第八章⑤ フランソワ
フランソワは揺れるランプの炎をぼんやりと見つめていた。
テーブルの上には、粗末な陶器の皿と空になりかけたジョッキがいくつも並び、脂と酒の匂いがしみついている。
ここは管理人の屋敷。バッカニアの子孫たちが集い、簡素な料理を分け合う食堂。その一角の古びた木のテーブルで、フランソワはジョッキを片手に黙って座っていた。
同席しているのは、長老とエドガー。さっきまで話題にしていたのは、十六年前に死んだゼフィランサスのこと。
「……そんなわけで」
エドガーが苦笑しながら、ジョッキを口に運ぶ。
「オレたちはゼフィランサスが帰ってくるたびに、剣術の修行だ。あの人、酔ってても容赦なかった」
ごつんと木の卓にジョッキがぶつかる。ランプの炎が揺れ、エドガーの目に映った光は昔日の熱を帯びていた。
「まあ、厳しかったな。けど、その前の生活のほうがキツかった」
エドガーは深く息を吐き、続けた。
「オレとフランソワは、スペインへ出稼ぎに行ってた。オレは港で荷運び……こいつは、知り合いの伝手で暗殺の手伝いだ。得体の知れねぇ島の人間なんざ、裏の仕事しかねえからな。食うためにゃ、なんでもやるしかなかった」
フランソワは黙ったまま、ジョッキの底を見つめる。その手にわずかな震えが宿るのを、長老は見逃さなかった。
「けどよ。ゼフィランサスがオレたちの師匠になってくれて、やっと別の道を歩けるようになった。剣を使うことも、血を流すことも、ようやく自分のためじゃなくて生きるためにできるようになったんだ」
「……ああ」
フランソワの声がようやく漏れた。懐かしさと痛みが入り混じった響き。エドガーは酒気を帯びた息を吐きながら笑った。
「ま、オレはゼフィランサスの分隊だったけどな。フランソワは、ゼフィランサスが直々に指揮してた船に乗ってた。ゼフィランサスのことを一番よく知ってるのは、こいつだ」
エドガーの言葉に、長老の目が細められる。
「あの羅針盤。ゼフィランサスの私物で、間違いないのか?」
フランソワはジョッキを卓に置いた。淡い炎がその顔を照らし、影が頬の傷を濃く映す。
「そうだ。あの羅針盤は常にエル・イエロ島を指し示す。帰る場所がいつでも分かるようにって、ゼフィランサス本人が言っていた」
「……島そのものを指す?」
長老の眉がわずかに動いた。
「北の方角ではなく、地そのものを。奇妙な話だな」
フランソワは薄く笑った。
「理屈じゃ説明できないこと、あなた方もよく分かってるはずじゃないか?」
刹那、周囲の空気がわずかに張りつめた。食器の音が止まり、バッカニアの子孫たちが一斉に手を止めて彼らを見つめるが、長老は片手を上げて「気にするな」とでも言いたげに合図した。すると再び食器の音と話し声が戻り、場の空気がゆるやかに動き出す。フランソワは何事もなかったかのようにジョッキを揺らした。
「島の一部に砂鉄でできた海岸がある。特定の鉄だけ吸う力がやけに強い。あの羅針盤の針はその鉄を加工したもの、砂鉄の海岸に引き寄せられるように作られてる。……色んな国を追われた連中の、知識の結晶だよ」
彼の声は淡々としていたが、その奥に遠い記憶の熱が滲んでいた。ゼフィランサスと共に過ごしたあの潮風の夜。それが、もう二度と戻らないものだと知りながら。長老はゆっくりと顎に手を当てた。
「その結晶を手放す意味、教えてはくれないのか?」
フランソワは天を仰いだ。ランプの光がゆらめき、彼の瞳にわずかな迷いを映す。エドガーはジョッキを傾けながら隣で息を潜めていた。
彼にとって、エル・イエロ島は過去の影に過ぎない。帰りたいとも思わないし、故郷と呼ぶ気もなかった。だが、あのフランソワが故郷を示す羅針盤を手放した。その理由だけは、どうしても知りたかった。
やがて、フランソワは唇を動かす。
「……俺は、あいつの話を持ち出されたくないんだよ」
脳裏に浮かんだのは、傷だらけの顔——ルキフェルの顔だった。
「ルキフェルが穏やかに暮らせるためには、ゼフィランサスの存在が邪魔なんだ。記憶ごと、な」
長老の眉がわずかに動く。
「……穏やかに、か」
彼はフランソワの言葉を反芻するように呟き、そして静かに首を振った。
「どうだろうな。あの瞳、あれは海と共に在る男の眼だ。この島での生活も、長くは続かないだろう」
フランソワはハッとしたように目を瞬かせ、ゆるやかに苦笑を浮かべた。
「……そうだな。あいつは、そういう奴だった」
思い出すのは、かつての三人——ルキフェル、フランソワ、そして今はもういないリュウ。
三人はゼフィランサス船団を抜け、穏やかな日々を手に入れたはずだったが、数年が過ぎた頃だ。
ある日から、ルキフェルの視線がいつも海の方へ向かうようになった。
まるで、あの深い蒼に呼ばれているかのように。フランソワはあの時のことを思い返す。
「……だから、俺も動いた。フランスに頭を下げて私掠免状を取って、私掠船って名目で海に出れば、あいつの居場所を守れると思った。あいつの自由を奪わずに済むと、そう信じてた」
フランソワは小さく息を吸い込み、目を閉じた。胸の奥に、あの声が蘇る。海の匂いとともに。
——静かな入り江。風が帆を鳴らし、陽光が穏やかに波に散っていた。
リュウは足を組んで座り、遠くを見て言う。
「誰もが潮風を求めているようで結局、風に流されているだけじゃないかと、時々思う」
フランソワは笑った。
「流されるのが悪いとは思わねえ。問題は、どの風に流されたいかだ」
リュウは一瞬だけ目を見開き、それから穏やかに頷いた。
「……ゼフィランサスの風、か」
「そうだ。あいつの風は、嵐みたいだった。怖くて、苦しくて……でも一度吹かれたら、もう陸には戻れねぇ」
フランソワは肩をすくめた。
「結局、俺も同じなんだよ。あいつに吹かれたまま、どこにも辿り着けねえでいる」
リュウは目を細め、低く言った。
「……それでも、君はまだ帆を張っているんだな」
「当然さ。あいつが残した風を無駄にしねえためにもな」
「結局、君も海に出たいだけではないか?」
そう言って、リュウは目を細めて笑った。
「出たいだけ、か。俺は……」
フランソワはうまく言葉にできなかったが、沈黙のあと、ぽつりと口を開いた。
「陸にいれば、誰かの都合で風が吹く。海の上なら、風は誰のものでもない。……たとえ嵐でも、自分の選んだ風に飲まれるなら、それでいい」
リュウはしばらく黙っていた。やがて、柔らかな声で言う。
「なるほど。君は、風に逆らうことが自由だと思っているんだな」
「違うさ。逆らうんじゃない。ただ、どこに吹かれていくかを自分で選びたいだけだ」
リュウはどこか哀しげに笑った。
「……それでも、風はいつか止むよ。フランソワ」
「その時は、また帆を張り直すさ」
潮騒が二人の言葉をさらっていった。フランソワはひとつ息を吐き、微かに笑った。
「……でも、そうだな。俺は結局、あいつの風に生かされてる。たとえ吹き荒れても、あの風だけは……忘れられねえんだ」
彼の瞳には、懐かしさと痛みとが溶け合っていた。潮騒の音だけが残る。
それが、二人の最後の会話だった。
——目を開け、フランソワは微かに笑った。
「俺も結局、海を前にして陸にいられねえ性分なんだ」
長老が席を立ち、部屋を出ていったあと、残されたランプの炎が二人の影を壁に揺らした。エドガーは空になったジョッキを無造作に卓へ置き、ふと口を開く。
「じゃあ、やることは一つだな」
フランソワが眉を上げる。
「やること?」
エドガーは歯を見せて笑った。
「海で、めいっぱい暴れる。最高な暮らしじゃねえか」
「おいおい……暴れるためだけに海に出るのか? 無闇な殺生はまっぴらだ」
フランソワは思わず吹き出した。エドガーは顎を上げ、灯の影に悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「いや、標的は決めてしまえばいい」
「標的?」
「お前らから自由を奪った奴らに一矢報いるんだよ」
ジョッキの底を指で叩きながら、エドガーは低く続けた。
「——そう、フランス海軍にな」
フランソワは言葉を失い、数秒ののちに腹の底から笑い出した。
「最高じゃねえか。さすがエドガー、悪知恵がよく働く」
エドガーはにやりと笑い、手元のジョッキを軽く揺らした。
「海賊船団を新たに立ち上げれば、お前もあの傷の若造も、海で過ごせる。暴れたい奴らを募って海軍を沈めて、また島に戻る。……良い生活サイクルだとは思わないか?」
フランソワは目を細め、噴き出すように笑った。
「まったく同じことを考えていたぞ」
そう言ってフランソワは手元の瓶を取り、エドガーのジョッキに酒をなみなみと注ぎ、自分のジョッキを取り上げ、真っ直ぐエドガーに向ける。
「じゃあ、約束だ。今度、俺たちの船団で海に出よう。新しい船出を、お前と共に迎えたい」
エドガーは満足げに頷き、腕を伸ばしてジョッキを掲げた。笑い声と酒の匂いが立ち込める中、二人の背後からゆっくりとした足音が響いた。長老がいつの間にか戻ってきて、薄く笑みを浮かべながら二人を見ていた。
「お前ら……友人同士というより、悪友だな」
フランソワは片目をつむり、ジョッキを掲げて言い返した。
「長老も祝ってくれよ。俺たち、再び海に出るんだから」
長老は低く笑い、傍らの卓上にあった自分の杯を手に取った。
「じゃあ、こうしよう。お前ら、約束しろ。どうせ海に出るなら、大物になれ」
エドガーが笑い、フランソワが頷く。三人はそれぞれの杯とジョッキを高く掲げ、灯りに透かして見つめ合った。
「新しい船出に」
「新生フランソワ海賊団に」
「そして、新たな伝説の誕生に」
カン、と音が重なり、三つの杯がひとつに交わった。その響きは石壁を伝い、静かな夜のトルチュ島に沁み渡っていく。
外では黒く広がる海がまるで生き物のように波を揺らし、二人を呼ぶかのように騒めいていた。
風は過去の残滓を運び、波間に光を反射させ、これから始まる物語の序章を照らしている。




