第十章① 新生フランソワ海賊団
トルチュ島内ではフランソワ海賊団は勢力拡大の余波を受け、フランス海軍への襲撃準備の長期計画に入った。
増え続ける人数に応じ、実戦用のガレオン船三隻に加え、偵察部隊用のフリゲート艦を一隻確保し、すべて自分たちの傘下に置くことに成功。船員たちの間で投票が行われ、各船の船長とクォーターマスターも任命される。フランソワは本艦の船長、ルキフェルはクォーターマスターとして職務を担うことになった。
ある日のトルチュ島。周囲が慌ただしく出航準備を進める中、ルキフェルは甲板の一角で棒立ちになっていた。額に垂れる汗を拭いながら、じりじりと照りつける太陽を睨む。まだ出航するには早すぎるのではないか。熱気と光に晒されながら、考えが堂々巡りしていた。
「いやー暑いな……」
フランソワの声がした。ルキフェルが振り返ると、フランソワは手を腰に当てて立っていた。
「これじゃ、みんな腐っちまう。ルキフェルの読み通り、食糧の調達は後回しにして正解だったよ」
ルキフェルは小さくため息をつき、ぼそりと呟く。
「出航前に船員がくたばったら、それこそ困る」
すると、甲板の端からジャスパーの声が飛んだ。
「あ、フランソワー。なんか客人が来てますよー」
フランソワは眉をひそめながらも、どこか嬉しそうに笑って言う。
「まったく、お前の赤髪はほんと眩しいな」
ジャスパーはケタケタと笑いながらうなずく。彼の背後から低い声が響いた。
「よう、瞬く間に大物になったな」
エドガーが現れた。大柄な体に似合わず、抱えているのは小さな円い箱。フランソワが腕を組みながら呆れたように笑う。
「いやいや、お前も船団を七隻抱えてるじゃないか。数の暴力だぞ」
エドガーは大げさに肩をすくめて言った。
「バカやろう。大半は自由行動だ。束縛できるやつなんていねえさ」
彼は小さな円い箱を差し出し、フランソワに向かってにやりと笑う。
「贈り物だよ。海賊の船長に必要なものだ。お前に相応しい」
フランソワの目の前で、エドガーは箱の蓋を開けた。
中には、丁寧に作られた新品の三角帽子、トリコーンが収められている。
帽子は黒を基調に、縁には細い金糸の飾りが施され、海賊旗のデザインに合わせて小さく砂時計の刺繍があしらわれていた。解き放たれた鎖を模した細い革紐が垂れ、帽子の前方には大きく広がる翼のモチーフが銀糸で描かれている。威厳と自由、そしてフランソワ海賊団の理念を体現する、今のフランソワに相応しい一品だった。
フランソワは帽子を手に取り、笑みを浮かべた。
「なるほどな、これなら海の上で俺の顔も覚えてもらえそうだ」
フランソワが帽子を見つめていると、ルキフェルが隣でにやりと笑った。
「その帽子。似合いそうだな、船長」
ジャスパーもケタケタと笑いながら言う。
「さあ、被ってみろよ。船長らしいところ、見せてくれ」
マテオが頷き、言葉を添えた。
「この瞬間のために、オレたちも出航準備を頑張ったんだ」
フランソワは甲板の中央に立ち、仲間たちに背を向けるようにして帽子を被った。黒地に金糸と、銀糸で施された砂時計・翼・鎖のモチーフが、太陽の光を受けてきらりと光る。
「さあ、これで俺たちも海に出る準備は整った。旗も帽子も、新しい航海の象徴だ」
ジャスパーが肩を竦めながらも笑い、マテオも拳を固める。ルキフェルはフランソワの横に立ち、帽子を被った船長の姿をじっと見つめた。
「もう少ししたら出航だ」
甲板には仲間たちの歓声と帆のはためく音、海賊旗が風になびく音が重なり合い、海への第一歩を刻む気配が満ちている。その時、桟橋の方から鋭い声が飛んできた。フランソワが船の縁から顔を覗かせると、桟橋の上で管理人の顔が真っ赤になって怒りを露わにしていた。
「旗を掲げるな、争いの火種を持ち込むんじゃない!」
ジャスパーは我に返り、慌ててマストを見上げて叫ぶ。
「やばい、おい! 早く降ろせ!」
甲板にいた船員たちは急ぎ足で旗を下ろす作業に移り、帆柱の上で大慌ての様子が見て取れた。マテオは少し首を傾げ、呟く。
「なんか締まらないな」
ルキフェルは肩をすくめて苦笑しながら答える。
「まあ、俺たちらしいといえば、らしい……のかな?」
甲板には一瞬の静寂が訪れた後、慌ただしい作業音と仲間たちのざわめきが戻ってきた。
不完全ながらも、これもまた新生フランソワ海賊団らしい船出の始まりだった。
数日後。暑さが徐々に和らいだことをきっかけに、ルキフェルたちは真っ先に食糧調達に取りかかった。市場は競合の船団や商人でごった返しており、押しの強い連中に揉まれながら必要な分だけを確保する。
食糧の積み込みが終わると、ルキフェルはクォーターマスターとして各セクションを回り、船員一人ひとりと対話を重ねながら最終確認を行った。
やがて、夜明けと共に船団は二度目の襲撃と拠点確保のための航海に出た。大西洋の横断は相変わらず苦難の連続だったが、前回ほどの災難には遭わない。
それも、経験豊富な船員たちがほとんど前回からの参加者であること、ジャスパーの自然を読む勘の鋭さ、ニールの冷静な計算、そしてルキフェル自身の経験則があってこそ。
横断の末、まずアゾレス諸島に寄港し、物資の補給と武器の調整を行う。そこからさらに北へ、ガスコーニュ湾へと進む三隻のガレオン船は、夜になるとフランス海軍の小さな艦隊を次々と沈めていった。港に寄る際は、フランソワたちは冒険者や貿易団の振りをして物資や人員を補給し、また海に出ては敵艦隊を沈める、この繰り返しで北上を続けた。
戦闘の指揮は常にフランソワが執り、冷静かつ大胆に状況を掌握する。ルキフェルはこれまでのように傷だらけの顔を晒さず、船内で艦隊の動きを見守り、クォーターマスターとして的確に指示を出すのみだ。
船団は遠く離れた港町にも知らしめつつあった。フランス海軍ばかりを狙う「夜の船団」がいるらしい。漁師たちは怯え、商人たちは航路を変え、港の酒場では「次はどの艦隊が沈むか」で賭けが始まる始末。海軍内部でも混乱が広がり、士官たちは報告と命令の矛盾に頭を抱えていた。
「夜に現れては、跡形もなく消える。まるで幽霊船だ」
「いや、奴らは人間だ。あの一撃の正確さは、素人の手じゃない」
各司令部でそんな会話が飛び交う中で、ある日のフランソワは甲板上で不敵に笑った。
「次は昼にやる」
ルキフェルは一瞬、耳を疑った。
「昼間? おい、正気か」
「夜ばかりじゃ芸がねえ。陽の下で旗を掲げてこそ、俺たちの名が轟くってもんだ」
フランソワの言葉に、海賊団の連中は一斉に歓声を上げた。やがて追跡船が、南方の海上でフランス海軍の小艦隊を発見したとの伝令を送る。フランソワは即座に進路を決定した。
「行くぞ。真昼の見世物ってやつだ」
陽光の降り注ぐ青空の下、三隻のガレオン船が海面を裂いて進む。その先頭、深紅の新しい海賊旗が風を裂いた。甲板に立つフランソワの三角帽には黄金の縁取りが輝き、真新しい羽飾りが陽光を受けて翻る。
「撃てぇぇぇっ!!」
轟音と共に砲弾が海を駆け抜け、白煙が吹き上がる。フランス海軍の艦隊は反撃する間もなく、次々と炎に包まれて沈んでいった。砲撃の様子を少し離れた港から、望遠鏡で見ていた海軍の上級士官が息を呑んだ。
「……あの顔……まさか……フランソワ、なのか……?」
黒煙の向こう、三角帽を深く被る茶髪の男。かつて同盟的存在として海を共にした私掠船の船長が、今は堂々と敵の旗を掲げていた。海の上はまだ硝煙で霞んでいる。波間に浮かぶ破片と舷外へ吸い込まれていく青い制服のかたまり、昼戦は激しく、容赦なく終わりを告げていた。
フランソワは艦首付近に立ち、手にした三角帽をぎゅっと握りしめて沈みゆく海軍船を一瞥する。鼓動はまだ早く、耳鳴りとともに、遠くで仲間たちの歓声がわずかに響くが、彼の視界はあの青い船──あの日、自分たちを突き放したあの軍旗──に吸い寄せられていた。
海に沈むそれは、もう二度と浮かび上がることはない。
フランソワの胸の奥で、長い間抑えてきた何かが火を噴くように疼いた。彼は帽子を深く被り直し、舵のそばまで歩を進め、甲板に足を踏みしめた。周囲の喧騒が少し遠のき、鼓動と波の音だけが残る。
「俺は──フランソワ・ノワールだ!」
フランソワの声は太さを持って甲板上に投げ出された。言葉は波に乗って、すべての耳に届く。敵艦が傾き、乗組員が海に消えていく瞬間に、彼は自らの名を引き裂くように放った。
新しく掲げられた旗──砂時計に翼、解き放たれた鎖をあしらった黒旗──が風を受けて大きくはためく。
「フランソワ・ノワールだと!?」
遠目に残る海軍の士官が望遠鏡を握りしめ、唇を震わせる。彼らの視線は、赤旗に吸い寄せられた。色と図柄が一瞬で理解されたのか、あの望遠鏡の先で動揺が走る。
フランソワ・ノワールが自ら正体を明かし、海軍の前に姿を晒したその日。
フランス海軍はようやく不穏な敵の正体を知った。だが、それこそがフランソワの狙いだった。
自らを暴き、名を刻む。権威を示すには、陽光の下で血煙を上げるこれ以上の舞台などなかった。
甲板の隅、ルキフェルはその名を聞いた瞬間、胸の奥が強く跳ねた。
──ノワール。
耳にした瞬間、心臓が一瞬止まった気がした。海風が髪を掻き乱しても、汗の一滴が頬を伝っても、世界がその一語だけに静まり返るような錯覚に陥った。
ノワール。かつてスザンヌが自分に与えた名だ。
——スザンヌ。お前、今どこでこの名を聞いている?
海の風がフランソワの赤旗を大きくはためかせ、布が翻る音にルキフェルは息を呑んだ。
彼にとってノワールは愛の記憶であり、今や戦と血の象徴として海に刻まれていく。
パリ総司令部。普段は昼を過ぎても紙束一枚まともに動かない参謀本部が、この日ばかりは蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
怒号と靴音が入り乱れ、紙の匂いとインクの湿りが室内にこもる。いつもなら退屈そうに羽ペンを弄ぶだけの参謀たちが額に汗を滲ませ、地図の上に赤い印を次々と打っていった。机上では夜を徹して書き殴られた報告書が積み上がる。封印の赤蝋が乾かぬうちに、伝令が駆け込んでそれを奪い取る。ひとつ、またひとつ、「極秘」「至急」の文字が刻まれた封筒が王都へと飛んでいった。
「……危険人物、ですな」
アルマンが冷ややかに呟く。眼鏡の奥で、瞳はまるで氷のように光っていた。
「正体も出自も不明。だが軍艦三隻を沈め、目撃証言は一致している。『赤旗を掲げ、三角帽の男が指揮を執っていた』。奴がフランソワ・ノワールだ」
参謀のひとりが立ち上がって叫ぶ。
「手配書を作れ! 海軍・陸軍・港湾警備すべてに通達だ!」
「肖像画家を呼べ! 似顔絵を急げ! 名を出した以上、見せしめにしなければならん!」
絵師たちが押し寄せ、報告書に記された特徴を基に筆を走らせる。「茶色の髪」「眼光鋭く、頬に傷、瞳の色は……」「三角帽」。その像は指名手配の名の下に貼り出されることになる。皮肉なことに、海軍がここまで迅速に動いたのは久方ぶりのことだった。普段なら命令書一通に三日の議論を要する参謀たちが、敵の存在を前にすると見事なまでに機能を取り戻していた。
パリ総司令部の奥深く、厚い扉に隔てられた大元帥執務室。外の喧騒が嘘のように、ここだけが別の世界だった。エリオットは、報告書の最上に貼られた一枚の似顔絵をじっと見つめていた。紙の上には、黒い三角帽を戴いた若い男の姿。その下に記された名、フランソワ・ノワール。
「……元私掠船の船長ではないか」
エリオットはわずかに眉を動かし、指先で紙を押さえた。彼の隣、イザベルが報告書を閉じながら言う。
「参謀本部の結論です。奴は既知の海賊団には属さず、単独の勢力、もしくは新たな海賊国家の発端と見られています」
「新たな……海賊国家、か」
エリオットはゆっくりと立ち上がり、窓辺に歩み寄った。外には秋を迎えつつあるパリの街並みが広がっている。黄金色に染まった陽が、遠くセーヌの水面に反射していた。やがてエリオットは深く息を吐く。
「……報復だな。彼らを用済みにした我々に対する罰とも捉えられる。一枚の紙だけで結ばれていた連中が、強大な力を持って敵として現れるとは。口惜しい」
エリオットの瞳に映るのは、かつて自らが守り抜いた海と再び現れた黒い旗だった。
「次に現れるときは、敵国として相対する覚悟で臨む」
陽光の中で机上の報告書の上にフランソワ・ノワールの名が赤く反射した。
その赤は、まるでこれから流れるであろう血の色を示すかのように揺れている。




