第九章① 五人組とフランソワ
夜が明ける頃、フランソワはようやくブエソルへ帰ってきた。
酒の匂いをまとったまま自室に引きこもる。
その間、ラ・カレータでは、五人の若い海賊たちが朝の潮風に吹かれながら、古びた〈リュシアン号〉を造船所へと曳いていた。船体は痛みが激しく、船底の板は潮と塩に蝕まれていた。
到着当初、フランソワが修理を忘れ、船員たちを解放してしまったせいで、誰も手をつけずに放置されたのだ。ルキフェルたちはロープと滑車を使い、現地の船大工たちとともに、重い船体をゆっくりと横倒しにしていった。潮が引くと、船の腹があらわになり、そこには海藻やフジツボがびっしりと張りついている。
「……ひでぇな」
ジャスパーがため息をつきながら、柄の短い修理斧を手に取った。ルキフェルも無言で頷き、潮に濡れた船底に手を当てる。木の肌はざらつき、どこか人肌のように疲弊していた。
それでも、生きている。修復さえすれば、また海を渡れる。
五人は黙々と斧で海藻とフジツボを削ぎ落としていった。斧が木を叩く乾いた音が波の音と混じり合いながら、朝のラ・カレータに響いた。船底の修理が終わる頃、太陽はすでに真上まで昇っていた。半日かけて、ようやく〈リュシアン号〉の腹が再び海風に晒される。最後のフジツボをこそぎ落としたルキフェルが斧を下ろすと、腕の筋肉がじんわりと痺れていた。潮と汗が乾き、塩の粉が肌に白く浮いてくる。その時、ニールがパンの包みを抱えて市場から戻ってきた。
「おーい! 全員分、ちゃんとあるよ!」
焼きたての香ばしい匂いが広がる。ジャスパーが真っ先に手を伸ばし、パンをひとかじりして頬張った。
「それにしてもさ……」
ジャスパーは口の端からパン屑を落としながら、船体を見上げる。
「うちの船も、よく頑張ったよな」
五人の背後で、造船所の職人たちが声を掛け合いながら、横倒しにしていた船をゆっくりと元に戻している。ぎしぎしと軋む音が古びた骨のように響いた。
「あの船って、旗揚げした時からのやつだろ?」
マテオの言葉に、ジャスパーがパンを頬張ったまま頷いた。
「そろそろ引退かもな」
ルキフェルは黙って、手のひらについた木屑を払った。彼の視線の先で職人たちが船体を支え、潮風が帆柱の影を揺らしている。その影は、まるで歳老いた巨人が立ち上がろうとしているようだった。
「……まあ、否めないな」
ルキフェルがようやく絞り出した声は、どこか潮の匂いを帯びていた。何年も、苦楽を共にした船。幾度となく嵐を越え、砲弾をくぐり抜けてきた木の塊。今はもう、彼らと同じように疲れ果て、穏やかに老いを受け入れつつある。ニールが手にしていた斧の柄で砂をいじりながら言った。
「じゃあ、これからコーキングしても意味ないってこと?」
コーキングとは船板の隙間を塞ぐ作業のことだ。傷んだ部分を剥ぎ、そこに麻屑やロープを埋め込み、熱したピッチを流し込んで海水を防ぐ。地味で根気のいる作業だった。ジャスパーは肩をすくめて、にやりと笑う。
「いやいや、意味なくなんかねえよ。他の誰かが使うかもしれないじゃん? 遠いとこまでは無理でも、この島の周辺ぐらいならまだ走れるさ」
潮風に混じって、港の方から市場のざわめきが聞こえてくる。修理を終えた船体の影が、ゆっくりと午後の陽を伸ばしていった。コリンが手を止めて、ぽつりと口にした。
「ぼくたち、このまま島に住むの?」
ルキフェルは海の方を見た。遠くに光る青、波打つ水平線が胸を騒つかせる。
「……分からない」
彼の呟きは風に溶け、港のざわめきにかき消えた。マテオが腕を組み、軽くため息を吐く。
「まあ、フランソワ次第だろ。何考えてるのか知らないけどさ」
ルキフェルは海を眺めたまま穏やかな顔をしていたが、胸の奥では言葉にならない感情が幾層にも絡み合っていた。
彼にとって、海はあまりにも近しい存在だった。目を覚ましたときから、海はそこにあった。
記憶を失ったまま初めて見上げた青い世界、あの蒼さがいつしか彼にとって家になり、母胎のように包み込み、鏡のように自分を映し出した。
海を見ていると時折、自分という存在の輪郭が曖昧になるような気がした。陸の上に身を置いても、どこか落ち着かない。一度は穏やかな生活を手にしたはずなのに、気づけば海の匂いを求めている。
帆が風を受ける瞬間、銃声が遠くで木霊する瞬間、そのひりつく空気の中でしか、自分は呼吸していない。危うい綱渡りのような日々だが、あの危険こそが彼の生の証だった。
トルチュ島での平穏は、確かに悪くない。人々は笑い、陽はやわらかく降り注ぐ。だが、その静けさの中にこそ、彼は海への想いを痛感していた。フランスで居場所を失い、海を渡り、今こうして陸に立つ。だが、胸の奥では波がずっと打ち寄せている。
まるで、あの果てのない蒼が彼を呼んでいるように。
「どうした、ルカ?」
マテオの声に、ルキフェルは息を吐いた。海面を撫でる風が乾いた潮の香を運んでくる。
「……なんでもない」
ルキフェルの声は、どこか遠くを見つめるように淡かった。その時、造船所の入口から重い足音が響いた。五人が目を向けると、陽の光を背にした一人の男がこちらに歩いてくる。
フランソワだった。寝ていないのか頬はこけ、目元には深い影が落ちている。両腕には厚い紙束を抱え、まっすぐ五人組の前に立つと、「ここにいたか」とだけ呟いた。ジャスパーが口笛を鳴らす。
「まったく、島に着いてから夜通し遊んでばっかだろ。だから老けてるぞ、フランソワ!」
フランソワは笑うでもなく、肩で息をしていた。ニールが紙束を指差す。
「それ、何?」
フランソワは息を整えて答えた。
「チラシだ。志願者を募るためのな」
「志願者?」
「何のだよ」
マテオとジャスパーが声を重ねた。フランソワは無言のまま紙束を差し出す。ルキフェルが一枚を手に取り、視線を落とした。半ば殴り書きのような文面を見た瞬間、息を呑む。
《新生フランソワ海賊団、旗揚げのための船員志願を募る。標的はフランス海軍》
潮風が紙の端を鳴らした。ざわ、と周囲の空気が揺れる。ルキフェルの手の中の紙が、まるで新たな運命の幕開けを告げる旗のように震えていた。
「フランス海軍……? どういうことだ。かつて同盟のようだった国を相手にするって……」
フランソワは答えず、遠くの海を見た
「このまま泣き寝入りするのはごめんだ。昨日、長老とエドガーと呑んでて気付いちまった。……俺は、なんとしてもあの世界に還りたいらしい」
フランソワは五人の顔を順に見渡した。その目に宿った光は、疲労とは別のものだった。
「このチラシを、トルチュ島の至る所に貼っていってくれ。船に乗るかどうかは自分で決めろ。ただ、少しばかり手伝ってほしいだけだ」
静かな熱が五人の間に広がった。誰もまだ返事をしていないのに、胸の奥がざわついて仕方がなかった。
「でも、海軍を敵に回すって……勝てるのかな」
ニールの声には迷いが滲んでいた。フランソワは唇の端を吊り上げて言った。
「安心しろ。エドガーも一緒だ。最初の方だけは、な」
五人が一斉に目を見開いた。
「え、あの黒い船の人たちと!?」
コリンが半ば叫ぶように言い、顔を引きつらせた。
「心強いとは思うけど、ちょっと怖いなあ」
コリンの言葉にジャスパーがケタケタと笑い出す。
「なんだ、坊や。この島でお留守番かな?」
「坊やって言うな!」
コリンは頬を膨らませる。ニールが苦笑し、マテオは肩をすくめた。そんなやり取りの中で、ルキフェルだけは黙ってチラシを見つめていた。指先に残る紙のざらつきが、妙に現実味を帯びて感じられる。
「フランソワ。リュシアン号は限界だ。船はどうする」
フランソワは迷いなく答えた。
「新しい船を用意すればいい。何もかも、新しく生まれ変わるんだ」
五人組の間に、しばらく重苦しい沈黙が落ちた。波の音が遠くからかすかに響いてくる。造船所の天窓から差し込む光が、木屑の舞う空間を淡く照らしていた。フランソワの姿は微動だにしなかった。疲れの色を滲ませながらも、瞳だけは真っ直ぐに彼らを見据えていた。ルキフェルはそんな彼と視線を交わしたまま動けずにいる。
——育ての親が、再び海に出ようとしている。海軍を敵に回すなど、常識的に考えれば無謀だが、海軍に受けた仕打ちを思えば、フランソワの想いを否定することもできない。それに、また海と共に過ごせるなら。彼の背を見つめてきた年月の延長に、もう一度だけ身を投じられるのなら。
ルキフェルは迷いを断ち切るように息を吸い込み、はっきりと口を開いた。
「俺は、ついていく」
他四人が同時に顔を上げた。ルキフェルは続ける。
「俺は、フランソワが暴走しないように見張る。それがクォーターマスターの責任だから」
フランソワは一瞬、驚いたように目を瞬かせ、それからゆっくりと笑った。その笑みは船長としての威厳よりも、どこか父親のような温もりを帯びていた。
「……ああ、ありがとう。お前がいないと、船の秩序は保たれない。……頼りにしてるぞ、ルキフェル」
造船所の奥で、新しい船体の木板が打たれる音が響く。沈黙を破ったのはジャスパーだった。肩をすくめながら、口の端に皮肉めいた笑みを浮かべる。
「まったく、あんたらは相変わらずね」
彼の声音には、どこか楽しげな響きが混じっていた。
「だから面白い。陸の世界は、ハッキリ言ってつまんないから」
彼は足元の木屑を軽く蹴り飛ばし、空を仰いだ。
「それに、おれがいないと嵐も避けられないし、良い波にも乗れないだろ? 陸の上じゃ、おれの存在なんてただの風任せさ。だったら、また海の上で暴れさせてもらうよ」
フランソワは微笑を返す。するとニールが、少し恥ずかしそうに笑いながら口を開く。
「僕も……航海士の勉強が中途半端なままだから。また勉強させてもらうね。あの広い海でもう一度、星の読み方を試してみたい」
彼の隣でコリンが勢いよく一歩前に出た。
「ぼ、ぼくも! フランソワとルキフェルが行くなら、ぼくも行く!」
小さな拳をぎゅっと握りしめるコリンを見て、ルキフェルが苦笑をこぼしたが、その表情にもどこか嬉しさが滲んでいる。
マテオはルキフェルの横顔を見つめていた。頬の端に刻まれた裂傷痕、無数の創傷の痕跡、そして強大な想いを背負い、覚悟を決めたその横顔。
密かに思っていた。争いのない穏やかな場所で暮らす方が、こいつにはふさわしいのではないかと。だが、ルキフェルの翡翠の瞳の奥には目の前に立つフランソワと、彼の背後に広がる海が映っている。
ここにいることで、ルキフェルが本当に望んでいるものが何かを、マテオは改めて思い知らされる。
ならば、自分は引き続き相棒の隣に立って、守るのみ。
マテオは小さく唇を歪め、不敵な笑みをこぼした。
「上等じゃねえか。オレたちを捨てた海軍に、仕返しってわけだ」
マテオは視線を海の果てに向け、核心を突く声で続ける。
「“報復”だな、こりゃ。このだだっ広い海の中で、一筋の航路を見つけた。報復の航路ってわけだ」
風が穏やかなようで荒々しく、遠くで波を揺らす音がマテオの言葉に呼応するかのように響いた。フランソワは口元を緩めて呟く。
「報復の航路か……。マテオにしては珍しく、良いことを言う」
一瞬、マテオの眉がぴくりと動く。イラッとしたが、フランソワが自分に向けた、父親のような微笑みを見た時、マテオは言葉を失った。渇いた心の奥底に、まるで湧き水が流れ込むかのような感覚が広がる。そんな空気の中、ジャスパーが肩をすくめて口を開いた。
「そうと決まれば、まずは船探しだなあ」
ルキフェルは頷き、視線を遠くの港の方向に向けて言った。
「人員集めは後回し。まず船がないと話にならん」
ルキフェルはフランソワに向かって、少し釘を刺すように言う。
「熱意だけじゃ船は出せない」
フランソワは苦笑して、素直に頭を下げた。
「すまん、つい先走っちまったな」
ニールが前のめりに話を継ぐ。
「海軍相手にするんだよ。誰か百トンか二百トン程度のガレオン船、港で引き取ってもらえるか聞き込みしてみようよ」
マテオは鼻を鳴らす。
「そんな都合よくあるか?」
ニールは目を輝かせて答える。
「でもやらないことには始まんないよ!」
「じゃあ、ぼく聞いて回るー! ぼく、身軽だから!」
コリンは嬉々として造船所を駆け抜ける。石畳に響く小さな足音が、まるで海の精霊が先導するように跳ねる。
「あ、待て! ガキは付き添いがいるだろ!」
ジャスパーが慌てて追いかけるが、コリンは軽やかに振り切る。
「そこじゃねえだろ!? 誰かあのガキ、止めてこい!」
マテオが怒声をあげるも、声だけで制止できるものではなかった。
「まったく、子供みたいなの三人を監督する僕の身にもなってよね」
呆れ顔のニールは肩をすくめ、スタスタと歩いて去っていく。
ルキフェルは足を止め、〈リュシアン号〉を振り返った。船体は修理の手が入ったばかりで、かつて苦楽を共にした傷跡を静かに見せている。ルキフェルが手を伸ばして船底に触れると擦れた跡が指先に伝わった。彼の背後ではコリンの駆ける足音やジャスパーの笑い声、マテオの怒声、ニールの嘆き声が遠ざかっていくが、ルキフェルは〈リュシアン号〉に手を添えたまま、目元にかすかに影を落とし、胸の奥でさざ波のように思い出が揺れる。
「じゃあな、ゆっくり休めよ」
ルキフェルが呟いて手を離そうとした瞬間、背後から柔らかな声がかかった。
「こいつは長い間、俺たちの命を運んできた。何度も危機から救われたな」
ルキフェルが振り返ると、フランソワが彼の肩に手を置いた。ルキフェルは深呼吸し、改めて〈リュシアン号〉に目を向けた。
「ありがとう。今まで本当に……お疲れ様」
ルキフェルは短い言葉に思いを込め、船に別れと感謝を告げた。自然と胸が軽くなり、笑みが浮かぶ。
「行こう。やることが山積みだ」
ルキフェルはフランソワと肩を並べ、造船所の外に広がる青い海と仲間たちの方へ歩みを進めた。
コリンやジャスパー、ニール、マテオたちが遠くで声を掛け、手を振る姿が視界に入る。
ルキフェルとフランソワの心に波の音が鳴り続けた。
海はまるで遠くに立つ仲間たちと自分をつなぎ、過ぎ去った日々も、これからの航路も見守るように響いている。凪いだ風に揺れる波のざわめきが、胸の奥に小さな火を灯す。
二人は静かな凪の時間を背に鼓動を胸に刻み、再び海に向かう道を踏み出した。




