第十章③ ルキフェルとソフィー
二人はしばらく雨を眺めていた。
雨の音が甲板を叩き、波間に消えていく。時間の感覚はすっかり失われ、どれほど長くそのまま佇んでいたかは分からなかった。
やがて雨は次第に弱まり、音と気配が遠くに去ると、フランソワは濡れた甲板にゆっくりと足を踏み出した。ルキフェルも彼の後を追う。雲の切れ間から月光が差し込み、濡れた甲板を柔らかく照らしていく。水滴に反射する光が、まるで銀の道のように二人の足元を浮かび上がらせた。
ルキフェルは夜空に広がる月と星々を見渡し、一際明るい星に目をとめた。
シリウス。蒼く、凛として輝く星はただ光るだけなのに、どういうわけか心を惹きつける力を持っている。フランソワが彼の横で声をかけた。
「お前も、少しは寝ろよ」
「わかってるけど、もうすっかり眠気なんか飛んだ」
ルキフェルの言葉にフランソワは微笑み、濡れた甲板に目を向けた。
「強情なやつ。俺もだよ。今夜は二人で夜更かしだな」
雨上がりの静寂と甲板に残る水の匂い。温かい空気の中で、二人の距離は自然と縮まっていった。ルキフェルは月光に濡れた甲板を見渡しながら問う。
「このあと、どう動きたい?」
フランソワは腕を組み、少しの間思案した。夜風に吹かれながら、港の静けさの中で戦略を巡らせる彼の横顔はどこか少年のようでもあり、大人の計略家のようでもあった。やがてフランソワは口を開く。
「フランス海軍を一隻、沈める。そのあと商船を襲って略奪。そんで、トルチュ島に行こう」
ルキフェルは呆れたように笑みを浮かべる。
「大胆だな。でも、フランソワらしい」
ルキフェルはふと口を噤み、少し言葉を付け加える。
「いや、フランソワ・ノワールだったな。フランスに刃向かう、黒の象徴」
フランソワは鼻で笑い、甲板に足を踏みしめる。
「どうせやるなら、派手にいこうじゃないか」
フランソワの瞳は月光に照らされ、鋭く妖しく光った。大海賊としての片鱗をすでに帯びている。
ルキフェルは今まであまり意識したことのなかったフランソワの瞳に目を留めた。
よく見てみると、瞳の色は深いバイオレット。暗闇に吸い込まれそうで、同時に何かを惹きつける、怪しくも魅力的な光を宿していた。
ルキフェルは一瞬息を呑み、再び視線を海に戻すが、心の奥には今までになく強烈に刻まれたフランソワの存在感が残った。
刻一刻と時は流れ、水平線から太陽が顔を出し始める。金色の光が甲板を染め、海面はきらきらと輝いた時、船内に続く階段を駆け上がる、数人の足音が響いた。
「おっす、船長!」
風に燃えるような赤髪を揺らし、ジャスパーが片手を挙げながら甲板に飛び出す。
彼の背後ではマテオが欠伸を噛み殺し、ニールとコリンが眠気を引きずりながら甲板に姿を現す。
コリンは相変わらず小柄だが、出会った当初より背がぐんと伸びていた。
ルキフェルは思わず寂しさを覚える。もうこの子を簡単に抱えられることはないのだな、と。だが同時に、少年の成長を目の当たりにし、心の奥で小さく嬉しさが芽生えた。ルキフェルは四人に向かって声を張る。
「朝から働いてもらうぞ。我らが船長は、次も派手に暴れたいそうだ」
ジャスパーは肩をすくめて笑う。
「はいはい、おれたちはもう慣れっこさ。早く舵をとらせてくれよ」
彼の長身と飄々とした態度からは、すっかり五人組の年長らしい貫禄が漂っていた。マテオが胸を張りながら答える。
「砲台の点検は暇さえあればやらせてる。いつでも撃てるからな」
綺麗な顔立ちに似合わぬ口の悪さと義手の存在が不思議なほど警戒心の高さに結びつき、ルキフェルもフランソワも彼の頼もしさを認めていた。銃の腕も、今じゃ誰にも引けを取らない。
ニールは金髪を風に揺らし、いつもの爽やかな笑顔で青い目をキラリと光らせた。
「任せてよ」
コリンは少し緊張した様子で、深い茶色を湛えた目を輝かせながら言った。
「今度、剣を教えて。ぼくも戦うから」
ルキフェルは面食らったが、すぐに頷いた。
「ああ、俺がみる。約束な」
思わずコリンの黒髪を撫でそうになったが、少年がムッとした顔を見せた。行き場を失ったルキフェルの腕が少しだけ彷徨い、コリンの肩を強く握りしめた。
「生半可な覚悟じゃないか、俺が見極めてやる」
ルキフェルの言葉にコリンは頷き、ルキフェルは笑みをこぼした。その時、風が一際強く吹き、暗褐色の髪が視界を妨げる。頭上からバサバサっという音がして、ルキフェルは思わず前髪を払って顔を上げた。
そこには昨夜、掲げたまま放置していた、海賊旗が風を受けて揺れている。ルキフェルは夜明けの金色が海面に反射する中で、ゆらゆらと揺れる旗に目を奪われていた。黒地に白銀で描かれた砂時計。その砂はまだ半分残っていて、時間の重みとこれから迫る死の予感を告げていた。だが、両脇から大きく広がる翼が砂時計の不気味さを包み込むように光を受けて羽ばたいている。
自由。束縛なき魂。ルキフェルの胸に幼い頃から抱いてきた海への憧憬と、今の決意が一気に押し寄せた。旗の下部から切れた鎖が旗の端まで勢いよく伸び、まるで海風に乗って解き放たれた魂が跳ね回っているかのようだった。
砂時計は死を告げるのに、翼と鎖はそれすら超越する自由を示していた。
これが、フランソワの意思そのもの。自由を奪われた者たちが暴れ狂う海の象徴。
ルキフェルは拳を軽く握りしめた。これから待ち受ける戦いは苛烈だろう。それでも彼はこの旗の下で、フランソワと共に、海に生きる決意を強固にした。
「……自由か」
ルキフェルの瞳に夜明けの光が反射して、翡翠色がさらに深く輝いた。海の向こうに広がる無限の航路が、彼の心の奥底で呼応するように揺れる。海風に髪を揺らし、潮の香りが湿った甲板を満たす中、六つの影は夜明けを見つめていた。
ルキフェルは一歩前に立ち、肩越しに広がる水平線を見据える。ジャスパー、マテオ、ニール、コリン、そしてフランソワ。彼らの瞳は同じ光を捉え、言葉は交わさずとも心の奥で絆を感じていた。眼前の海は、ただの水面ではない。銀色に煌めく波が生き物のようにうねり、柔らかな声でささやく。
——さあ、早くこちらに来い。
波は手を伸ばすように寄せ、潮風は衣服をそっと撫で、光の一筋一筋が航路を照らす。海全体が六人を歓迎し、未知の冒険へと誘う生きた存在のようだ。
過去の痛みも恐怖も怒りも、すべてが力となり報復の道であろうと彼らは迷わず前へ進む。
海は楽しげに囁き、光は祝福し、風は背中を押す。広大な海の神秘の中で、彼らの伝説は始まる。
一度でも良い波に乗ってしまえばあとは簡単。
始まりはほんの些細なこと。小さなエピソードが少しずつ積み重なっていく。
やがて大きな波のうねりとなり、誰かの耳に、記憶に伝搬していく。
そのうち噂や伝承として村へ、街へ、巨大な都市へと次第に広まっていく。
気がつけば、大きな波が時間をかけて国中を飲み込む。
恐怖の波だ。全てを飲み込むような波。波は引かないどころか、また大きな波を呼ぶもの。
彼らが起こした波は恐怖と、一部の人間にとっては賞賛も孕んだ波。
そんな恐怖の連鎖が巻き起こる中で、時はあっという間に流れた。
フランソワ海賊団の旗揚げから三年経過。
——二〇二六年。
朝の光が訓練場を優しく照らす中、ソフィーはそわそわと心を震わせていた。
あの夜明け、海上で命を救ってくれた男——マクシミリアン・ブーケ隊長——と再会するチャンスが巡ってくる。ジョルジュは欠伸を噛み殺しながら、のんびりと口を開く。
「そういや今日、志願書の提出日だったなー」
ソフィーは目を大きく見開く。
「え、もしかしてジョルジュもマクシミリアン隊?」
ジョルジュは呑気に肩をすくめた。
「うん? そうだよ。なに、もしかしてソフィーも志願したの」
ソフィーは胸を張って誇らしげに答える。
「当然よ。昇進に必要な資格は取得準備もしてるし、うまくいけば晴れて軍医見習いから軍医に昇格できるから」
ジョルジュは軽く笑って聞く
「ふーん、でも面接対策は?」
その途端、ソフィーはがっくしと肩を落とした。
「……それは全く」
ジョルジュは吹き出し、一頻り笑ったあと口を開いた。
「まあ、なんとかなるでしょ。こういうのはねー、雰囲気だよ。雰囲気。それに、面接って言っても数ヶ月後じゃん? まだ全然時間ある」
訓練場の風が彼らを応援するかのように二人の髪をそっと揺らす。ジョルジュは訓練用の銃の手入れをしながら軽い調子で言った。
「そういえば、聞いた?」
ソフィーは顔を上げ、眉をひそめて「何を?」と問い返す。
「ほら、大海賊フランソワの噂だよ。候補生たちの間で囁かれているやつ」
その名を聞いた瞬間、ソフィーの心は騒つい他。
大海賊フランソワ。自らをフランソワ・ノワールと名乗り、フランス海軍の艦隊を次々と沈めていく無法者。その名はもはや、直接の危害がなくとも民衆に戦慄を与えるほどに広まっていた。
ジョルジュは肩をすくめ、続ける。
「そんなフランソワだけどさ、昔は私掠船の船長だったらしいよ」
ソフィーは一瞬言葉を失い、目を見開いた。
「私掠船って……略奪を合法化した船団のことでしょ? それ、本当にいたの」
「なんか、フランスにもそういう奴らいたらしいよ。私掠船許可証って言ったかな? 今でこそ、そんなもの発行してないけど」
ジョルジュは口元に笑みを浮かべたまま続ける。
「それがあれば、国が『あ、好きに略奪していいよー』ってスタンスの下で、暴れ放題っていう無茶苦茶な制度があったらしい」
ソフィーは再び眉を寄せる。
「……それで、フランソワはその船長だったの?」
ジョルジュは軽く肩をすくめ、念を押す。
「まあ、あくまで噂だけどね」
実際のところ、フランス海軍の上層部はフランソワとエドガーに夜襲を仕掛けられたあの日以来、恥ずかしい過去——私掠船に関わる事柄——を秘匿にしていた。だが、一部の上官たちが口にしたその話は末端の者たちにほんのり届くこともある。すべては噂として。
ソフィーは眉を顰めながら呟いた。
「なんでそんな噂が広まるんだろう」
彼女にとって、略奪は褒められたものではない。犯罪行為だ。それを過去に国が容認していたなんて、信じ難い話だった。ジョルジュは天を仰いで軽く呻きながら答える。
「この噂を参考に……なんか突然その許可証を取り上げられたから、海賊たちは怒ってるんじゃないかって推測してる候補生がいた。それなら、筋は通るかもね」
ソフィーは唇を噛み、視線を遠くに向けた。
国の制度が変わった瞬間、自由を奪われた者たちの怒りは海に溢れ、今もなお海上で牙を剥く。そんな想像が頭を過る。ソフィーはしばらく想像を膨らませたが、堂々巡りな思考に気づくと頭を振って邪念を振り払った。
「考えても仕方ない」
自分に言い聞かせるように呟き、ソフィーは首から下げていた首飾りに視線を落とした。
銀細工で形作られた龍と蛇、中央に嵌められたアクアマリンが光を受けて柔らかく輝いた。かつて、約束の証として幼い友人がくれたもの。自由を渇望する少年の想いが、結晶になったような品。
ソフィーはその小さな宝物を掌で掬い、そっと握りしめた。大事な時、いつも握りしめると勇気をくれる。
「よし——今日も、前に進める」
ソフィーが顔を上げると、ブルーグレーの瞳が夜明けの光を受けて瞬いた。
まだ見ぬ海の蒼さ、これから待ち受ける波瀾の日々。そして、分かり合えるはずもない者たちとの出逢い。
海は彼女すらも誘うかのように、神秘的な呼び声をかけていた。
———
青空の下、船尾には一人の男が佇み、空と海を見つめていた。
あまりの蒼さに、空と海は溶け合うかのように見える。
暗褐色の髪を風に揺らしていると、甲板の方からジャスパーの間抜けな声が響く。
「ぬああああ、誰か来てくれー!」
整理したばかりの物資を床にぶちまけたのだろうか。男はゆっくり振り返る。
額の左から頬の奥深くへ斜めに走る裂傷。皮膚は歪に盛り上がり、鞭で打たれた跡や浅い切り傷が網のように重なり、元の顔立ちは想像もできない。だが、翡翠色の瞳は光を受け、仲間の声に応えるように一層煌めいていた。
「待ってろ、今そっちにいく!」
この男——二十五歳のルキフェル。
誰がどう見ても海の男そのものだった。細身に見えながらも、確固たる強靭な軸を内に秘め、しなやかに柔軟に動ける。その身は長年の訓練と経験で鍛えられ、まるで海と共鳴しているかのよう。
冷静な態度の裏に燃える情熱。それが彼を海の男たらしめるものだった。
ルキフェルは船尾に背を向け、潮風と光を受ける海を眺めながら呟く。
「俺は、これからも海と共に過ごすんだろうな」
穏やかな風と波に導かれ、航海は順調に進む。
仲間たちの想い、そして自分自身の覚悟が、今の彼を支えていた。
船の木材は波の揺れに応じてきしみ、帆は風を受けて膨らみ、甲板に立つ男たちの足音に合わせて軋む。
まるで船も彼らの意思を感じ取り、生きているかのよう。海面は光を反射して揺れ、波が甲板に軽く打ち寄せるたび誘うように輝く。
ルキフェルは海に微笑みを向け、今度こそ船尾を後にした。
その背に、仲間たちの信頼と自らの決意を背負って。
海に自由を見出し、広い大海の中で一筋の航路を見つけた者たち。
たとえ報復の道だとしても……その航路を選び抜いて突き進む彼らに。
海はまた次なる航路へと誘うように広がっていた。
伝説の裏側で、語られない物語は続いていく——。
——物語は、第三巻へと続く。




