第八章④ フランソワと長老
長老がゆっくりと彼らを見回した。琥珀色の瞳の奥には、先ほど見た羅針盤の紋章が深く刻まれていた。静かに腕を組み、ひとつ息を吐く。
「……なるほどな」
誰にともなく漏らしたその呟きに、ルキフェルたちは顔を見合わせる。長老はしばし黙し、おもむろに口を開いた。
「お前たちに、見せたいものがある」
反射的にマテオが眉をひそめる。
「……これ以上に何があるってんだよ」
長老はニヤリと口元を歪める。
「ふふ……見ればわかるさ」
そう言うと、彼は奥の壁へと歩み寄る。古びた石壁の一部に手をかけ、何かを押し込むとカチリ、と乾いた音が響いた。すぐに重々しい錠の音が続く。カラクリ仕掛けの扉がゆっくりと開き、冷たい空気が流れ出た。灯を手にした長老が先に進むと薄暗い部屋の中に、石で組まれた祭壇が姿を現す。その上には黒旗、錆びついた剣、羅針盤、海図、古びた酒瓶。数え切れぬほどの航海の遺物が並べられていた。
長老は祭壇の前で立ち止まり、深く一礼するように頭を垂れる。
「……この部屋は、伝説の海賊たちを讃えるためのもの」
ジャスパーが眉をひそめながら口を開く。
「えっと、品が沢山あるけど、伝説の海賊が使ってた物ってこと?」
長老はちらりとジャスパーを見やり、穏やかに頷いた。
「まあ、そういう言い伝えがあるってことだ。ここに祀った品々については、代々先祖から伝えられている。いわば伝説たちの遺産だな」
彼の言葉にニールが感嘆の声を漏らす。
「伝説の海賊……。船乗りの間で語られた、御伽噺の存在じゃないか。バッカニアの末裔がこうして遺産を祀ってるなら……彼らも、確かに実在したんだ」
ルキフェルは黙って祭壇を見つめていた。しばしの沈黙のあと、かすかに呟く。
「……ああ。そうみたいだな」
長老はゆっくりと振り返った。その瞳に宿る光は、先ほどよりも鋭くなっている。
「お前たちは近づくな。この祭壇の前に立てるのは、大物の匂いを醸し出す奴だけ」
長老はゆっくりと首をめぐらせ、その目が一人の男を捉える。フランソワ。長老の口元がわずかに笑んだ。
「お前にだけは、近づくことを許可しよう。さあ、伝説たちにその顔を見せるといい」
空気がひときわ張りつめた。フランソワは一歩、また一歩と祭壇の前に進み出る。石畳の床が靴底を通してわずかに鳴り、響きが空間に吸い込まれていた。品々のそばには磨かれた金属板が一枚ずつ添えられている。
それぞれの板には、名が彫られていた。〈ヘンリー・モーガン〉、〈エドワード・ティーチ〉、〈バーソロミュー・ロバーツ〉……どれもが、海の男なら一度は耳にしたことのある怪物たちの名だった。
灯火に照らされた金属板は、まるで自らを誇示するかのように輝き、フランソワの瞳に反射して彼の胸を圧迫する。息が詰まりそうな重圧の中、フランソワはそれでも背筋を伸ばした。そんな彼の横で、長老がぽつりと呟く。
「……まあ、ガキどもにはああ言ったがな」
フランソワがわずかに目線を動かすと、長老はにやりと笑っていた。その瞳は、全てを見透かした者のものだった。
「知られたくないんだろう? その紋章の主人のことを」
フランソワの肩がびくりと震えた。驚愕のまま、押し殺すように言葉を漏らす。
「なぜ、わかった?」
長老はわずかに肩を竦め、笑いを含んだ声で返した。
「まあ、そんな雰囲気を醸していたからな」
長老は祭壇の中央を指さした。
「その羅針盤を、ここに飾らせてもらってはくれないか?」
フランソワは息を呑み、長老は続けた。
「十五年前に死んだ大海賊、ゼフィランサス。あいつも今じゃ、伝説のひとりだ。ヨーロッパの海を荒らしまくった話は、この西の果てにも届いてる。——伝説入りするのに、十分だとは思わないか?」
祭壇の火がふっと揺れた。その揺らめきが、まるで過去の亡霊が微笑んだようにフランソワの心を射抜いた。長老の言葉に、フランソワはしばし動けなかった。
——ゼフィランサス。その名が、脳裏に焼きついたように離れない。思えば、あの男はどこまでも周囲を巻き込み、引っ掻き回し、数多の人生を壊していった。伝説の響きがあまりにも潔白すぎる。あの男にそんな称号を与えることは、冒涜に等しいが……。
フランソワの視界の端で、ルキフェルが仲間たちと笑っているのが見えた。祭壇の光が届かない彼らの姿は、まるで別の時代に生きているようだった。
——何も知らないままでいい。彼の笑顔を曇らせるくらいなら、この羅針盤ごと過去を封じてしまえばいい。
フランソワは息を吸い、羅針盤を懐から取り出した。未だ石に押さえつけられた針は沈黙している。かつて帰るべき場所を指し示した針は、いまや沈黙をもって持ち主の罪を告げているようだった。
「……そうだな」
フランソワは祭壇の中央へ歩み寄った。黒旗の影が彼の頬をなぞる。フランソワが羅針盤をゆっくりと掲げると祈るように置いた。
「伝説に名を連ねる価値があるかどうかは……あんたらが決めてくれ」
そう言って、フランソワは片手を離した。羅針盤が祭壇に触れた瞬間、どこかで小さく風が鳴く。火が揺れ、黒旗がひとりでに揺れた。まるで海の底から何かが息をしたようだった。長老は目を細め、ゆっくりと頷く。
「よくわかってるじゃないか。伝説ってやつの、皮肉な成り立ちを」
フランソワは何も答えず、ただ背を向けた。祭壇の上の羅針盤が、炎の光を反射して一瞬だけ赤く光る。フランソワの肩越しに、長老が呟いた。
「今夜、俺の屋敷で語り合おうじゃないか。伝説の一端を」
フランソワは足を止めた。振り返りもせず、わずかに顎を引いて吐き捨てる。
「……うるせえな」
フランソワはひと呼吸置いて、どこか苦味を滲ませながら言い放った。
「仕方なくだ。エドガーも連れて、嫌と言うほど聞かせてやる」
そう言い残し、彼は再び歩き出した。羅針盤を失った掌が、まだじんわりと熱を帯びている。ルキフェルが軽く片手を上げて声をかけた。
「なんかあったか?」
フランソワはふっと笑い、首を振った。
「いや、なんでもねえさ」
笑みは柔らかかったが、眼の奥には言葉にできぬ影が宿っていた。それでも彼は軽く手を振りながら言う。
「さあ、帰るぞお前ら。良い勉強になったな」
仲間たちは互いに顔を見合わせ、ほっとしたように頷いた。その直後、奥から足音が近づき、長老が現れた。
「帰りも送ってやろう。再三言うが、このことは口外禁止だ」
厳しい声音に場が再び凍りつく。ジャスパーが苦笑いを浮かべ、肩を竦めて言った。
「大丈夫だ。恐ろしすぎて、誰にも言えないよ」
他の面々も引き攣った笑みを交わしながら頷いた。その様子を見届け、長老は満足げに笑う。
「それでいい」
その笑い声が湿った石壁に反響して、何度も何度もこだました。まるで、地の底に潜む何かが嗤っているかのように、いつまでも尾を引いていた。それが止むのを待つようにして、ルキフェルたちは祭壇の間を後にする。
外へ出れば、夜風がひんやりと頬を撫でてきた。ランタンを掲げた長老が無言で先を歩き、石段を上る。彼の足音だけが地下の闇にコツコツと響いた。やがて一行は小舟に乗り込み、静かな海へと漕ぎ出した。
ルキフェルは遠ざかっていくポート・ロイヤルを見つめていた。あの向こうに、彼の知らない大陸が広がっている。二度と足を踏み入れることのない土地。
長老の言葉、「バッカニア一族の伝承」も「来訪者」も、どれもが現実離れした幻のようだったが、胸の奥に鈍く残っていたのは得体の知れない警告の響きだった。
「……変な夜だったな」
ジャスパーが呟く。
「おい、寝言言うな。夢じゃねぇぞ」
フランソワの声はどこか空気を和らげようとしているようでもあった。ルキフェルはそんな二人のやり取りを聞きながら、無言で海を見ている。月のない海原は、まるで墨を流したように黒かった。
やがて、舟はトルチュ島の岸に着く。夜はすっかり更け、港の方からは喧騒がかすかに聞こえた。長老とフランソワは管理人の屋敷に残り、五人組は別れて坂道を下り始めた。街灯代わりの松明が風に揺れ、影が石畳を踊る。誰も口を開かず、それぞれの胸の中でさっきの出来事を反芻していた。ブエソルの食堂はいつも通り明るい。五人組はテーブルを囲み、いつも通りの顔ぶれで夕食をとっていた。ただ誰も、今日のことには触れなかった。
「明日、船底の修理が入るんだっけ?」
ニールが無理に明るい声を出すと、ジャスパーが肩をすくめた。
「そうそう。……ああ、ロープの在庫も確認しておかねえと」
そんな他愛もない会話が続くが、言葉の合間に生まれる沈黙はやけに重く、誰もそれを破ろうとはしなかった。口にすれば、何かに取り憑かれるような気がして。
ルキフェルはそんな沈黙を、くだらないと思いながらも受け入れていた。船乗りは迷信深い。航海に出る者は風と波、そして見えないものを恐れずにはいられない。
その夜、五人のうち誰ひとりとして来訪者という言葉を口にしなかった。やがて食器の音だけが響き始め、会話は潮のように引いていく。
「……それじゃ」
「おう、また明日な」
軽い挨拶を交わしながら、一人、また一人と階段を上がっていく。ルキフェルも空になった皿を手に取り、台所へ向かった。
「ごちそうさん」
流しの前で、カルロータが髪をまとめながら振り返った。
「お粗末さま。あんたたち、今日はずいぶん静かじゃないの」
「……ちょっと疲れただけさ」
ルキフェルは曖昧に笑い、食器を置くと階段を上がった。二階の部屋に入ると、窓を開け放った。夜風がカーテンを揺らし、遠くにラ・カレータと夜の階段が見えた。波打ち際には微かな灯が点々と続き、それが眠らぬ島の心臓の鼓動のようにも見える。羅針盤はフランソワの手に渡ってしまった。ルキフェルは窓辺に肘をつきながら呟く。
「……あの紋章、どこかで……」
記憶の底を掘り返そうと目を閉じた瞬間、瞼の裏から黄金の瞳がじっとこちらを見つめてきた。
あの遠い記憶の中で感じた視線。思わず身を震わせ、邪気を払うように頭を振った。
再び静寂。耳を澄ませば、遠くで波の音が寄せては返す。それに集中しているうちに、瞼が重くなっていった。ルキフェルは寝台に潜り込み、深く息を吐いた。
先ほどの黄金の瞳はもうない。ほっとした。
明日になれば、すべてが夢だったと思えるかもしれない。




