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第9話 ~哲人side~ いじめられなかった僕たち

 「いじめられていたの」


 二年次から転入してきた相沢さんは、みんなに話す最初の一言をそうした。


 教室の空気が変わる。


 目には見えない。


 けれど確かに変わった。


 鍵が開くみたいだった。


 「私なんて中学のとき三か月くらい完全に無視」


 誰かが言う。


 「俺は教科書捨てられた」


 「私は先生も知らん顔だったな」


 一人が話し始めると、次々に続いた。


 年齢も性別も関係なかった。


 昨日まで名前も知らなかった人たちが、傷だけを持ち寄る。


 傷の形を確かめ合うように。


 不思議な光景だった。


 まるで合言葉を知る者だけが入れる部屋みたいだった。


 僕はその輪の外にいた。


 話題は自然と、


 どれだけ酷い目に遭ったか、


 どれだけ学校へ行けなくなったか、


 そんな話へ流れていく。


 前の学校では違った。


 成績。


 偏差値。


 模試の順位。


 どこの大学へ行くか。


 人を測る物差しはいつも同じだった。


 けれどここでは違う。


 傷が通貨だった。


 深ければ深いほど価値がある。


 そんなふうに見えた。


 もちろん、本当にそういうわけではない。


 ただ僕にはそう見えた。


 異国へ迷い込んだみたいな気分で、その輪を眺めていた。


 「なんか『グレイテスト・ショーマン』みたい」


 相沢さんが笑った。


 何人かが笑い返す。


 「わかる」


 「ちょっとわかる」


 僕だけがわからなかった。


 映画のことではなく、


 その笑い方が。


 「ユキちゃんは?」


 相沢さんがそう言った。


 そのとき初めて、僕は逢川さんの名前を知った。


 ユキ。


 なるほどと思った。


 妙に似合っていた。


 逢川さんは少し首を傾げた。


 「私、いじめられたことないんです」


 一瞬だけ静かになった。


 本当に一瞬だった。


 けれど確かに静かになった。


 空気がわずかに止まる。


 誰も気づかないくらいの時間。


 相沢さんは笑顔のまま、


 「へえ」


 と言った。


 それだけだった。


 それだけなのに、その声は妙に耳へ残った。


 相沢さんの脂っぽい視線が逢川さんへ向く。


 白い髪。


 透けるような肌。


 淡い瞳。


 珍しいものを見る目だった。


 次は僕かもしれない。


 ふと思った。


 心臓が少し速くなる。


 いじめられたことはない。


 虐待もない。


 病気もない。


 何か人と違うものがあるだろうかと考えて、


 浮かんだのは二月二十九日生まれだということだけだった。


 四年に一度しか誕生日が来ない。


 それだけだ。


 自分でも情けなくなった。


 そのとき、チャイムが鳴った。


 教室中へ音が響く。


 僕は助かったと思った。


 心から。


 一限目が終わる頃には、相沢さんはもう輪の中心にいた。


 誰とでも話せる人だった。


 笑い声の真ん中には、いつも相沢さんがいた。


 僕にはたぶん無理なことだった。


 その輪から少し離れた場所で、


 逢川さんが振り返る。


 「さっき言ったんですけど」


 小さな声だった。


 「私、いじめられたことないんです」


 僕は頷いた。


 僕も同じだった。


 少なくとも、自分ではそう思っている。


 いじめたこともない。


 いじめられたこともない。


 ただ、どこかで壊れただけだ。


 逢川さんは少しだけ笑った。


 窓の外へ目を向ける。


 春の光が睫毛に引っ掛かっていた。


 「帰り、あの公園行きませんか」


 「あの公園?」


 「うん」


 彼女は頷く。


 「あそこ、落ち着くんです」


 その言葉を聞いた瞬間、


 胸の奥で何かが小さく灯った。


 暖房の消えた部屋に、


 誰かがそっと湯気の立つマグカップを置いていくみたいに。


 「うん」


 僕は頷いた。


 たったそれだけだった。


 けれど、その日の僕には十分だった。

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