第九章④ それぞれの立場から
ブレスト司令部の伝令が夜を裂いて駆け込むより先に、ひとつの部隊はすでに報を掴んでいた。
マクシミリアン・ブーケ——愛称はマクシム——は執務机に広げた地図の上で羽ペンを走らせていた。机の隅には整理された報告書がいくつも積み上げられ、蝋燭の光が微かに揺れている。その静寂を破ったのは、異国の香を纏う低い声だった。
「——サン・マロ湾が襲撃されたようですよ」
マクシムの手が止まった。彼は視線だけで声の主を見る。そこには緩やかに笑みを浮かべる東洋の男——情報商人のリー・ウェンが立っていた。
「……サン・マロ湾が? 確認は取れているんですか」
「はい。あの近海を航行していた、わたしの同僚が目撃したそうで。砲火と炎の夜だったと慌てて報告を寄越してきました」
リーは懐から一通の書簡を取り出した。上質な羊皮紙に封蝋が押されている。マクシムは眉をひそめ、呆れを隠さずに言った。
「……あなたは頼んでもいないのに情報を明け渡して、危機感というものがないんですか?」
リーは苦笑を返す。
「マクシムさんはお得意先ですから。それに……これは、次の任務でお役に立つと思いまして」
マクシムは黙って書簡を受け取った。封を切り、中を広げる。そこには、乱れた筆跡で描かれた二つの旗があった。
一つは、見慣れた意匠——エドガー・ロジャースの海賊旗。
そして、隣に描かれたもう一つには見覚えがない。砂時計、翼、断ち切られた鎖。
マクシムは眉を寄せた。
「これは、僕も知らない海賊団だ。新しい勢力、か?」
リーはゆったりと微笑んだ。
「フランスの海に、また脅威が迫ってきていますね。——歴史は繰り返すものですよ、マクシムさん。海は常に、支配されることを嫌う」
マクシムは書簡を静かに机の上に置き、視線を窓の外へ向けた。窓の向こうでは、ブレスト港が薄曇りの朝に沈んでいる。霧の向こうに、彼の部隊が守るラド・ド・ブレストの景色が見えた。穏やかに揺れる帆の列。その下で、海鳥の鳴き声が響く。平穏に見える光景の奥で、何かが動き始めている気配を、クシムは感じていた。ペン先が再び地図の上を走る。彼の眼差しは冷ややかに光っていた。
「……面白くなってきましたね。リーさん、引き続きその“同僚”に目を光らせておいてください。——僕たちも、いつか動く時がくるかもしれません」
リーは穏やかに一礼し、静かに退室した。残されたマクシムは書類作業を終えると立ち上がり、窓辺に立って再び塀の向こうの港を眺めた。吹き抜ける潮風の向こう、遠くに見えない海がある。そこには、新しい旗が翻っている。
夜襲から数日後。ラ・マンシュ海峡、灰色の海が朝靄の中で揺れていた。波の上に整然と並ぶフランス艦隊。その最前線に、ユルリッシュ・ルソー隊の旗艦〈ヴォルカニク号〉があった。砲門の整備を終えた水兵たちの掛け声が甲板に鋭く響く。その喧噪の中を、副官アンドリュー・マランが報告書を胸に抱えて駆け上がってきた。舳先に立ち、遠くの海を見据えていたルソーに息を整えながら告げる。
「准将、報せです。サン・マロ湾が……襲撃を受けたそうです!」
海風が一瞬止まったように感じられた。ルソーは振り返り、険しい眼差しでアンドリューを見据える。
「なにぃ? サン・マロ湾が? 敵はどこの艦隊だ!」
「それが……」
アンドリューは手にした報告書を開きながら、言葉を選ぶように答えた。
「敵は二つの海賊団、らしいです。こちらに届いた数日前の報告書に、その記載が」
「二つの海賊団、だと?」
ルソーはアンドリューの手から報告書をひったくるように受け取り、視線を走らせた。紙面には火災に包まれた湾の絵とともに、二つの海賊旗の図案が添えられている。一つは見慣れた、エドガー・ロジャース。あの悪名高い海賊の旗だ。だが、もう一つの旗を目にしたルソーの眉がぴくりと動き、低く唸った。
「……誰だ、これ。見たこともねぇ旗だぞ」
紙を握る手に力がこもる。海賊狩りとして幾多の船を沈めてきたルソーでさえ、その旗を知らない。それが怒りよりも不気味さを増した。
「……こいつら、ただ暴れたくて襲ってきたわけじゃないな」
ルソーは唸るように言い、報告書を折り畳んだ。
「明確にフランスそのものを敵に回す覚悟がある。そんなやつらだ」
彼は舳先の柵に手を置き、海風を受けながら遠くの波間を睨みつけた。その視線の奥には、戦場に立ちたいという衝動が見え隠れしているが、同時に自分の立場が彼を縛っていた。彼は報告書をアンドリューに返しながら目を細めた。瞳には燃えるような決意が宿っている。
「海賊どもに教えてやる。——このルソーの海に、タダで血を流させるわけにはいかねぇ」
荒れる波の音が彼の言葉に応えるように唸りを上げた。
厚い石壁に囲まれた静謐な部屋。窓の外では曇天が広がり、遠くで鐘楼が低く鳴った。長机の上に置かれた一通の報告書。
その紙面を、海軍大元帥エリオット・レオパードは黙然と見つめていた。報告書の端には、二つの海賊旗の図案が記されている。同じものを見たイザベルが息を吐いた。
「……まさか、同盟を組んだというのですか。一度に二つの海賊団が王国領を襲撃するなんて、聞いたことがありません」
エリオットは無言のまま椅子にもたれ、視線を宙に上げた。深く考えるように数秒の沈黙が落ちる。そして、エリオットは硬質な声で口を開いた。
「参謀本部に通達だ。過去に同じような襲撃を行った船団がなかったか、記録を洗い直せ。旗の特徴から、奴らの正体を掴み出せ」
彼の言葉に執務室の隅で控えていた初老の将校——司令官にして側近、アルマン・シャトレが敬礼する。
「御意」
アルマンは一礼すると、手に報告書を抱えて執務室を後にした。重厚な扉が閉じられた瞬間、部屋には再び沈黙が満ちる。イザベルがため息を吐き、机越しにエリオットを見つめた。
「この件……王宮に報せますか?」
エリオットは目を閉じ、深く頷いた。
「当然だ。大きな事態になる前に、手を打たねばならない」
窓の外では鈍色の空を裂くように一陣の風が吹く。カーテンがはためく音の中、エリオットはゆっくりと立ち上がった。彼の瞳には、かつて戦場で見た海賊の炎の残光がよぎっている。
「……だが、今はまだ情報が少なすぎる。奴らは必ず、もう一度現れる。各地の警戒レベルを上げろ。これは序章に過ぎん」
イザベルは頷いた。彼女の横顔に、わずかに影が落ちる。サン・マロの炎は、今や王都パリの心臓部にも届こうとしていた。
一方、アルマンは参謀本部で手元の報告書を丁寧に整理していく。日付順、目撃者別、旗の種類。あらゆる情報を精査し、既知の海賊団と照らし合わせる。数分後、アルマンは報告書の束を前に顔を上げ、眉を顰めた。
「やはり、既存のどの海賊団にも該当しません」
アルマンはそのまま主人の元へ戻った。冷静な声で告げられたアルマンの報告に、イザベルは窓の外をぼんやりと眺めながら呟く。エリオットは机に置かれた書類には目もくれず、窓の外に広がる灰色の海を見据えていた。沈黙の中で彼の力強い声が室内を満たす。
「『海賊撲滅』を果たすためにも、新たな脅威にも立ち向かわねばならない」
エリオットの言葉が重い決意となって室内に余韻を残した。
フランソワ海賊団の行動は海の向こうで波紋を広げた。
海軍司令部は即座に報告書をまとめ、王府へ上申。王室の反応は明確だった。
黒い旗の図柄と「砂時計+翼+解き放たれた鎖」が王府の公文書にまで記載される。
彼らの名は「公敵」として公式に刻まれたが、サン・マロ周辺の船乗りや無頼漢たちは夜襲の成功譚を美談として飲み込んだ。
フランソワ海賊団がトルチュ島に帰還すると、マテオとニールは酒場通りを中心にヨーロッパ各地、とりわけフランスの情報を収集してきた。
彼らの報告によれば、サン・マロの港周辺には再び不穏な影が差しているという。
駐在海軍士官が密輸業者と裏取引を重ね、賄賂と汚職にまみれているらしい。
フランソワとルキフェルは情報を精査し、すぐに結論に至った。
「サン・マロを拠点にすれば、いちいちトルチュ島に戻る手間も省ける」
こうして彼らはトルチュ島とサン・マロ、二つの拠点を持つ戦略を採ることにした。
まずはフランスの海でひと暴れし、その後にサン・マロの街へ潜入し、駐在士官と裏取引を持ちかける計画だ。
フランソワは目を細め、かつてベルナルドが教えてくれた小さな港を思い浮かべながら呟いた。
「以前、ベルナルドが教えてくれた入江。あそこに潜ろう」
ルキフェルも深く頷いた。
ベルナルドの死を思うと胸が締め付けられるが、彼の知恵が今もなお彼らの行動を支えていることに感謝の念が湧き上がった。




