第八章③ フランソワ
ルキフェルは無言で室内を見回し、フランソワは喉を鳴らした。ジャスパーは息を呑み、ニールは目を輝かせて金属板に駆け寄る。マテオは足元の歯車を拾い上げ、コリンは目の前で広がる光景に圧倒されていた。長老は彼らの反応を一瞥し、言葉を継いだ。
「バッカニアの連中は自由を望んだが、自由には必ず境界がある。その境界を越えた者は戻れなかった。新大陸も、そうだ」
長老の言葉に誰も口を挟まなかった。しんと静まり返った地下室の中で、ひときわ場違いなほど素朴な声が響く。
「なあ、さっきから口にしてるバッカニアって、なんだ?」
ジャスパーだった。周囲の重苦しい空気に気圧されつつも、興味のほうが勝ったらしい。長老はちらりと彼を見やり、煙管を口にくわえた。
「——バッカニア、か。昔、この海域には獣のような連中がいた。フランス、イングランド、ネーデルラント、スペイン……。それぞれの国で使い捨てられた水夫、追われた私掠船、罪人、奴隷上がりの男たち。祖国に居場所を失った連中が、カリブの小島——トルチュに集まったのが始まりさ」
長老の声には、教本では触れられぬ実感があった。
「奴らは最初、豚を狩って干し肉を売るただの猟師だった。ブーケニエ、『ブーケ肉を焼く者』って意味だ。だが、次第に船を持ち、銃を持ち、群れを作り、やがて海賊になった。獲物はスペイン船。当時、スペインはこの海を独占してやがったからな。他国の人間にとっては、奴らを襲うことが唯一の自由の証だった」
長老は机の上の古びた地図を指先でなぞる。指が止まった場所はジャマイカの南西、ポート・ロイヤル。
「バッカニアの時代は長く続かねえが、奴らが築いた自由の港があった。ポート・ロイヤル。当時は世界で一番豊かな街と呼ばれた。金も女も酒も、全部ここに集まった。だが——」
彼はそこで言葉を切った。煙管の火種が赤く光り、静かに揺らめく。
「ある日、地面が割れた。一瞬で街の半分が海に呑まれた。建物も、人間も、財宝も、全て。神罰だと言う者もいりゃ、地の底から何かが出たと言う者もいた。だが、誰も確かめられねぇ。港ごと沈んじまったからな」
長老は再び地図に目を落とし、かすかに笑った。煙が細く立ちのぼり、闇に消えていく。ルキフェルが眉を寄せて、ぽつりと呟いた。
「わかんねえな。……大昔の話ってのは理解してる。それでも、ポート・ロイヤルは今も栄えてるし、地震の痕跡も跡形もまるでない。どうやって建て直したんだ?」
彼の問いに長老は薄く笑った。
「そこから先は、表の歴史には載っちゃいない。……島の裏側の話になる」
長老は背後の壁に手を当て、灯を一つ灯した。淡い光が宝物庫の壁に散らばると古びた地図や金細工の間から呼吸するように陰影が浮かび上がる。
「——“来訪者”が現れた。新大陸が発見された頃、突如現れた正体不明の存在さ。上陸を試みた探検家や軍人たちは、一人残らず姿を消した。なぜか? 奴らと接触した者たちは、生きて帰ってこなかったんだ。……いや、姿を消したと言う方が近いか」
長老の目が深く沈む。
「バッカニアどもは征服を諦め、来訪者と共存を選んだ。お互いが干渉しない代わりに、この海域を管理する権利を与えられる。……そして対価として、ポート・ロイヤルは再び海の上に築かれた。それが、地震で沈んだはずの街が何事もなかったように蘇った理由さ。表の記録じゃ再建って書かれてるが、実際は戻されただけだ」
長老はゆっくりとルキフェルたちを見渡した。
「以来、バッカニアは管理人として島々を見張り、守ってきた。世襲で受け継がれた任務は二つ。一つは地の秩序を保つこと。もう一つは、新大陸に触れようとする者を、見つけては排除することだ」
彼は口の端を吊り上げ、どこか誇らしげに言った。
「つまり、この海域で暴れ回った海賊たち。その子孫が俺たち管理人ってわけさ」
沈黙を破ったのはマテオだった。
「……信じられねえな」
マテオの横で、ニールが不安げに眉を寄せた。
「それ、僕らに話して大丈夫なの……?」
長老はわずかに口元を歪めた。
「もちろん口外禁止だ。ここで聞いたことは、墓まで持っていくんだな」
そう言って、彼は懐から古びた懐中時計を取り出し、ゆっくりと蓋を開いた中には奇妙な刻印が彫られている。波の紋様と三つの星。
「来訪者の言葉では、新大陸は触れてはならない領域。この世界における、知性と文明の異常進化の起点だという。奴らはこの世界に干渉するのを防ぐため、完全に封鎖したと」
ルキフェルが言葉を失う中、長老は続けた。
「だが、バッカニアたちは違った。彼らは最初の開拓者であり、略奪者であり、そして最初の取引者。来訪者の警告を受けて大陸進出を諦める代わりに、トルチュやこのポート・ロイヤル周辺を治める番人となることを選んだ」
灯火がゆらめく。長老の声は次第に低く、重くなっていった。
「その契約の報酬として、彼らは得た。治外法権のような自治権。異国の文物と財宝の流通。そして何より、外の世界からの干渉を遮断された楽園。監視と排除は見返りとしての任務だ」
ニールが視線を落とし、ぽつりと呟く。
「新大陸は夢の象徴だった……でも、夢を叶えようとした人たちが皆消されたなら、それはもはや呪いだね」
フランソワが腕を組んで、肩をすくめた。
「夢なんかより、俺は今生きてることの方が大事だな。死んじまったら何も残らねえ」
その中で、コリンだけが真剣な面持ちをしていた。
「でも……この先に、もっと進歩した文明があると思うと……どうしても諦めきれない」
長老はその言葉に小さく目を細めた。
「……やれやれ、若いな。だがその好奇心が、この島を何度も災いに巻き込んできた。忠告しておくぞ。お前たちも、あまり深入りしないことだ。境界に触れた者は、もう二度と元の海には戻れない」
誰もが言葉を失ったまま、ランプの明かりが揺れるのを見つめている。やがてルキフェルが息を吐き、口を開いた。
「その来訪者とやらは……どんな奴だった?」
長老は腕を組んだまま、古びた石壁を見上げた。長い間、何かを思い出すように目を閉じ、やがて唸るように語り始める。
「それがな。奴らを見たという者は皆、口を揃えて違うことを言うんだ。 男と言う者もいれば、女だったと言う者もいる。いや、性別などなかったと言い張る者までいた。ひとりだったという話もあれば、幾人もいたと主張する者もある。姿も形も、誰一人として同じ証言を残していない」
ルキフェルは眉をひそめる。長老はゆっくりと首を振った。
「だが、ひとつだけ共通している。皆、『奴らは上から来た』と言っていた。『空から落ちてきた』とも、『先の時空から現れた』とも。どんな言葉で飾っても、我々には理解できなかった。ただ、『来た』という事実だけが残ったんだ」
長老は深く息を吐き、どこか遠いものを見るように視線を落とした。
「だから、『来訪者』と呼ぶしかないのさ。名も形も、意図もわからぬ。ただ現れた存在。名をつけるには、あまりにも人間離れしていた」
フランソワが目を細めて吐き捨てた。
「……化け物ってことか」
長老は肩をすくめ、薄く笑った。
「化け物か、神か。それを決めるのは、いつだって後の世だ。だがな、奴らに関して言えるのはひとつ。この世界の理を超えた何かってことだ」
その瞬間、地下の奥で微かに風が動いた。ぽつりとジャスパーが呟く。
「……これ以上は、触れないほうがいいな」
いつもの軽薄さが欠片もない。まるで、何か見えないものに気づいたような声音だった。ルキフェルが目を細める。
「なんでだ。根拠は?」
ジャスパーはしばらく答えず、暗闇の奥を睨んでいた。それから、ゆっくりと視線をルキフェルに戻して言い放つ。
「——勘だ」
ルキフェルは目を細めたまま、わずかに息を吐いた。
「……じゃあ、そうなんだろうな」
いつもの掛け合い。いつもなら笑いが起きるところだったが、この時ばかりは誰も笑わなかった。コリンが小さく喉を鳴らし、ニールが無意識に肩をすくめる。フランソワは「やめてくれよ」と呟き、マテオは眉間に皺を寄せて周囲を見回した。なにかが、確かに聞いていた。誰も言葉にできず、冷たい風が地下の奥から流れてくるのを感じていた。
まるで遠い昔に封じられた来訪者が、彼らの話を聞いているかのように。
「……なあ」
沈黙を破ったのはマテオだった。
「さっきから、カチ、カチッて音、してねえか?」
全員が一斉に耳を澄ます。最初は波の音かと思ったが、違う。乾いた、機械のような律動が確かに響いている。どこかから、まるで時を刻むように。ルキフェルだけが目を細め、音の出所を追った。足音を立てずに近づき、やがて立ち止まると、ゆっくりと上着の内ポケットに手を入れた。
——カチ、カチ、カチ、カチ。
指先に触れたのは、冷たい金属の縁。取り出したのは、昨日から入れっぱなしにしていた小ぶりな羅針盤。蓋を開けた瞬間、針が暴れ出す。北も南も分からぬほど激しく、狂ったように盤面を叩き続ける。音の正体はそれだった。
「……狂ってやがる」
ルキフェルの低い声に、誰も何も返せなかった。彼らの視線の先で、羅針盤の針はなおもあり得ぬ方向を指していた。
「……あのさ」
沈黙を破ったのはコリンだった。青ざめた顔のまま、唇を震わせる。
「ニ、ニール……言ってたよね……? 新大陸に近づくと、羅針盤が狂うって……」
ニールの喉がごくりと鳴った。誰もがその仮説をただの冗談、あるいは都市伝説の一つとして聞き流していた。だが今、目の前で針が暴れ狂っている。その瞬間、四人——ジャスパー、マテオ、ニール、コリンの間で理性が吹き飛んだ。
「う、うわああああああっ!!」
「で、出たあああああ!!!」
「やめろってマジで無理無理無理!!!」
「おれら呪われたああああ!!!」
洞窟じみた地下の空間が反響音で一気に地獄と化した。あまりの絶叫に、外の門番が「何事だ!?」と腰を抜かすほど。
「うるせえ!!!」
ルキフェルの怒鳴り声が響き、手の中の羅針盤が勢いよく床に落ちた。カラン、と乾いた音を立てて転がり、やがてフランソワの足元で止まる。
「まったく、どいつもこいつも騒ぎすぎだろ」
ルキフェルが頭をかく横で、フランソワは無言でそれを拾い上げた。手のひらに乗せた瞬間、息を呑む。蓋の表面に刻まれた、見覚えのある紋章。風を裂く、鳥の頭と双剣の刻印。
「……まさか……」
彼の声がかすれた。かつてゼフィランサス海賊団の船長、あの大海賊ゼフィランサスが持っていた羅針盤とまったく同じ意匠だった。ルキフェルが眉をひそめる。
「どうした、フランソワ?」
フランソワは答えなかった。ただ無言で羅針盤を見つめ、震える指でその紋章をなぞっていた。時間が止まったかのように。
——遠い記憶の底から、波音が蘇る。
まだ若かった。十七歳のフランソワが初めてゼフィランサス船長の船に乗り、エル・イエロ島を離れた朝。陽は白く、帆は風をはらみ、甲板の上には潮の匂いと期待が満ちていた。
「フランソワ、これを見ろ」
呼び止めたゼフィランサスは、くたびれた革の上着の内ポケットから銀色の羅針盤を取り出した。
「……羅針盤ですか?」
フランソワが首を傾げる。蓋の表面には、鳥の頭と双剣の紋章。船団の旗印が刻まれていた。
「この紋章、うちのやつですよね」
「そうだ」
ゼフィランサスは応じ、親指で蓋を押し上げた。中の針は北を指してはいなかった。
「この針……壊れてるんじゃ?」
「馬鹿野郎」
ゼフィランサスは笑いながら、羅針盤を陽に翳した。彼の笑みには、若いフランソワの知らない深い影があった。
「これはな、ただの羅針盤じゃない。こいつは常にエル・イエロ島を指してる」
「エル・イエロを?」
「ああ。どこへ流されても、何を失っても……こいつがあれば、オレたちは帰る場所を見失わない」
ゼフィランサスは羅針盤を胸に当て、そっと言った。
「海で生きるってのは、居場所を賭けるってことだ。だからせめて、帰る道くらいは覚えておけ」
フランソワは、言葉の意味をまだ理解できなかった。ただ、風と共に笑う船長の横顔だけは覚えている。
意識が現に引き戻された。
湿った地下の空気。遠くで滴る水の音。気づけば、羅針盤はフランソワの掌の中にある。彼の瞳には、懐かしさと恐怖が入り混じっていた。針は止まる気配もなく、カチカチと苛立たしい音を響かせている。
「……騒がしいやつだな」
フランソワが舌打ち混じりに吐き捨てると、足元の石をひとつ拾い上げ、迷いなく羅針盤の蓋の隙間にねじ込んだ。金属がきしみ、針の動きが石に遮られて、やがて音が止まる。湿った地下室に静寂が戻った。フランソワは息をついて、ゆっくりとルキフェルの方へ視線を向けた。
「これ……どこで手に入れた?」
彼の唐突な問いに、ルキフェルは首を傾げた。
「市場。キャプテンストリートで見つけた。見覚えある気がして、つい」
「へえ」
フランソワはぽつりと零した。声は穏やかだったが、握る手の中で石が軋んでいる。
——なんで、あいつがこれを……?
喉の奥がひどく乾いた。心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響く。
よりによってルキフェルが、こいつはゼフィランサスの遺品だ。確かに、船長の手にあったはずだ。汗が背筋を伝う。フランソワは俯いて、わざと深く息を吐いた。表情を悟らせぬように、いつもの調子で笑う。
「市場か。ずいぶん物騒なガラクタが出回ってるもんだな」
ルキフェルは気にも留めず、肩をすくめて笑う。
「まあな。だが、見た目のわりに壊れてない。妙に頑丈だ」
「……そうか」
フランソワは再び羅針盤を見つめた。蓋を閉じれば、彼が二度と目にしたくなかった船長の証が現実をうきつけてくる。
——クソッ。どこでどう流れた……?
わずかに震える指を、フランソワはズボンの裾で誤魔化すように拭った。誰にも気づかれないように。ひと呼吸おいて、彼は柔らかく笑った。
「これは……贋作だな。北を指さない羅針盤なんて、使い物にならないぞ」
「……贋作、って……」
ルキフェルが戸惑いながら言いかけた瞬間、フランソワは迷いのない手つきで羅針盤を自分の懐にしまい込んだ。
「俺が市場に返してくる。これは、俺が預かろう」
途端、周囲の四人が声を上げる。
「えー! なんだよそれ、ルキフェルのだよ!」
「僕、もっと見たかったのに!」
「返せ返せー!」
「フランソワ、ずりぃ!」
一瞬にして軽い喧騒に包まれたが、フランソワは騒ぎをまるで耳に入れていないようだった。穏やかに微笑みを保ったまま、その奥に凍りつくような沈黙を抱えている。
ゼフィランサス。その名を思い出すたび、胸の奥が焼けるように痛んだ。
ルキフェルには、あの男の影など一切触れさせない。
どんな真実がそこにあろうとも、あいつがルキフェルを苦しめたことに変わりはない。
この羅針盤だけは、絶対に彼の手には戻させない。




