に力を込めていた。愛おしい人が海賊かもしれない。その可能性が頭をもたげた瞬間、スザンヌの心には別の嵐が吹き荒れた。胸の鼓動は不規則に高鳴り、動揺を押し隠すように立ち上がり、和やかに微笑みながら「すみません、部屋に戻らせていただきます」と告げた。すると、彼女の背後から鋭い声が届いた。


「待て」


 グウェナエルだった。彼の瞳は薄暗さの中でも鋭く光り、続けて言う。


「また宿舎を抜け出すのか? 危険だ」


 彼の声には厳しさの裏に配が滲んでいた。スザンヌは毅然とした態度で振り返り、微笑みを浮かべながら答えた。


「申し訳ありません。少し夜風に当たりたいのです」


 彼女は小さな吐息を添えた。


「この海賊……なんだか、他の海賊より恐ろしく見えますね」


 スザンヌは足早に食堂を後にしようとした。マルセロは頭を振りながら呟く。

「まったく。あの儚く消えてしまいそうな彼女が、なぜ軍隊に入ったのやら」


 彼の言葉に、周囲にいた女性隊員たちがマルセロを鋭く睨んだ。どこか遠くから見ていたシャルルが「おお、怖い」と軽口の裏でちゃんと戦慄している。そんな中、マクシムは心配を込めて声をかけた。


「スザンヌ。あまり遠くには行かないでくださいね」


 スザンヌは足を止め、一礼をして返す。


「はい」


 そして、今度こそ静かに食堂を出て行った。


 夜風に吹かれながら、心の奥で揺れる不安と期待を抱えて。

 スザンヌはランタンを掲げ、ブレスト港にそっと足を忍ばせた。心の奥に大きな不安を抱えると、彼女はよく宿舎を抜け出して夜風に当たる。


 この習慣は、士官学校に入ってまだ一年足らずでマクシム隊に配属された頃から変わらないものだ。先輩士官たちに悩みを打ち明けることは容易ではない。だからこそ、この夜の静寂は数少ない自分の心を解き放つ時間となる。波のさざめきと風の囁きに混ざって、スザンヌは口を開いた。


「……あの人には、なんでも話せたのに」


 鈴の音のように澄んだ声は、港に誰もいない夜の空間に響いた。月光に照らされた水面が淡く揺れ、スザンヌの瞳は遠く夜の闇の向こうにいる誰か——かつての青年を追うように揺れていた。

 スザンヌは桟橋に腰を下ろし、夜の海を静かに見つめる。波間に揺れる月明かりが水面にきらめき、潮の香りが夜風に混ざる中で、彼女はぽつりと口を開いた。


「また、会えたらな……」


 彼女は海面から視線を上げ、満月が照らす空を見つめた。柔らかな光が顔を撫で、しばらく月を見続けるうちに、心の奥に一筋の光が差し込む。


「……どんな人でも、私はまた会えればいい」


 小さな決意が胸に芽生えた瞬間、さらに言葉を続ける。


「そのために海軍に入ったもの。女でも船に乗れる、また会いたくて、ここまで来たって伝えたいから」


 月の光が迷いかけていた心をゆっくりと落ち着ける。夜風に吹かれながらも、スザンヌの胸に決意が灯った。



 ルキフェルは見張り台に座り、闇に浮かぶ月を見上げていた。入江を囲む暗い水面に月光が細く揺れる。拠点は確保した。

 ここはもう、自分たちの根城だ。だが、胸の奥のざわめきは消えない。

 眠れぬまま、何時間も見張り台に座り続けていた。そっと手を伸ばし、月に触れるように指を握る。


「月の光も厄介だな……」


 昼の光や夜明けの光のように、傷だらけの自分の顔を晒すのは嫌だ。

 それは痛みを思い出させる。だが、今夜の月だけは見ていられる。


 次第に月は雲に隠れ、夜空の光は薄らいでいった。ルキフェルの額に水の雫が垂れる。最初はひと粒、やがて徐々に増え、雨脚は強さを増す。舌打ちをしたルキフェルは急ぎ見張り台を降り、甲板上の船長室前、僅かに屋根のある場所へ避難した。


「こんな時間に降り出すとはな」


 船長室の扉から現れたフランソワが、微笑みを浮かべながら言う。


「ああ、最悪」


 ルキフェルは雨に濡れた衣服を気にしながら答えた。フランソワは笑みを崩さず、続ける。


「なあ、ルキフェル。雨に纏わる面白い話があるんだ。昔、リュウが聞かせてくれた話さ。東の方じゃ有名らしい」


 ルキフェルが反応する間もなく、フランソワは語り始めた。


「空の一番高いところに神がいた。その神には娘がいて、娘は織物を織るのが仕事だった。ある日、神は娘に婿をとらせたが、二人は恋に溺れ、織物をすっかり怠けるようになった。怒った神は、二人を天の河の両岸に引き離してしまった」


 ルキフェルは雨に濡れた顔を顰め、生真面目な口調で呟いた。


「そりゃ遊んでいた二人が悪い。役目を果たせないなら、誰だって怒る」


 フランソワはクスリと笑った。


「でもさ、二人は離れ離れになってから、悲しみのあまり泣き続けたらしい。仕事どころじゃない。見かねた神は、年に一度だけ二人が会える日を与えたそうだ」


 ルキフェルは無愛想に問いを投げる。


「それ、いつだよ」


 フランソワは迷わず答える。


「七月七日。東じゃ、雨が多い時期なんだ」


 ルキフェルは鼻で笑った。


「けど、雨が降っていたら会えないだろう」


 フランソワは肩をすくめながら、晴れやかに言った。


「ロマンがないな。いいか? 天の川は雲より上にある。地上では雨が降ってても、雲の向こうでは二人はちゃんと再会して、嬉しすぎて涙を流してる。だから、雨はふたりの涙。——再会の雨なんだ」


 ルキフェルは少し驚いた表情で問い返す。


「それ、フランソワの解釈か?」

「そうだよ。俺とリュウが議論して出した解釈だ。悪いか?」


 ルキフェルはフランソワの話を聞き終えると濡れた甲板を見つめ、指先で水滴を撫でた。雨はまだ降り続いている。


 ——再会の雨、か。


 頭の中で自然とスザンヌの顔が浮かぶ。

 あの澄んだ瞳、海を見つめる横顔、自分に微笑んだ、あの日々。

 月の光の下で、彼女もまたこの雨を見ているのだろうか。そう思うだけで、胸の奥にじんわりと温かさが広がる。が、ルキフェルは首を横に振った。馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに。

 フランソワは彼の様子を面白そうに眺めた後、確信を持った声で口を開く。


「ずっと聞きたかったんだがな、ルキフェル。お前、好きな子がいるのか?」


 その瞬間、ルキフェルの顔から血の気が一気に引いた。雨に濡れた髪の間から鋭い瞳が一瞬揺れるも言葉が出ない。

「な、なんで急にそんな……」


 フランソワはにやりと笑った。 


「見りゃわかるさ。いつからか、顔つきが男前になった」


 ルキフェルは目を細め、フランソワを睨むようにしながらも口を開く。


「……その話がしたくて、さっき変な話を持ちかけたのか」


 フランソワは手を振りながら否定する。


「こら、変な話って言うな。ロマンチックな話だ」


 ルキフェルは止まぬ雨を天を見上げ、少しだけ声を潜めて言った。


「いるって言うより、いた。何年か前、女とほとんど毎日会っていた」


 フランソワは笑みを浮かべ、軽く肩をすくめながら言う。


「その子、顔を怖がらなかったんだな」


 ルキフェルは首を横に振る。


「いや、顔はずっと隠してた。名前も名乗らなかったし」


 フランソワの眉が軽く跳ね、驚きの色が浮かぶ。ルキフェルは目を遠くの暗い海に向けたまま続けた。 


「そいつ、海に落ちて溺れたんだ。俺が迷わず助けた。その時に一目惚れしたんだけど、好きになっちゃダメな相手だった。互いに触れてはいけない、別の世界に生きる者同士。だから別れた。ただ話して、終わった関係だ」


 雨が降り注ぐ夜、甲板の風が二人の間をすり抜ける。ルキフェルはしばし目を閉じ、雨の音を聞きながら小さく息を吐いた。ルキフェルが黙り込む横で、フランソワは彼を見つめていた。


「ルキフェル。どんな人間であれ、好きになってはいけない相手なんかいないさ」


 ルキフェルは弾かれたように顔を上げ、フランソワの目を見る。


「……そうかな」


 フランソワは雨粒に濡れた肩や背中を気にすることもなく言葉を紡ぐ。


「過去を悔やむ必要なんてない。その時の気持ちも、今の自分も。全部お前の一部だ。否定することなんてない」


 ルキフェルは無言で頷くしかなかった。胸の奥に渦巻く重みが、雨の音に溶けて少しずつ和らいでいく。冷たい空気の中、雨粒が肌を打つ感触さえも温かく感じられた。


「……フランソワ、ありがとう」


 フランソワはルキフェルの目を覗き込むようにして聞いた。


「……今でも、その子が好きか?」


 ルキフェルは雨の水面に反射する光をじっと見つめた。


「……分からない。時々、彼女のことを思い出すんだ。他の女には、なんとも思わない」


 フランソワは雨を見つめながら唸り、やがて確信のある声で言った。


「ルキフェルは、女を好きになったんじゃないのかも」


 ルキフェルは眉をひそめ、首を傾げた。


「どういうこと?」


 フランソワは微笑み、ルキフェルを見下ろしながら言う。


「ルキフェル。お前は、彼女という人間を好きになったんだよ。……いや、好きなんてもんじゃないな。多分、その答えはお前自身が探すといいだろう」


 ルキフェルは言葉を失った。今まで理解できなかった自分の心の動きが、ようやく腑に落ちる瞬間。


 スザンヌという人間を、彼は特別に想っていた。ルキフェルはひそやかに笑う。

 悩みを打ち明けた甲斐はあった。

 これまでの迷いも不安も、今は少しだけ柔らかくほどけていくようだった。

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